盤珪禅師の話

不生禅(ふしょうぜん)で有名な盤珪永琢(ばんけいようたく。一六二二〜一六九三)禅師の生涯とその教えを、弟子たちが書き残した語録を元にご紹介したい。

禅師は江戸時代初期の元和八年(一六二二年)三月八日に、現在の姫路市網干(あぼし)区浜田で生まれた。俗姓は菅(すが)氏、十七歳で赤穂の随鴎寺(ずいおうじ)の雲甫(うんぽ)和尚の元で出家し、その法嗣の備前三友寺(さんゆうじ)の牧翁祖牛和尚に参じ、二六歳で大悟して仏心を明らめ、祖牛和尚の法を嗣いだ。

嗣いだのは臨済宗妙心寺派の法灯であり、一六五六年に妙心寺第二一八世になり、一六九〇年に仏智弘済(ぶっちこうさい)禅師の号を賜り、一六九三年九月三日の遷化ののち大法正眼国師(だいほうしょうげん)国師と諡(おくりな)された。

網干に現存する龍門寺(りょうもんじ)は盤珪禅の根本道場であり、その教えが不生禅と呼ばれるのは、「不生の仏心」ということを禅師が常に説いていたからである。

盤珪禅師は小釈迦(しょうしゃか)と呼ばれたほど非凡な徳と力量の持ち主だったので、その元には多くの人が集り、出家の弟子だけでも四百余名、在俗の弟子にいたっては五万人を越え、廃寺を復興すること四七ヵ寺、勧請(かんじょう)されて開山となった寺は百五十ヵ寺といわれる。龍門寺も禅師が再興した寺の一つであり、また私が修行した神戸の祥福寺(しょうふくじ)も禅師が勧請開山になっている寺の一つである。そのためここからは呼びなれた「盤珪さん」と書くことにする。

祥福寺の開山は盤珪さんとなっているが、本当の開山は第三世の和尚だと聞いたことがある。祥福寺を開いた和尚は、盤珪さんを勧請して開山の徳をゆずり、本当の開山としての徳を師匠にゆずり、自分は第三世になったというのである。そうした心がけのお陰か祥福寺は神戸でも有数の大寺院に成長した。

盤珪というのは珍しい名前であるが、盤は大きな鉢、珪は玉(ぎょく)を意味するから、盤珪は洗面器のような特大の玉を意味するのであろうか。僧名の永琢の「琢」には「玉をみがく」という意味があるから、それに合わせてこの道号を付けたのかもしれない。

以下に盤珪さんの法話をご紹介する。これは盤珪さんの説法を弟子たちが書き残したものであり、独特の言いまわしは姫路あたりの古い方言のようである。少し読みにくいが味のある言葉だと思う。

     
しっかり話を聞けば法成就できる

盤珪さんは在家の人に向かって坐禅せよとは言わなかった。もちろんするなと言った訳ではないが、苦しい修行をしなくても自分の話を聞いて納得すれば、それでこと足りると太鼓判を押しているのであり、これが盤珪禅の大きな特徴である。そのため自分が行った修行のことを話すときにも、こんな前置きをしている。

「ただ今、みなの衆は、いかい仕合わせでござる。身どもなどが若き時分は、名知識がござらなんだか、又ござっても、不縁でお目にかからなんだか、殊に身ども、若い時分から鈍にござって、人の知らぬ苦労をしまして、いかいむだ骨を折りましてござる故に、懲り果て、みなの衆には、むだ骨を折らしませずに、畳の上にて、楽々と法成就させましたさに、精を出して、このように毎日々々出まして、催促することでござるわいの。

皆の衆は仕合わせなことでござるわ。このような法を説く人が、どこにござろうかいの。身どもが若き時分は、鈍にござって、むだ骨を折りました事を、みなの衆に話して聞かせましとうござれども、自然若き衆のうちに、身どもがように骨を折らねば、法成就する事はならぬように思わしゃって、骨を折りますれば、身どもがとがでござるによって、話して聞かせとうはござらねども、さりながら若き衆、よく聞かしゃれい。

身どもがようにむだ骨を折らいでも、法成就しまする程に、必ず盤珪がようにせいでも、法成就すると、先ずそう思って聞かしゃれい」

「刻苦(こっく)、光明かならず盛大なり」と叱咤激励するのが禅宗の常であるのに、むだ骨を折って修行をするなと言うのだから珍しい禅僧である。またこんなことも言っている。

「身どもがここに住してより、四十年来、よりより(たびたび)人に示しを致す故、この辺りには、善知識に勝(まさ)った者が多くできました程に、みなの衆もこの度、遠方より大儀してござった甲斐には、念にしかえぬように、不生の道理をとくと決定し、法成就して帰らしゃれい」

自分が説く不生の道理をとくと決定すれば、へたに修行した善知識よりも悟った人になると言うのだからたいへんな自信である。とはいえ坐禅を軽視していた訳ではないと思う。龍門寺には立派な禅堂があるから、修行者が坐禅に励んでいたのはまちがいのないことだし、盤珪さん自身も坐禅をして悟りを開いたのである。しかしどんなに苦しい修行をしても、方向がまちがっていれば無駄になるのは確かなことなので、盤珪さんはそれを心配していたのかもしれない。

     
とっくり聞いて決定さしゃれ

盤珪さんはいつも同じ話ばかりくり返していたらしく、語録にこんな話が載っている。

「ある和尚の、身どもに言われまするは、そなたも毎日毎日、またしても同じ事ばかりを示さずとも、あいだには少しく因縁故事物語をもして、人の心もさわやかに入れ替わるようにして、説法いたされい、と言われまする。

もっともそうでもござろう。身どもも鈍にはござれども、人の為になることならば、鈍ながら故事の一つや二つは、覚えようと思うたらば、覚えかねもしますまいが、そのようなことを示すは、人に毒を食わするようなものでござるわいの。身どもは、毒を食わせることは、まず得(え)しませぬ」

「身どもがこの会中(えちゅう)に毎日繰りかえし繰りかえし、同じ事ばかりを申しますが、先に聞いた人は、何度聞いても、聞くほど人々たしかにはこそなれ、聞いて妨げにはなりませず、いまだ聞かぬ人が毎日々々、代わり代わり来まする。

今日はじめて聞く衆が多くござれば、その衆のためには、また根本からとっくりと言うて聞かさねば、中途より聞く分では、落ちつかず決定(けつじょう)しませぬによって、聞く人のためになりませぬ。

それ故に同じことを繰りかえし繰りかえし、毎日々々申すことでござる。不断、会中にござる衆は、切々(せつせつ。たびたび)聞くほどたしかになりまする。・・・根本からとっくり聞かしゃれば、よく決定しまする。そうでござらぬか」

盤珪さんがいかに聞法(もんぼう)を大切にしていたかがよく分かる話である。とはいえ人前で話をするときには、誰しも聴衆に耳をかたむけさせたいという欲が出るものなので、同じ話ばかりしてられるものではない。それなのに仏心の話以外はすべて毒薬だとして同じ話ばかりくり返すのは、慈悲の極みというべきである。

     
仏心で一切が調いまする

「ただ人々の身の上の批判ですむことでござれば、すむにまた、仏祖の語を引こうこともござらぬ。身どもは仏法をも、また禅法をも言いませぬ。それ、なぜにと言いまするに、説こうようもござらぬわ。人人みな、今日の身の上の批判で相すんでらちの明くことなれば、仏法も禅法も説こうやうはござらぬ」

この言葉のように、盤珪さんは難しい仏教語を使わず、誰にでも分かるふつうの言葉で法を説いた人である。よほどの体験がなければこうしたことはできないはずだし、そしてその言葉が的確に迷いを消し、心の重荷を下ろしてくれたので、多くの聴衆が集まってきたのであろう。それでは盤珪さんは毎日どのような話をしていたのだろうか。

「親の産み付けたもったは、仏心一つでござる。余のものは一つも産み付けはさしゃりませぬ。その親の産み付けてたもった仏心は、不生にして霊明(れいみょう)なものでござって、不生で一切のことが調いまする。

その不生で一切のことが調いまする証拠は、みなの衆がこちらを向いて、身どもが言うことを聞いてござるうちに、後ろにてカラスの声、雀の声、それぞれの声が、聞こうと思う念を生ぜずに居るに、カラスの声、雀の声が通じ別れて、聞きたがわず聞かるるは、不生で聞くというものでござる。その如くに一切のことが不生で調いまする。これが不生の証拠でござる。

その不生にして霊明なる仏心にきわまったと決定(けつじょう)して、直に仏心のままで居る人は、今生より未来永劫の活仏(いきぼとけ)活如来(いきにょらい)でござるわいの。今日より活仏心でおる故に、我が宗を仏心宗と言いまする」

「不生で居ますれば、一切のもとで居るというものでござる。前仏(ぜんぶつ。過去の仏)の決定するところも不生の仏心、後仏(ごぶつ。未来の仏)の決定するところも不生の仏心、今日、末世なれども、一人でも不生で居る人あらば、正法が起こったというものでござる。皆の衆、そうでござらぬか」

「迷わにゃ、活きた仏でござるから、悟ることもいりませぬ。仏になろうとするよりも、仏で居るが造作がなくて近道でござるわいの」

以上が不生禅の教えのかなめであり、盤珪さんはこうした話を毎日説いていたのである。「不生であれば不滅なのは当然のこと」と言っているから、不生の仏心は不滅の仏心でもあるが、以上の言葉で不生不滅の仏心が納得できなかった人のために、もう少し盤珪さんの説法をご紹介する。

     
身のひいき故に迷う

「今、この場にござる衆は、一人も凡夫(ぼんぶ)はござらぬ。みな人々、不生の仏心ばかりでござる。凡夫でござると思わしゃる方がござらば、これへ出さしゃれ。凡夫は、どのようなが凡夫でござると、言うて見やしゃれ。

この座には一人も凡夫はござらぬが、この座を立たしゃって、敷居ひとつ越えて、人がひょっと行き当たるか、また、後ろから突き倒すか、あるいは、宿へ帰りて、子供でも、下男下女でもあれ、我が気にいらぬことを、見るか聞くかすれば、はやそれに貪着(とんじゃく)して、顔に血を上げて、身のひいき故に迷うて、つい仏心を修羅に仕かえまする。

その仕かえる時までは、不生の仏心で居まして、凡夫ではござらなんだが、一念、向こうなものに貪着し、つい、ちょろりと凡夫になりまする」

「みな賢き人でいながら、不合点(ふがってん)ゆえに、仏心を餓鬼に仕かえ、修羅に仕かえ、種々様々なものに仕かえて、餓鬼となり、あるいは修羅となり、畜生となりまする。

もし畜生などになったならば、もはや道理を聞くも、耳に入らず、たとい耳に入れども、人でいた時さえ、聞いて持たなんだほどに、畜生になったならば、道理を聞くもなお耳にたもつ智慧がなければ、地獄より地獄にうつり、畜生より畜生にうつり、餓鬼より餓鬼にうつり、生々世々、暗きより暗きに入り、輪廻きわまりのう、無量の苦しみを受けて、万劫千生があいだ、我が作りました罪業を、我れがまた叩きまするに、ひまがござらぬわいの。

一念ひょっと取りはずしましたれば、誰でもこうしたことでござる。ただ仏心を余の物に仕かえぬということを、よくよく合点したがよう御座る」

     
法成就すれば人の心肝が見ゆる

「決定すれば、その決定した場より、人を見る眼(まなこ)が開けて見えまする。身どもは人を見損ないはしませぬ。不生な眼は、誰にても同じ事でござる。それで我が宗を明眼宗(みょうげんしゅう)とも言いまする。また決定すれば、親の産み付けたもうた不生の仏心で居るゆえに、我が宗を仏心宗とも言いまする。

人を見る眼が開いて、人の心肝(しんかん)が見ゆるならば、法成就したと思わしゃれば、その時が法成就した場じゃほどに、身どもがただいま言うことを決定せぬ衆は、身どもがみなの衆を言いくらますように、当分は思わしゃれて、うけがわぬ人もござろうけれども、ここを去らしゃれて、以後、身どもが言うたことを、誰にでもあれ、誠にと決定さしゃった日がござらば、その日その時、その場を立たずして、人の心肝がみえましょう程に、その時はじめて身どもが、みなの衆を言いくらまさなんだことを知らしゃれう。その時の為に、ただいま精を出して、このように催促して、みなの衆の耳へ入れて置きまする」

盤珪さんが言う人の心肝が見えるというのは、相手が悟っているかいないかが、はっきり分かるということらしい。仏心を納得すれば相手がどの程度悟っているか判断できるというのである。しかし話を聞いただけで、なぜ多くの人が仏心を得心できたのだろうか。それは盤珪さんの存在そのものが、仏心そのものだったからだと思う。声や態度や眼ざしが仏心を明らかにしていたので、話を聴く人も如実に仏心を理解し日々の生活に活用できたのだと思う。

     
未来永劫の生き仏

「直に仏心のままで居る人は、今生より未来永劫の活仏(いきぼとけ)、活如来(いきにょらい)でござるわいの」

「この体と申すものは、一たび地水火風を仮に集めて生じた身でござれば、この体はつひに滅せいでは叶(かな)ひませぬ。しかるに、この仏心は、不生な物でござるによって、体は土とも灰とも成りますれども、心は焼いても焼けませず、また埋めても朽ちる物ではござらぬ。

ただ生じたる体を、しばらく仏心が家と致して、住したまでの事でござる。そのうちは、音を聞き、香をかぎ知り、物言うことも自由なれども、仮に集めて生じたるこの体が滅しますれば、仏心の住み家が無くなりて、見聞き物言う事がならぬまでの事でござる。

右申す如くに、この体は一たび拵へたる故に生滅がござれども、心はもとよりの仏心でござるによって、生滅はござらぬ。ここを不生不滅と申す」

     
生い立ちと修行

「身どもが親は、もと四国浪人でござって、しかも儒者でござったが、この所に住居いたして、身どもを産みましたが、父には幼少で離れまして、母が養育で育ちましたが、腕白者でわるい者でござったと、母が話しました」

という語り出しで、盤珪さんは自身の生い立ちと修行のことを話している。そのままだと長くなるので内容をまとめると次のようになる。

十二歳のとき儒教の先生から大学(だいがく。儒教の四書のひとつ)を学んだ。ところが「大学の道は明徳(めいとく)を明らかにするに有り」という所で引っかかった。「明徳とは、いかようなるものか」と疑いを生じたのである。そこで儒者に会うごとにたずねてみたが誰も知らなかった。ある時ひとりの儒者が、「そのようなことは禅僧が知っているから禅僧にお問いやれ」と言ってくれた。

ところが近くに禅宗はなく、ようやく機会を得て禅宗の和尚に参じ、さっそく明徳のことを聞くと、「明徳が知りたくば坐禅せよ。明徳がしれる程に」と教えてくれた。そのためすぐ坐禅に取りかかった。山に入って七日も物を食べずに坐ったり、尖った岩のうえに着物をまくって坐り、命を失うことも顧みず、自然と転げて落ちるまで坐り通したりした。食べ物を持ってくる人もござらねば、幾日も食べないことが多かった。

それから故郷に帰って庵を結んで修行を続けたが、あまりに無理をしたので尻が破れて血が出て痛かった。それでも、その頃は上根でござって一日一夜と横になったことはなかった。

やがて、その数年の疲れが一度に出て大病を患うようになったが、それでも明徳を手放さなかった。さらに病気が重くなって血痰(けったん)が出るようになり、ついには食べ物が喉を通らず七日ほど重湯(おもゆ)ばかり飲んでいた。それ故、是非もないことと死ぬ覚悟をしたが、明徳をあきらかにするという願いが成就しないことだけが心残りだった。

そうする内に、喉がつかえたので痰を壁に吐きかけてみたら、まっ黒に固まった痰が出て、ころりころりと転がって落ちた。痰が出て胸のなかがスッと気持ちよくなった時、ひょっと、一切のことは不生で調うものを、今日までそれを知らなかったために、さてさて、むだ骨を折ったことかな、と思いついた。

それから気色がよくなり、嬉しくなってきて食欲も出てきたので、すぐに粥を作ってもらった。急いで作ったので、まだロクに煮えぬぼろつく粥であったが、かまわず二・三椀食べたが当たりもせず、それより段々に回復して、今日まで生きながらえておる。

それ以来、天下に身どもが三寸の舌頭(ぜっとう)にかかる者がござらなんだ。知った人があって教えてくれたなら、無駄骨を折らなかったものを、知った人が居ないばかりに骨を折って体を悪くしました。それ故に、今に至っても病人で、皆の衆に思うように話をすることも出来ませぬ・・・。

以上が盤珪さんが語った自身の略歴である。そしてこのような苦しい修行をしたのは親孝行したいがためであり、孝行の志が無かったら修行は成就しなかった、とも言っている。「母親に大安心を得させたいがための、一片の孝心より修行を始めたのであったが、ついに願いが成就して、母にもよく弁えさせて死なせましてござる」。なお父親は盤珪さんが十歳のときに亡くなっている。

     
臨終

一六九三年九月三日、盤珪さんは網干の龍門寺で七十二歳で亡くなった。行業略記(ぎょうごうりゃっき)は臨終の様子を次のように伝えている。

「ご病中なにの殊勝奇特なる事もなく、御末期(おんまつご)まで平生底にて御終焉(ごしゅうえん)なりき」

また行業記には、「辰時(たつのとき。午前八時)門人を集めて、右脇にして寝室に寂す。身体温柔、慈顔生けるが如し」とある。法嗣には大梁祖教、節外祖貞ら八人がいたが、盤珪さんの法は今は伝わっていない。

参考文献
「盤珪禅師法語集」藤本槌重編 昭和46年 春秋社
「盤珪禅師語録」鈴木大拙編校 1993年 ワイド版岩波文庫
「盤珪禅師逸話選」禅文化研究所編 平成4年

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