法顕三蔵の話
西域求法僧(ぐほうそう)の一人である法顕三蔵(ほっけんさんぞう)が残した旅の記録をたどりながら、足かけ十四年にわたる旅の内容、四世紀末から五世紀初めにかけての仏教の状況、訪問国の実情、などをご紹介したい。
西紀前五世紀ごろにインド北部を流れるガンジス川の中流域で生まれた仏教は、二・三百年後にはインド全体に普及し、やがてあふれ出るようにインドから流れ出し、民族や文化の壁を越えてアジア全域に広まっていった。そして行く先々で人と文化の交流をうながし、アジアの文化水準を高めるために大きな貢献をした。これは仏教が世界宗教としての性格をそなえていたからである。
インドを出発した仏教の流れは、まず北と南に向かって進んだ。北へ向かった流れを北伝仏教といい、インド北部にそびえる山々を越えて中央アジアに伝わった仏教は、そこから東に向きをかえて、中国、日本へと伝わった。南へ向かった流れを南伝仏教といい、西紀前三世紀半ばにインド洋の真珠と呼ばれるスリランカに伝わった仏教も、東に向きを変えて東南アジアへと広まった。
仏教は東漸(とうぜん。東に広まる。漸は布に水がしみ込むように広まること)するという言葉は、こうした歴史を表している。ならば西方はどこまで伝わったのかというと、いちばん西にある仏教遺跡はトルクメニスタンのメルブ遺跡とされている。
中国に仏教が伝わったのは西紀前二年とされており、当初は渡来した西域の僧が経典の輸入や翻訳をしていたが、のちにその仕事は中国僧に引きつがれ、やがて仏教研究や聖地巡礼のために西域を目ざす中国僧も現れた。四世紀から八世紀にかけて多くの中国僧が求法巡礼のため西域を旅しており、その数は今日名前が伝わっているだけでも一六九名に達するという。しかし西域への道は遠く険しい命がけの道であった。
なお西域という言葉は中国の西の地域を意味するが、その範囲は時代によって異なっていた。つまり狭義にはタリム盆地一帯、広義には中央アジア全体が西域と呼ばれていたのであるが、ときには西アジアやインドまで西域に含めることがあり、ここではその一番広義の意味でこの言葉を使っている。また西域の読みには「せいいき」と「さいいき」があるが、どちらが正しいとも良いともいえないようである。
当時の西域旅行の記録は数点現存しており、法顕三蔵の法顕伝はその中で最古のものである。彼は西紀三九九年から四一二年までの十三年四ヵ月におよぶ旅の全行程を、九千五百字の簡潔な紀行文にまとめて残し、彼以後の西域求法僧の多くは法顕伝をたずさえて旅をしたという。
彼の生没年は確定しておらず、没年齢には八六歳説と八二歳説の二つがあり、八六歳説をとれば、出発は六四歳、帰国は七七歳、八二歳説をとれば、出発は六〇歳、帰国は七三歳となる。いずれにしても六〇歳を過ぎての出発、七〇歳を過ぎての帰国であり、よほど強靱な体力と精神力と菩提心の持ち主だったようである。彼の旅行の第一目的は戒律の研究にあった。当時の中国仏教にはまだ律蔵(りつぞう。戒律に関する文書)が完備しておらず、彼はそのことを深く嘆いていたのであった。
インドへの道
二点間の最短は直線であるから、中国からインドへ行くには、チベット高原を横切りヒマラヤ山脈を越えて行くのが最短の道のはずである。ところがインドや中国の僧がそこを通ったという話は聞いたことがない。これはヒマラヤが越えられないからではない。河口慧海師はチベット仏教を研究するため、大正時代にネパールのポカラからヒマラヤを越えてチベットへ密入国し、別の道でヒマラヤを越えてインドのダージリンへ戻るという旅をしている。ヒマラヤを越える道はたくさん存在しており、チベット人は昔からヒマラヤを越えていた。
チベット横断の道が利用されなかったのは、ヒマラヤではなくチベット高原に問題があったからと思われる。つまりチベット高原の北部には広大な無人地帯が広がっており、そこが通過できなかったため西へ大きく迂回した、ということである。そして法顕三蔵が利用したのもその西回りの道であったが、その道にも難所が二つあった。中央アジアの砂漠地帯と、パミール高原やカラコルム山脈などの山岳地帯である。
中国からインドへ行くには、どの道を通っても険しい山を越えなければならない。なぜインドの北部はすき間なく山にとり囲まれているのかというと、それには大陸の移動が関係している。大昔、インド亜大陸はアジアと陸続きではなく南の海に浮かぶ大きな島であった。それが移動してアジア大陸にぶつかり、そのぶつかった部分が盛り上がってヒマラヤ、カラコルム、ヒンズークッシュなどの山脈や、チベット高原ができたのである。
ネパールを旅行したとき、道端に新聞紙を敷いてアンモナイトの化石を売っているのを見たことがある。アンモナイトは太古の海に生息していた巻き貝のような軟体動物であり、その化石がヒマラヤ山中の国ネパールで採れるのは、地殻の変動で化石が山上に押し上げられたためである。インドは今でもアジア大陸を押し続けており、そのためヒマラヤ山脈はまだ成長を続けているという。なお大陸移動の原因は、大陸が溶岩の上に乗っていることにある。つまり大地は溶岩の上で常に動き回っているのである。
熱風悪鬼の砂漠
法顕三蔵は西紀三九九年、同じ志をもつ四人の僧とともに長安を出発し、一年半後の四〇〇年の秋ごろ、西域への出入口である敦煌(とんこう)の町にたどり着いた。このときには十一人に増えていた。
彼らは事前に旅費を用意して旅に出たのではない。出家はお金を所持してはならないという戒があるし、大金を持って旅をするのは危険でもある。だから彼らは行く先々の土地の有力者に援助を求めながら旅をしたのであり、それが可能なほど当時、仏教は中央アジアに広まっていたのであろう。しかし援助を乞いながらの旅は、時間がかかるし、苦労も多いと思う。
彼らの旅の速度が遅いもう一つの理由は、安居(あんご)という三ヵ月間の修行期間に入ると、旅の途中であっても一ヵ所に留まって修行したからである。また大きな町ではたいてい一ヵ月以上滞在しているが、これは休養と準備のための期間と思われる。
中国の西部にはゴビ砂漠からタクラマカン砂漠まで続く巨大砂漠が横たわっており、この砂漠は風によって砂がたえず移動するため流砂(りゅうさ)と呼ばれていた。西域旅行の難関のひとつが、夏は五〇度の灼熱地獄、冬はマイナス四〇度の酷寒地獄になるこの流砂であり、敦煌の西に広がる沙河(さが)と呼ばれる砂漠を通過した時の様子を、法顕伝は次のように伝えている。
「沙河中、多く悪鬼熱風(あっきねっぷう)あり。遇えばすなわち皆死す。一も全き者なし。上に飛鳥なく、下に走獣なく、遍望極目(へんぼうきょくもく。見わたす限り)、渡る所を求めんと欲して、すなわち擬する所を知るなし。ただ死人の枯骨を以て、標識となすのみ」
また梁(りょう)高僧伝には次のように記されている。「上に飛鳥なく、下に走獣なし。四顧茫々(しこぼうぼう。見わたす限り果てしなく)として、おもむく所を測るなく、ただ日を視て以て東西になぞらえ、人骨を望んで以て行路を標するのみ。しばしば熱風悪鬼あり。これに遇えば必ず死す」
これらは西域の紀行文の中でも特に有名なものであり、流砂を紹介するときには必ずといっていいほど引用されている。熱風悪鬼については他の紀行文でも同様の体験が報告されている。過酷な砂漠の旅で意識がもうろうとなり、幻覚を見たり幻聴を聴いたりしているうちに仲間とはぐれ、行方不明になる人が多かったというのである。
人骨をもって道しるべとする、というのも誇張ではない。第二次大戦の末期、情報収集のため西域に潜入した西川一三(かずみ)氏の旅行記を読むと、風葬の習慣があった中央アジアやチベットでは、草原や砂漠に放置された遺体が白骨になって至るところに転がっており、それらは風景にとけ込んでおもむきを添えていたとある。またラクダや馬の骨は道標になるからと道に放置されていたのかもしれない。なお西川一三氏が歩いた道こそが中国とインドを結ぶ最短の道であり、彼はチベット北部の無人地帯を二頭のヤクを連れて、ひと月かけて通過したのであった。
法顕三蔵の一行は、中央アジアの中心にあるタクラマカン砂漠をホータン川沿いに横断したが、その川を紹介するNHKのテレビ番組を見たことがある。崑崙(こんろん)山脈に水源があるホータン川は、山上の雪と氷河がとける夏の三ヵ月間だけ水が流れる。雪解け水が乾ききった河床に突如として現れ、山麓のホータンの町を通過してタクラマカン砂漠に流れこみ、四〇日かけて砂漠を五百キロメートル横断してタリム川に合流し、タリム川はさらにタクラマカン砂漠の北側のへりを東に向かって流れ、最後は砂漠の中へ消えていくというのである。
タクラマカン砂漠はタリム盆地の中にあるが、この盆地を流れる川が盆地の外に出ていくことはない。タリム盆地は中華鍋のような地形の低地になっているからであり、すぐ近くにあるトルファン盆地には海面よりも二百メートルも低い世界第二の低地があるから、タリム盆地のいちばん低い場所も海面下の標高だと思う。そのため川や湖の水は蒸発して消滅するのであり、そのとき塩分が蓄積されるためこのあたりには塩湖が多い。さまよえる湖として有名なロプ・ノールも砂漠の川の終点にできた塩湖である。
毒竜の嶺を越える
砂漠から山岳地帯に入った一行は、二ヵ月かけて葱嶺(そうれい)を越えた。葱嶺はタリム盆地の西にそびえるパミール高原からカラコルム山脈にかけての山々であり、山上に葱(ねぎ)のような植物が生えていることからこの名があるという。
「葱嶺は冬も夏も雪があり、また毒竜がいる。もし毒竜のご機嫌をそこなうと、たちまち毒風や雨雪を吐き、砂や石を吹き飛ばす。この難にあったものは、万に一人も安全な者はない」と法顕伝にある場所では、多くの旅人が嵐に遭遇して命を落としたという。
彼らはパミール高原からカラコルム山脈に入り、パキスタンの北部山岳地帯に南下したはずだが、国境が確定していないこともあって、この辺りの詳しい地図が入手できず、彼らが通った道どころか、パミール高原とカラコルム山脈のさかい目すら分からなかった。もっともはっきりとした道など無かったと思うが。
高原とはいってもパミール高原は、最高峰のコングル峰(七七一九メートル)を筆頭に七千メートル級の山々がそびえる高原であり、カラコルム山脈は世界第二の高峰K2(ケーツー。八六一一メートル)を主峰とする、八千メートル級の山が四座、七千メートル級が六〇座以上というヒマラヤにひけを取らない巨大山脈である。もちろん登山に行ったわけではないから山頂には登らないが、それでも五千メートル近い峠を越えねばならず、携帯酸素や便利な登山用具のない時代であるから、高齢の法顕三蔵にとってはつらい旅だったと思う。
なおパミール高原は現在は中国とタジキスタンの領土になっている。またカラコルム山脈はその多くがパキスタン領になっているが、パキスタン、中国、インドの国境が確定していない場所があり、その場所では地図によって国境線に違いがある。なお一九七八年にカラコルム山脈のクンジュラブ峠(中国名は紅其拉甫達坂。四七〇〇メートル)を越えて中国とパキスタンを結ぶカラコルム・ハイウェーが開通している。このカラコルム山脈とパミール高原を横断するハイウェーは、法顕三蔵が歩いた道と重なっている部分があるかもしれない。
インダスを下る
「葱嶺を渡り終えれば、そこは北インドである」と法顕伝にあるように、パキスタンは昔はインドの一部であった。しかし葱嶺を越えても難所が終わった訳ではなく、パキスタン北部山岳地帯のダレル国には、有名なインダス川上流の懸度(けんど)の難所があった。
そこはインダス川の両岸が垂直の崖になってどこまでも続くという難所であり、両岸の距離は八〇歩たらずなのに、下は千尋の谷になっていた。その垂直の崖にかろうじて人ひとり通れる道が作られていたが、それは道とはいっても、崖に穴をあけて横木を差しこみ、その横木の上に丸太が渡してあるだけ、という恐ろしい道であり、そうした丸太の道や、つるを編んで作った吊り橋を渡ること七百ヵ所と法顕伝は伝えている。
このダレル国の上流でインダス川とギルギット川が合流しているが、そこは三つの巨大山脈がぶつかる場所でもある。合流点の東側はヒマラヤ山脈、二つの川に挟まれた北側はカラコルム山脈、西側はヒンズークッシュ山脈なのであり、このことを覚えておくとこのあたりの地理が理解しやすくなるし、難所となっている理由もなんとなく納得できる。
彼らはさらに南下して、パキスタン北部のペシャワール市の北にあるスワットの谷に入り、西紀四〇二年の六月から八月にかけて、その中心の町ミンゴラのあたりで四度目の安居をおこなった。ペシャワールを中心とするガンダーラ国は仏教が非常に栄えた所であり、スワットの谷もガンダーラの一部であった。法顕伝はスワットの谷を次のように紹介している。
「ここでは仏教がたいへんに栄えていて五百の寺がある。僧の客が来るとことごとく三日間供養し、それから落ちつく所を求めさせる。仏が北インドにやって来たというのは、この国のことである」
彼らが通って来た道はガンダーラから中央アジアにぬける近道なので、難路ではあるが仏教僧によく利用されていた。だからこれが仏教北伝の最初の道だったのかもしれない。
これは私の想い出話であるが、パキスタンを旅行したときスワットの谷をミンゴラまで入り、点在するたくさんの仏教遺跡を見て回ったことがある。水とよく肥えた土地に恵まれたこの大きな谷に住む人々は、日本人に対してたいへん親切であった。
インドの中心に入る
スワットの谷での安居を終えた一行は、さらに南下してガンダーラの中心の町ペシャワールに入り、多くの聖地を参拝した後、アフガニスタンのジェララバードで冬の三ヵ月を過ごし、そこから南下して小雪山(しょうせっせん。パキスタン中央のスレーマン山脈)を越えた。ガンダーラから帰国した者や死亡した者もあって、この時は三名になっていた。
ところが小雪山で嵐に遭遇し、病身だった一人は歩けなくなり山中で死亡した。残された二人は号泣したが、そのまま前進するしかなかった。小雪山を越えてから五度目の安居をおこない、それからインダス川を渡って中インドに入った。西紀四〇三年のことで、出発してから四年半が過ぎていた。
中インドから東インドでは、仏教聖地をたんねんに回りながら仏教研究と写経に精を出した。パータリプトラ(現パトナ)には三年間滞在し、インドの言葉を学び、律を写した。長安出発の時から一緒に旅をしてきた道整(どうせい)は、中インドの優れた仏教や、修行僧の威儀に感動し、インドに永住することを決意した。仏になる日までインドに留まりたいを願ったのである。
法顕三蔵は律を中国に伝えることを旅の目的にしていたので、ただ一人出発してガンジス川ぞいに河口へ下り、河口ちかくの国でさらに二年間、経本や画像を写したあと、商人の船に便乗して海に浮かび、冬の初めの順風をえて十四日間の航海でスリランカに着いた。
スリランカ滞在
彼はスリランカ東海岸のトリンコマリーに上陸したようである。そして内陸のアヌラーダプラで二年間を過ごし、貴重な経や律を入手した。アヌラーダプラは仏教王朝だったシンハラ王朝の最初の都であり、仏教の発信基地になっていた。アショカ王の息子マヒンダによってスリランカに伝えられた仏教は、アヌラーダプラからスリランカ全土へ、そしてビルマ、タイ、カンボジアへと広まっていったのであり、これが南伝仏教である。
この都にはブッダガヤの菩提樹から株分けされた菩提樹と、釈尊の犬歯とされる仏歯(ぶっし)があった。仏歯は王権の象徴になっており、この古来から有名な仏歯にお参りするため、国内外から多くの参拝者が集まっていた。
前四八三年建国と伝えられるシンハラ王朝はその後、南インドのタミル族の侵入をくり返し受け、十世紀にはついにアヌラーダプラの都を放棄した。そして追われるように遷都をくり返しながら南下し、最後は山中の要害の地キャンディに都をおき、この高原の町でさらに三百年以上つづいたが、一八一五年に英国にほろぼされ二千数百年の歴史を終えた。王朝はほろびたがタミル族との内紛はまだ続いている。
私は学生時代にスリランカをひと月かけて回ったことがある。そのときは道づれが三人できたので海辺で泊まるときは海岸で野宿した。冷房のない安ホテルで寝るよりこの方が涼しいし、お金もかからず、星を見ながら寝ることもできる。ところが法顕三蔵が上陸したトリンコマリーでは真夜中に雷雨におそわれ、港の倉庫に逃げ込むという目にあった。
アヌラーダプラは今は緑に恵まれた静かな遺跡観光の町になっており、法顕三蔵がお参りした菩提樹は樹勢が衰えてはいるがまだ健在である。仏歯もキャンディの仏歯寺で今も多くの参拝者を集めている。キャンディは要害の地だけに行くには険しい道を通らなければならず、バスが速度を落とさずに崖の上の曲がりくねった道を突進していくのは恐ろしかった。キャンディの果物、とくに小さいマンゴーはおいしかった。
これらは私の旅の想い出であるが、法顕三蔵も旅の感傷にふけることがあった。アヌラーダプラの寺にお参りにきた商人が中国の扇をお供えするのを見て、故郷を思いだして涙を流したと書いているのである。そして逢う人も、話す言葉も、山も川も植物も、すべてが異国のものばかりの一人旅は、まだまだ続くのである。
インド洋を渡る
法顕三蔵は東南アジアをまわる南海路で帰途につき、手にいれた経本や仏像などとともに、商人の大船でスリランカを出発した。乗員は二百余名とある。出帆して二日ほどは順風に恵まれたが、その後は暴風雨となり船に水が漏りはじめた。浸水が止まらなかったので商人たちは船を軽くするため、あまり値打ちのない荷物から順に海へ投げ捨てた。
法顕三蔵も荷物を捨てたが経本や仏像を捨てることはできない。「私は遠くインドへ行き法を求めた。願わくは威神力によって目的地までたどりつかせたまえ」とひたすら観音菩薩に祈った。大風に吹かれて漂うこと十三昼夜にしてどこかの島に着いた。おそらくニコバル諸島かアンダマン諸島の島のひとつだったと思う。島の浅瀬で浸水箇所を修理し船はふたたび前進した。
方角を知る頼りは太陽と星だけという時代なので、天気が悪いと進路が分からなくなり(羅針盤の発明は十一世紀)、風まかせの航海なのに順風が吹くとはかぎらない。暗礁に乗り上げれば活路はなく、海賊の多い海域なので見つかれば命はない。そうした旅を続けてある国に到着した。それがどこなのか定かではないが、おそらくスマトラ島かジャワ島にあった国であろう。「この国は外道とバラモンが盛んで仏法は言うに足らない」と書き残した国で、五ヵ月間滞在したのは、適当な船がなかったか、施主がいなかったからであろう。
中国への帰還
西紀四一二年四月十六日、法顕三蔵は商人の船に便乗して中国の広州にむけて出発し、船上で安居した。この船の乗員も二百人ばかりとある。ところがひと月あまり航海した所でまたも大暴風雨に遭遇し、朝になるとバラモンたちが口々に言った。「仏教僧を乗せているからこの災難にあうのだ。この僧をどこかの島に置いていこう。一人のために全員を危険にさらしてはならない」
すると法顕三蔵を乗せてくれた商人が反論した。「あなた方がこの僧を下ろすなら、私も一緒に下ろしなさい。それでなければ、すぐさま私を殺すべきです。この僧を下ろしたら、私は中国に着いた時あなた方のしたことを国王に訴えます。中国の王は仏教をうやまい僧を重んじているのです」
この言葉で法顕三蔵は救われた。しかしその後も毎日のように雨が降り続いたため水夫は航路を誤り、出帆から七〇日たつと水も食料もなくなってきた。「五〇日で広州に達するはずなのに、もう七〇日を過ぎている。だいぶん違う所に来ているのではないか」
ということで進路を変更し、海岸を求めること十二昼夜にしてようやく海岸にたどり着き、水と食料を得た。彼らが着いたのは広州のはるか北の山東半島だった。黄海の対岸は韓国という半島である。こうして漂着というべき状況ではあったが、西紀四一二年七月十四日、法顕三蔵は目的を果たし、中国に帰還することができた。
その後、商人たちとともに船で南下して楊州(ようしゅう。長江北岸の町)に再上陸し、そこから長安に帰ることを願ったが戦乱のため行くことができず、建康(けんこう。南京)で仏駄跋陀羅禅師(ぶっだばっだらぜんじ。北インドの僧)とともに訳経に従事し、帰国の九年後に荊州(けいしゅう)の辛寺(しんじ)で亡くなった。
最後に法顕伝の後書きの一部をご紹介したい。この文には法顕三蔵の生涯と人柄が簡潔に表現されている。「この人はまことに古今希有の人である。仏教が東伝してより、いまだかって身を忘れて法を求むること法顕のような人はいない。至誠のあるところ通ぜざるはなく、志のあるところ成ぜざるはない。このような功業を為しとげたのは、常人の重んずるところ(身命)を忘れ、その忘れるところ(仏法)を重んじたからである」
参考文献
「法顕伝・宋雲行紀」長沢和俊訳注 東洋文庫 1971年
「仏教の来た道」鎌田茂雄 講談社学術文庫 2003年
「シルクロード」長沢和俊 講談社学術文庫 1993年
「新シルクロード百科」長沢和俊 雄山閣 平成6年
「西域余聞」陳舜臣 朝日文芸文庫 1984年
「秘境西域八年の潜行」 西川一三 中央公論新社 2001年 など
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