明恵上人の話
華厳宗(けごんしゅう)中興の祖、明恵上人(みょうえしょうにん)の生涯を、弟子の喜海(きかい)上人が書き残した明恵上人伝記を元にご紹介したい。
上人は京都市北部の栂尾(とがのお)にある高山寺(こうざんじ)を再興し、そこで後半生を過ごしたため栂尾の明恵上人と呼ばれているが、生まれたのは和歌山県有田郡有田川町(ありだがわちょう)であり、十九年後に源頼朝が鎌倉幕府を開く平安末期の一一七三年のことであった。
上人の両親は紀州では勢力のある豪族の出であり、父は領主の平重国、母は湯浅宗重の四女であった。しかし八歳の正月に母が亡くなり、同じ年の九月に父が亡くなった。父は挙兵した源頼朝とのいくさで戦死したのであった。
上人は九歳で京都市高尾の神護寺(じんごじ)に入り仏教を学びはじめた。出家は父母の遺命であったというが、本人の希望も大きかったと思う。
神護寺へ馬で向かうとき、さすがに家族や故郷との別れが悲しくて、上人は馬上で泣いていた。ところが川を渡るとき馬が立ちどまって水を飲もうとしたので、少し手綱を引くと、馬は歩きながら水を飲みはじめた。それを見て馬でさえ自分のつとめを果たしているのに、人間の自分が故郷が恋しいからと泣いているのは馬にも劣ることだと反省し、一筋に貴き僧になって、親をもすべての衆生をも救おうという願いを起こしたという。武士の生まれだけに思いきりのいい子供であった。
また早熟な人でもあったらしく、十三歳のとき次のようなことを考えて昼夜不退の道行に励んだ。「今は、はや十三になりぬ。すでに年老いたり。死なんこと近づきぬらん。老少不定(ろうしょうふじょう)の習いに、今まで生きたるこそ不思議なれ。古人も学道は火を鑚る(きる。木をこすり合わせて火をおこす)が如くなれとこそ言うに、悠々として過ぐべきに非ず」
さらには「この体があるから煩いや苦しみがある。いっそ狼や山犬にでも食われて死んでしまおう」と考えて、死体を処分する原っぱで横になったこともあった。すると夜中に犬が集まってきて死体を食う音が近くで聞こえ、ついには横たわっている上人の体も嗅ぎまわったので怖ろしいこと限りなかったが、犬は食わずに行ってしまった。そのため死にたくても定業(じょうごう)でなければ死ぬことはできないと納得し、大人になってから「その時の見解にて死にたらましかば、浅ましき事にて有りなまし。はかなかりけること哉」と言って笑ったという。
なお上人は神護寺で出家したのだから真言宗に属していたはずだし、高山寺も現在は単立寺院になっているが元は真言宗である。それなのにいくら華厳宗の教えに通じていたとはいえ、華厳宗中興の祖と呼ばれているはおかしいと思い神護寺できいてみたら、「昔は宗派の垣根はなかったのだろう」という返事であった。その華厳宗を代表する寺院が奈良の東大寺である。
明恵上人紀州遺跡
生まれ故郷の有田川町周辺には上人に関係する遺跡が点在しており、代表的な八ヵ所に石の卒塔婆(そとうば。塔)が立っている。それらは上人の死後、喜海上人がまず木の卒塔婆を建て、のちに石に作り替えられて今日に至ったものだという。
平成十五年一月にそのうちの五ヵ所を訪ねた。遺跡はタクシーで回ったのだが、地元の運転手さんでさえ道をまちがえたような場所なので、車で行ったとしてもタクシーを使うのが正解だと思う。そのとき見たなかで、一番印象に残っているのが白神(しらがみ)の峰の遺跡であり、ここには西の峰と東の峰の二ヵ所に卒塔婆が立っている。
上人は二三歳のとき神護寺を出て故郷へ帰り、まず西の峰に草庵を建てて修行の場とした。そこは柔らかな松の緑に囲まれた、西に海を見おろす、晴れていれば淡路島まで見えるという岩場の上であり、そこに立ったとき私がまず思ったのは、ここから見る夕日はさぞ美しかろうということだった。卒塔婆が立つ平らな岩場のうしろにさらに大きな岩がそびえていて、そこへ登ると上人が愛した刈藻島(かりもじま)と鷹島も見えた。
ところが波の音や漁の声が騒がしいからと、上人はすぐ東の峰へ移ってしまった。西の峰は騒がしいだけでなく、海からの風当たりも強いようであり、また景色がいいだけに気を散らすものも多く、修行の場とするには場所が良すぎたのだと思う。
東の峰の卒塔婆は西の峰から歩いて十分ほどの、小さな谷を見おろす岩場の上に立っていた。そこは西の峰のような景勝の地でなく、海も見えないが、落ちついた雰囲気に満ちた静かな場所であり、そこへ行ったとき何ともいえない安らぎを感じたのを覚えている。そこで上人は二六歳まで庵居し、二四歳のころ右の耳を切り落とした
「こうでもしなければ心弱き身だから、人の尊敬を受けたり、出世をしたりして道を誤るかも知れない。身をやつせば人の目にとまることもなく、自分でも人目をはばかって人前に出ることもないだろう」
「形をやつして人間を辞し、志を堅くして如来のあとを踏まんことを思う」
と、決意したのが耳を切った理由であり、その翌日、文殊菩薩を感得したという。耳を選んだのは、「目をつぶすと聖教が見れなくなる。鼻をきると鼻水が落ちて聖教を汚すおそれがある。手を切ると印が結べなくなる。その点、耳は切っても聞こえなくなる訳ではない。見ばえが悪くなるだけだ」と考えたからであり、それ以後自分のことを耳無し法師とか、耳切り法師と呼ぶようになった。
このような傾向は子供の頃からすでにあった。四歳のとき父親がたわむれに烏帽子(えぼし)を着せて、「立派な男だ。大きくなったら御所へ連れて行こう」というのを聞いて、「自分は出家するつもりでいるのに、そんなことになったら大変だ」と、わざと縁から落ちて体を傷つけようとしたことがあったのである。上人はかなりの美男子だったらしく、女難の相があるのを自覚していたのかもしれない。そしてこうした行為が功を奏したのか、一生不犯(いっしょうふぼん)で通している。伝記に次の言葉が載っている。
「幼少の時より貴き僧にならん事をこいねがい、一生不犯にて清浄ならんことを思いき。しかるに、いかなる魔の託するにかありけん、たびたび婬事を犯さんとする便りありしに、不思議の妨げありて、打ちさまし打ちさましして、ついに志を遂げざりき」
上人ほどインドにあこがれた日本人はいない。和歌山に住んでいた三〇歳と三三歳のときの二回、インド旅行を計画しており、二回目の時には旅支度まで調えたが、病気と周囲の反対と春日明神のご神託などの理由により中止になった。このころ大陸では蒙古が勢力を拡大していて、とてもインドへ旅をするような状況ではなかったので、出発していたら生きて帰るどころか、インドへたどり着くこともできなかったと思う。
上人が書いた大唐天竺里程書というインド旅行の計画書が残っている。玄奘(げんじょう)三蔵の旅行記などを参考に作成したもので、長安の都からインドの王舎城(おうしゃじょう)まで八三三三里十二丁と計算されており、途中で寄り道したくなったらどうするのかと心配になるような綿密さである。インドへのあこがれの大きかったことは、高山寺周辺の山にインドの聖地にある山の名を付けていることからも分かる。
日常生活
上人の目は常に釈尊に向けられていた。常に釈尊にあこがれ、釈尊の教えにかえることを願っていたのであり、そのため戒を守ることと禅定を修することを生活の基本にしていた。三四歳のとき後鳥羽上皇から高山寺を賜り再興したが、高山寺に入ってからも生活に変化はなく好んだのは坐禅のみであり、小さな桶に数日分の食料を用意して裏山に登り、石の上、木の下、洞窟の中などで昼も夜も坐禅し、「この山の面(おもて)が一尺以上ある石で、私が坐ったことのない石はない」と言うほどであった。
上人は常に「知識を学ぶ人は多いが定学を好む人はほとんどいない。これでは道を証するための拠り所がない」と言って嘆いていたという。
上人にある僧が、坐禅修行の要点を質問した話が伝記に載っている。上人はその問いに、「禅定を修するに三つの大毒あり。これを除かざれば、ただ身心を労して年をふるとも成就しがたし。一に睡眠、二に雑念、三には坐相不正なり」と答えている。
日本に禅宗を伝えた栄西(えいさい)禅師とは親しい間柄であり、禅師は禅宗の後継を上人に託そうとしたが、上人は固辞して受けなかった。高山寺には日本で最初といわれる茶畑がある。この茶畑にまいた茶の種は、栄西禅師が中国から持ち帰って上人に贈ったものである。
上人は相手が賤しい人であろうと、牛馬や犬であろうと、すべて仏性をそなえた甚深の法を行ずるものだからと軽んずることはなく、犬の前を通る時にも合掌して腰をかがめて通り、天秤棒(てんびんぼう)は人の肩に置くものだから、笠は首にかぶるものだからといって決してまたがず、「悪人なお隠れたる徳あり。いわんや一善の人においてや」といって、壁を隔てていても人が寝ている方へ足をのばさず、人が善いことをした話を聞くとたいそう喜んで語り広めた。
また仏像が祀られているお堂の前では決して馬や輿(こし)に乗らず、道端のみすぼらしいお堂に入るときも生きた仏さまに対するごとく敬意を払い、経本はきちんと整理して重ねて置き、袈裟をかけずに経本を手に取ることはなく、机などの上でなければ開くこともなかった。
しかし上人はかなりの硬骨漢でもあった。承久(じょうきゅう)の乱のとき、高山寺が落人(おちうど)をかくまっているとして幕府に目を付けられ、秋田城ノ介というさむらいが栂尾の山中を捜索したあげく、上人を捕らえて六波羅の北条泰時(ほうじょうやすとき)のもとへ連行したことがあった。泰時は上人のことをよく聞き知っていたので、驚いて上人を上座へ移すと、上人は次のようなことを述べた。
「私は若い時に本寺を出てあちこちとさまよい、習い覚えた仏法のことばや理論さえ思い出すのが嫌になった。まして世間のことは最近は考えたこともない。だからどちらか一方の味方をするといった気持ちは全くなく、たとえ心の中にそのような念がきざしたとしても、二念と相続することはない。
だからたとえ知っている人に祈祷をたのまれても引き受けたりはしない。一切衆生の地獄の苦しみを救う事が急務であって、特定の人だけを特別に祈祷するようなことはこれまでしなかったはずである。
とは言え、高山寺は三宝に寄進された殺生禁断の地である。鷹に追われた鳥や、猟師から逃げてきた獣は、皆ここに隠れて命をつないでいる。ましてや敵から逃れてきた軍士が木の下や岩のはざまに隠れているのを、とがめられたら自分が難にあうからと無下に追い出すことが出来ようか。
釈尊はその過去世に、鳩の身代わりとなって全身を鷹の餌とされたり、飢えたる虎に身を与えたりしたこともあったという。それほどの大慈悲心には及ばなくとも、困っている人々を追い出すようなことはしないし、出来ることなら袖の中にも袈裟の下にも隠してあげたいと思っている。また今後もそうするつもりである。もしもそれが政道のために難儀な事ならば、即時に愚僧の首をはねられよ」
泰時に返す言葉はなく、これが縁で二人は親しくなり、泰時はしばしば高山寺へ出向いて教えを請うようになった。後に泰時は執権となり、武士のための初めての法律、貞永式目(じょうえいしきもく)を編纂したが、その内容には上人の影響が大きいとされる。また秋田城ノ介はのちに上人の弟子となって出家した。
臨終
一二三二年一月十九日、上人は高山寺で亡くなった。伝記のよると、「今日臨終すべし」と言って衣と袈裟を替えて弟子たちに説法し、決して名利に迷わぬように戒め、それから短い行法をおこない、合掌して懺悔文をとなえるとしばらく坐禅をし、出定すると言った。「その時が近づいた。右脇に臥すべし」
そして横になって手を蓮華印にして胸におき、右の足をまっすぐに伸ばし、その上に左足を少し曲げて重ねると、たちまち歓喜の表情があらわれ、微笑を含み、安然として寂滅した。春秋六〇歳。妙なる香りが漂っていたという。
参考文献
「明恵上人集」ワイド版岩波文庫 久保田淳 山口明穂校注 一九九四年
「明恵上人」 白洲正子 新潮社 一九九九年
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