白隠禅師の草取唄

白隠禅師の晩年の作とされる草取り唄は、都々逸節(どどいつぶし)と同じ七・七・七・五の形式で作られており、取るべき草というのはもちろん煩悩を指している。生い茂る煩悩の草を取りのぞき、すっきりとした本来心ひとつで生きていきなさい、と白隠禅師が口当たりのいい唄でもって説いているのである。なお本文中の段落と読み仮名は私が付けたものである。

     
草取唄(くさとりうた)

草を取るなら、根をよく取りやれ またと意根をはやしやるな

意根なきよに根をきりおけば 水に花さく根なし草

つねに心をとり離しやるな それが念仏、また極楽よ

坐禅しぶりに胸焦がしやるな とらず、もとめず、坐禅をしやれ

善きも悪きも余所(よそ)から来ぬぞ 迷う我が身のこころより


親じや親じやと我が儘(まま)するな 今じや子孫の気をかねる

神や仏を祈らずとても 直(す)ぐな心が神仏(かみほとけ)

人が見ぬとていつわるまいぞ 我と天地がいつかしる

鈍な者でも正直なれば 神や仏になるがすじ

利根才覚、鼻先出るは 誠(まこと)修行の足らぬ故

しれた事でも、しれぬというが それが誠の智者ぢやもの

智者と言われて喜ぶならば それが愚かな人ぢやもの


怒り腹立ち中途の雲よ 上の空には何もなし

惜しや欲しやと思うが餓鬼よ 餓鬼の種とて外にはないぞ

成るもならぬも心の儘(まま)よ 心許すな、怠るな

弥陀の名号、百万遍も 心ちらさぬ為としれ

心ちらさねば夫(それ)こそ浄土 勢至観音わきだちに

煩悩菩提と二つは無いぞ 知らにや、世界が皆別ぢや

惜しい可愛(かわい)の起こらぬ前は 何も思わぬ子の心


人に対して腹立(はらたつ)ときは 早くわが身の愚痴と知れ

善きも悪しきも皆分別よ しらで居る時や何がなる

惜しや可愛や面(つら)憎くや 無間(むげん)地獄の皆せめぢや

念仏しながら腹立つよりも 止めて家業に精出しやれ

独り居るとき衆中と思へ それで粗忽(そこつ)は無きものぞ

橋の下なる乞食を見やれ 金を持ても奢(おご)りやるな

貧も富貴も皆浮雲よ 定めなき世と見るがよい


生まれ来るのも今死に去るも 君が誠のなりふりぢや

扨(さ)ても貴(とう)とや我が立ち姿 釈迦か阿弥陀の再来ぢや

金を持っても慢気(まんき。慢心)はわるい もたぬ昔を忘るるな

死ぬも目出度(めでた)い、生きるも目出た 兎角(とかく)浮き世は仮の宿

心ゆかしも皆うその皮 銭がなければ、うとむもの

欲を心にはなれて見やれ 何が無くとも十分ぢや

天の昼中、夜中でくらせ それで世界が手に入るぞ


親をかならず粗忽(そこつ)にするな 親は神とも仏とも

昼も夜中も此の君故に 暑さ寒ぶさも苦にならぬ

親の威光を振るのはよいが 慈悲が無くては、ひよんなもの

大儀ながらも勤めをしやれ 廻(め)ぐる月日の在るうちは

心よくもて盗みをするな 道に背けば是れ盗人(ぬすびと)よ

人の悪しきを必ず言ふな そしる心が悪ぢやもの

惜しみ貪り、因果に引かれ 出でて此の世に貧苦する


兎にも角にも天道まかせ 無理な願(ねがい)をかけやるな

生死輪廻の車に乗りて 過去も未来も我が儘ぢや

後世も願うに名利を願ふ いとど苦をして煩悩嫌ふ

煩悩嫌(きろ)ふて菩提が好きぢや すきも嫌ひも皆な煩悩よ

善ぢや悪ぢやと目に立つ内は 恥ぢて修行を精出しやれ

智者も善者も浮世を見るに 色と金には皆迷ふ

人を悪しきと思ふが邪見 悪ういふ気が無きやよかろ


兎角怒るな、短気を出すな 死せば来世は蛇(じゃ)となるぞ

口と心と身の行ひと 術(すべ?)とくらべて身を持ちやれ

聞いてすまして悟りをしやれ 我慢邪慢(がまんじゃまん)の根を切りやれ

野辺の送りの煙を見やれ あすは我が身もあの如く

生きて居ながら死んだがよいぞ それで万事が手に入るぞ


子供妻をも捨て置いたるか 入るに入られぬ法(のり)の道

耳で見分けて、目で聞かしやれよ 夫れで聖(ひじり)の身なるぞや

有為(うい)の転変、其の儘忘れ 元の赤子の気を持ちやれ

悟りふりする面(つら)恥かしや 元の凡夫がましぢやもの

心一つを悟りて見れば こうぢやそうぢやの音もなし


唯(ただ)ぢや、ただぢやと皆さまおしやる わしは只ではいやでそろ

唯と心得(こころえ)うかうかするな 根なしかづらにからまるぞ

捨ててはびこる根の無いかづら 蔓(つる)は越後に、根は佐渡に

根なしかづらに、花茶屋かけて、釈迦や達磨が客となる


心願不善 念経無益 (心願、不善ならば、念経するも益なし)

不義取財 布施無益 (不義な取財ならば、布施するも益なし)

不明心性 問答無益 (心性、不明ならば、問答するも益なし)

不借元気 服薬無益 (元気を借りずんば、服薬するも益なし)

心高気微 転学無益 (心高くとも気微〈かすか〉ならば、転〈うた〉た学ぶも益なし)

時運不通 狂求無益 (時運、通ぜざれば、狂求するも益なし)

生不孝親 死祭無益 (生に、親に不孝ならば、死して祭るも益なし)

不断殺生 戒軍無益 (殺生、断ぜずんば、軍を戒〈いまし〉むるも益なし)

                             草取唄 終

     
蛇足

一行目の「草を取るなら、根をよく取りやれ」は草取りをするときの基本である。根が残っているとすぐに草は生えてくる。白隠禅師も若いころは草取りに精を出したのだろう。

「またと意根をはやしゃるな」の「意根」は煩悩の根っこであるが、意根を遺恨にかけて「恨み、つらみ、憎しみを育てるな」と言っているようにも聞こえる。

「生まれ来るのも今死に去るも、君が誠のなりふりぢや」。この「君」は本来心を指している。一休さんにも「我のみか釈迦も達磨もあらかんも、此君ゆえに身をやつしけり」という歌がある。

扨(さ)ても貴(とう)とや我が立ち姿、釈迦か阿弥陀の再来ぢや」。坐禅和讃の「衆生本来仏なり」をさらに力強く宣言したもので、一休さんの「本来の面目坊がたちすがた、一目見しより恋とこそなれ」という歌を思い出させる。

「天の昼中、夜中でくらせ、それで世界が手に入るぞ」。理屈に合わない言葉だが、よそ見をするなといいたいのである。真っ暗闇では何も見えない。何も見えなければ、よそ見をして腹を立てたり欲をかいたりすることがない。人間は見えすぎ聞こえすぎで苦しんでいるのであり、「生きて居ながら死んだがよいぞ、それで万事が手に入るぞ」も同じである。

「耳で見分けて目で聞かしやれよ、夫れで聖(ひじり)の身なるぞや」も同じである。眼で聞いて耳で見るなら、見れども見えず聞けども聞こえずで、見たり聞いたりしたことにとらわれることがない。

「捨ててはびこる根の無いかづら、蔓(つる)は越後に根は佐渡に。根なしかづらに花茶屋かけて、釈迦や達磨が客となる」。この最後の二行は空の世界を表しているのだろうが、意味はよく分からない。なお根なしかづらは白隠禅師の造語だろうと思っていたら、実在するヒルガオ科のつる植物だった。白い小さな花をつける目立たない草である。

参考文献
「白隠禅師法語全集十三」芳澤勝弘編注 平成十四年 禅文化研究所
「白隠禅師全集」第六巻

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