至道無難禅師の話

至道無難(しどうぶなん)禅師は、臨済宗中興の祖と呼ばれる白隠禅師の法系上の祖父にあたる人であり、分かりやすい言葉で教えを説くことに心をくだいた人である。その無難禅師の生涯と教えを、著書の自性記(じしょうき)と即心記(そくしんき)からの抜き書きでご紹介したい。

無難禅師は、徳川家康が江戸幕府を開いた慶長八年(一六〇三年)に、古戦場として有名な岐阜県の関ヶ原で生まれた。関ヶ原の戦いは生まれる三年前のことで、生家は中山道(なかせんどう)の宿場町のひとつ関ヶ原宿で宿屋をしていた。現在、関ヶ原駅に近い国道二一号線に面した家の前に、そこに脇本陣があったという立て札と、至道無難禅師誕生地と彫った石碑が立っているから、そこが生家の宿屋があった場所なのであろう。自性記の中で禅師は次のように自己紹介している。

「予は美濃の国、関ヶ原の番太郎(ばんたろう)なり。愚堂(ぐどう)和尚の人足をして江戸へお供の時、和尚不憫(ふびん)におぼしめし、本来無一物(ほんらいむいちもつ)と御示し、かたじけなく思い、三十年修行して、直に無一物になり、和尚の御恩により、仏のありがたくかたじけなきを知り、仏法を人に教う、いととうとし」

番太郎というのは番人のことであるから、禅師が関ヶ原宿で何かの番人をしていたときのことであろう。愚堂国師が関ヶ原宿に投宿し、そのとき禅師は在家のままで弟子にしてもらい、江戸までお供をした折に「本来無一物」の公案を授けられた。そしてそれ以後、国師は、関ヶ原を通るたびに無難禅師の宿に泊まって禅師を指導し、禅師は三〇年間この公案に参じることで無一物になった、というのである。

無難禅師は四七歳で愚堂国師の法を嗣ぎ、五二歳で出家している。つまり在家のままで修行し、修行が成就してから出家したという珍しい人である。江戸で出家して、それ以後は江戸で暮らし、はじめは麻布の東北庵に住し、のちに小石川の至道庵に移った。

そして無難禅師の法を正受老人(しょうじゅろうじん)と呼ばれる道鏡慧端(どうきょうえたん)禅師が嗣ぎ、長野県飯山(いいやま)の正受庵に住した正受老人の法を白隠禅師が嗣いだ。つまり愚堂東寔(とうしょく)禅師−至道無難禅師−道鏡慧端禅師−白隠慧鶴(えかく)禅師と法が伝わったのであり、現在の臨済宗と黄檗宗はすべてこの法系に属している。

至道無難という名は三祖の信心銘(しんじんめい)冒頭の、至道無難、唯嫌揀擇(ゆいけんけんじゃく)、からきていると思う。この語の意味は「道に至るのは難しいことでは無い。ただ揀擇(けんじゃく。えり好み)を嫌う」ということである。それだけ好き嫌いを離れるのは難しいことなのかもしれない。

なお無難禅師の行録(あんろく。行動の記録)の初めに、「師、諱(いみな)は無難、字(あざな)は至道」とあるから、至道が道号、無難が僧名である。「しどうむなん」と読むこともあり、墨跡には至道庵主と署名している。この行録は白隠禅師の法嗣の東嶺和尚が編集したものであるが、当時すでに詳しいことは分からなくなっていたとある。

禅師は小石川の至道庵において、延宝四年(一六七六年)に七四歳で亡くなり、法嗣は正受老人のみとされる。以下に無難禅師の教えをご紹介する。本来無一物の公案で徹底した無難禅師の禅は、無一物の一語で貫かれていることが分かる。また「まず悟れ」というのが禅師のやり方であった。

     
本来無一物

「ある人問う、悟りとは如何なるものか。予いわく、本心なり。問う、如何なるかこれ本心。予いわく、無一物」

「悟りは念を滅却するを言う。念を以て身をなす。悟れば生きながら身なし」

「念のふかきは畜生、念のうすきは人、念のなきは仏」

「何もおもわぬは、仏のけいこなり」

「なにもおもわぬ物から、なにもかもするがよし」

「禅は第一悟りをさきにして、悟りにまかせて修行すれば、日々夜々安楽なり。疑う事なかれ。身の業つきはてて悟るは、もっともにしていたりがたし。悟りを先にして身の業をつくすは、安して安し」

「道心堅固に守らんと思わば、よき師に会い、わが本心本性をたしかに見、これを強く守るべし。深山市中の住居は己が心にまかすべし」

「この道にあたる事、強きあり。弱きあり。予わかきとき、強くあたれり。大道あたり弱くしては、わが身の悪を何として去りつくすべきや」

「一念の悪気ひるがえす事ならず」

「いろいろ妄想おこる時、つよく禅定に入るべし。清浄になる。禅定の功徳なり」

「悟りをもって仏法と言う。悟る人まれなり」

「見性して、行住坐臥、性にまかせて身を使うとき、仏法と言えり」

「迷いてはこの身に使われ、悟りてはこの身を使う」

「仏は心なり。地獄は身なり。身の悪を仏にさらせよ。身の悪きゆるとき清浄になるなり」

「工夫してわが身の悪を仏にさらせよ。かくのごとくつとむる事たしかなれば、仏になること疑いなし」

「修行する人、身の悪を去るうちは苦しけれども、去りつくして仏になりて後は、何事も苦しみなし。また慈悲も同じ事なり。慈悲するうちは、慈悲に心あり。慈悲熟するとき、慈悲を知らず。慈悲して慈悲知らぬとき、仏というなり」

「昼夜悟りをもって一々に身の悪をほろぼし、清浄になるべし。悟りというは本心なり。ものの是非邪正をよく知り、邪をさり正をたもってふかく護り、常に坐禅して如来をたすけ、くふうして悪をさり、年月功つもってかならず心やすくなるべし。いよいよ怠らずにつとむるに及びて、五欲をほろぼし、悟り成就して、地獄、餓鬼、畜生、修羅の苦をはなれ、平常をまもり、その功つもり、後にはなにもなくなり、万法にまかせてとがなし。

つとめてここにいたり、世間の人をすすめ、上根機の人には、直に目前を以ておしえ、中根機の人には、方便をもって坐禅させ、下根機の人には、念仏をもって後世をねがわせ、かくの如く人をたすくるを、真の出家というなり。愚にしてなりがたし」

「出家は、内外打成一片(ないげだじょういっぺん)とて、かたちのすくやかなるを言うなり。ひっきょう死人の生き返るごとくなるを言う。死人は物を欲しがらず、人に恋せず、人を嫌わず、大道成就して、人の是非をよく知り、その人をすすめ仏道にいたらするを言うなり」

「神仏にむかい、富貴をねがう。ねがう心やむれば富貴なることをしらず」

「身によき事をこのまんより、身を思わねばやすし」

「人の死をしりてわが死をしらず」

「予が弟子、死霊をとむらう事を問う。第一、身を消し、心をけし、修行成就して弔えば、うかぶ也。年老い、色の念なくても、心にうつるうちは、弔いてもうかぶ事なし。必ず無念にして弔えば、悪霊もうかぶなり。この道成就する人には、たしかなるしるしあり。むかう時、男女ともに悪念消ゆるなり。これを道人という」

「衣を着るほどの人、必ず女のあたりへよるべからず。いかに身にあやまらずとも、心にうつるなり。故に女にちかづくは、かならず畜生のけいこなり。老僧の女をいむは、畜生の心のこる故なり」

     
無難禅師道歌

「おのが身にばかさるるをば知らずして、きつねたぬきをおそれぬるかな」

「主ありて見聞覚知する人は、いきちくしょうと是をいふなり」

「世の中の人はしらねど罪あらば、わが身をせむる我がこころかな」

「千代ふべき心をおもひすてぬべし、月日はいつもおなじ事なり」

「道といふ言葉にまよふ事なかれ、朝夕おのがなすわざとしれ」

「さとらねば仏の縁はきるるなり、一切経をよみつくすとも」

「生きながら畜生となるしるしには、坐禅の床に居られざりけり」

「身のとがは其しなしなにかはれとも、色とよくとをこんぽんとしれ」

「色このむ心にかえて思えただ、見る物は誰ぞ聞く物は誰ぞ」

「心にはたしかに入りし法の道を、いくたびけがすわが身なるらん」

「何事も修行とおもいする人は、身のくるしみは消えはつるなり」

「何もなき心を常にまもる人は、身のわざわいは消えはつるなり」

「身のとがをおのが心のしる時は、仏とならんしるべなりけり」

「本来の悟りのしるしあらわれて、身さえ残らず消えはてにけり」

「ひたすらに身は死にはてていき残る、ものをほとけと名はつけにけり」

「主なくて見聞覚知する人を、いき仏とは是をいふなり」

「身の業のつきはてぬれば何もなし、かりに仏というばかりなり」

「いきながら死人(しびと)となりてなりはてて、おもひのままにするわざぞよき」

「ころせころせ我身をころせころしはてて、何もなき時人の師となれ」

「生きながら仏となれるしるしには、坐禅の床に居らぬなりけり」

参考文献「至道無難禅師集」公田連太郎編 昭和43年 春秋社

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