世界の始まりの話
飛びこみの訪問販売のように、一軒ずつ訪問しながら布教をして回るキリスト教の一派がある。悪く言えば宗教の押し売りであるが、その人当たりの良さと熱心さには感心する。ある日その一派の女性がやって来て次のような問題を提起した。
物事はすべて原因があって結果があり、その結果が原因になってまたつぎの結果が生じるというように、因果関係が続いていく。だからその因果関係を逆にどこまでもたどっていくと、一番最初の原因である第一原因にたどりつく。その第一原因を神が作らなければ世界は始まらないのだから、この世界も存在しないはずである。仏教が神による天地創造を認めないなら、世界の始まりを説明できないではないか、というような問題提起であった。
そうかも知れないと思う人もあるだろうが、私にはこれが正しい理屈だとはとても思えない。第一原因なるものが本当にあるのかどうか、それがなければ世界は存在できないのかどうか、ということは誰にも分からないだろうし、第一原因があるとしてもそれを神が作ったという証拠もないのである。
たしかに仏教は神や仏が世界を創造したとはいわない。それどころか世界に始まりがあるともいわない。なぜかというと、世界に始まりがあるとすると、その始まる前はどうなっていたのかという問題が必ず出てくる。そしてその問題を説明すれば、さらにその前はどうなのかとなって、どこまで行ってもきりがない。世界の終わりに関しても同じことであるから、仏教は世界には始まりもなければ終わりもないとしているのである。
倶舎論(くしゃろん)によると、世界は無始以来、衆生の業の力によって成住壊空(じょう・じゅう・え・くう)の四つ過程で生滅をくり返しているという。これを成住壊空の四劫(しこう)といい、成劫(じょうこう)は何もないところに衆生の業力によって風が吹き初めることで世界が形成されていく過程、住劫はできた世界が持続する過程、壊劫は世界が壊れていく過程、空劫は空無の状態が続く過程であり、どの過程もきわめて永い時間を要するとされる。そして大宇宙にはそうした世界が無数に存在しているという。
仏教が説くこの宇宙論は最新の科学が説く宇宙論とよく似ているが、これを読むと仏教も知らないことをさも知っているように説いていることが分かる。本当は分からないことは分からないというのが一番いいと思うのであるが、理解できないことがあると落ち着かないものなので、人間はさまざまな仮説を立てて自分を納得させてきたのであり、科学が説く宇宙論も仮説の一つにすぎないのである。
インド人はながく宇宙の根本原理である絶対者ブラフマンを探し求めてきた。そしてそれを宇宙の果てではなく自らの心の中に見出した。ブラフマンと真実の自己アートマンは一つであるから、アートマンを悟ればブラフマンと一つになることができ、宇宙の始まりや不滅の命も体験できる、という悟りの道をインド人は発見したのである。この悟りの宗教の伝統を仏教は受けついでいるのであり、この悟りの道も仮説の一つといえなくもないが、宇宙の始まりや永遠の命を実際に体験できる点が単なる仮説とちがう点である。
インド哲学の究極の真理は、「汝がそれである」という言葉で表されるという。宇宙の根本原理を求めている人には汝が根本原理そのものである。世界の始まりを求めている人には汝が世界の始まりである。仏さまを求めている人には汝が仏さまである、というのである。始めなきの始めから、終わりなきの終わりまで、この世界に存在するものはすべて心が生み出したものであり、心そのものなのである。
「三界は虚妄にして、ただこれ一心の作なり」華厳経
参考文献
「仏教の思想2存在の分析」桜部建 上山春平 昭和44年角川書店
「仏典講座18倶舎論」桜部建 昭和56年 大蔵出版
「インド思想史第二版」中村元 1974年 岩波全書213
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