平山行蔵の話

平山行蔵という豪傑の生涯をご紹介したい。この人は仏教とは関係のない人であるが、こういう豪傑の話を読んでいると不思議に元気とやる気が出てくる。それがねらいである。

平山行蔵(ひらやまこうぞう。一七五九〜一八二八)は、字(あざな)を子龍(しりょう)といい、江戸時代も半ばを過ぎた宝暦九年に、徳川家の伊賀衆の家に生まれた人である。伊賀衆というのはいわゆる伊賀忍者である。

彼の生涯は、「治にいて乱を忘れず」、「兵法は、進退ここにきわまって、一生に一度、世に役立てるものなり」、という彼自身の言葉を忠実に実践するものであり、一生に一度のまさかのときのために、体を鍛え、武術を練り、心法を工夫することを怠らなかった人である。

彼は修行時代には毎朝四時に起きて水をかぶり、まず祖先の霊を礼拝し、それから庭へ出て七尺五寸の樫の棒の素振りを四百回、居合いを抜くこと三百本、それから弓と鉄砲のけいこ、槍の素振り、最後に馬、と判を押したように毎日、規則正しく朝稽古をおこなった。そのため近所の人はその音を時計代わりにしていたという。

着物は極寒にも袷(あわせ。裏のついた着物)が一枚だけ、足袋ははかず、夜は土間で甲冑(かっちゅう)をつけて横になり、歳をとってからは板の間で薄い木綿の布団を一枚かけて寝ていた。食事はいたって粗食で生味噌と玄米飯のみ、食後も湯茶の代わりに冷水、水術は厳冬でも水中でけいこ、というように常に戦場にいるがごとく生活し、実戦に即したけいこをおこなっていた。

彼はたいへんな怪力の持ち主であり、中年のころ相撲とりの雷電と力くらべをしてあっさりとこれを負かし、「武士は違い候」と雷電に言わせたほどであった。子供のときから土をつめた米俵を持ち上げるけいこをし、十三・四歳でついに肩まで上げられるようになった、そのとき父母にほめられて嬉しかった、と言っている。

彼は自宅で塾をひらき文武の道を教えていた。その剣道場におけるけいこは、一尺三寸の短い竹刀で三尺三寸の竹刀の相手に立ち向かわせるというもので、それもただ相手の胸板めがけて真一文字に突き込むだけの、捨て身の気迫に満ちたものだった。彼は以下の言葉を残している。

「剣術とは敵を殺伐することなり。その殺伐の念慮を驀直(まくじき。まっしぐら)端的に敵心へ透徹するをもって最要とすることぞ」

「当流の剣術、短刀を用いることは、格別に気勢を引き立てんとの仕掛けなり。敵の撃刺にかまわず、この五体をもって敵の心胸を突いて背後にぬけんとする心にて踏み込まざれば、敵の体にとどかざるなり。かくの如く、気勢いっぱいに張り満ちて、日々月々精進してうまず、刻苦していとわず、思いを積み功を尽くすときは、太刀をとりて立ち向かうと、自然と敵があとずさりをし、面をひくようになる。かくの如くならざれば、真実の勝負はなかなか存じ寄らざること也」

「この五尺のからだを敵の餌にして、じりじりと仕掛ければ、いやとも敵より刀を打ち出さねばならぬぞ。それに乗じて我が刀を打ちだし、敵の末勢をうけて一ひしぎにする故、後るれども先だつに同じ」

「われは思い込みし所をただ一刀に打ちすえ、万一あやまることあるその時は、肝脳地にまみれておわるのみ」

「須臾(しゅゆ。わずかばかり)の命根を保せんことを幸いとして、短き刀のかげに身をちぢめ、細き槍の柄におおわれんことを欲す。その心の賎劣卑怯、くちばしを置くに所なし。これを以て、いながらに敗亡をとって屍上になお恥辱を余すにいたる。わが党の士、請うこの魔界を脱出し、超然として神武の域に入らんことを。恐怖の関門を透得して独立自在の妙境にいたるべし」

「火箸に目鼻をつけたる如きやせ男にても、米一俵かつぎえぬ非力にても、武士の本分をつくす場に臨んでこの勇猛心(ゆうもうしん。ゆうみょうしん)が堅固ならば、すなわち一騎当千の士ぞ」

これを書いているとき私の住む町は吹雪になった。暖かい部屋の窓から大荒れの吹雪を眺めているのは気持ちのいいもので、雪の降らない土地の人には分からない冬ごもりの楽しみであるが、そんなぬくぬくとしたことではいけない、裸で吹雪のなかへ飛び出して行く捨て身の修行でないと役に立たない、と彼は言うのである。白隠禅師も「勇猛の衆生のためには成仏一念にあり。懈怠(けたい)の衆生のためには涅槃三祇(ねはんさんぎ)にわたる」と言っている。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、という勇猛心がなければ修行は成就しないのである。

彼はけいこでは短い竹刀を使用したが、実戦では長い方が有利として三尺八寸の長刀を差し、四貫目もある鉄杖を突いて江戸の町を闊歩した。「小男の長刀は格別みごとに見ゆるものなり」とは本人の言葉で、子龍という字(あざな)の如く彼はかなりの小兵(こひょう)であった。

「多芸を欲ばるな。一芸に習熟せよ」とは何の修行でも言われることであるが、彼の武芸はきわめて間口が広く、武芸十八般のすべてを実践し、「武芸十八般略説」という著書を残している。そのため何でもこいとばかりに、道場の入り口には「他流試合、勝手次第なり。飛び道具矢玉にても苦しからず」と書いた札をかけていた。

なお武芸十八般という言葉は中国から伝わったものとされるが、国や時代によって使う武器に違いがあるため、十八般の内容を特定することはできず、また彼が何を十八般としたかも分からなかった。一例として百科事典が挙げているものは、剣術、槍術、弓術、馬術、水術、抜刀術、短刀術、手裏剣術、なぎなた術、棒術、鎖鎌術、十手術、柔術、捕手術、砲術、忍び術、含針術、もじり術、である。

「もじり」は長柄の先に付けたするどい突起の金具で、袖をからめて人を捕らえるもので、江戸時代には刺股(さすまた)、突棒(つくぼう)とともに罪人をとらえる三つ道具の一つとされ、「袖がらみ」とも呼ばれていた。含針術(がんしんじゅつ?)は吹き矢のように針を吹いて飛ばす武器と思われるが形状や使い方は分からない。

平山行蔵、間宮林蔵(まみやりんぞう)、近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)の三人は、蝦夷(えぞ)に関係があることから蝦夷の三蔵と呼ばれていた。間宮海峡に名を残す間宮林蔵は、樺太(からふと)と、その対岸の地、黒竜江(こくりゅうこう)一帯を探検した人で、その探検旅行のことは吉村昭氏が小説「間宮林蔵」に詳しく書いている。近藤重蔵は千島列島の周辺を探検しその開発に尽力した人である。

平山行蔵は蝦夷の地を踏んでいないが、そのころ北海道周辺に進出しつつあったロシアの脅威に対し、ロシアを打つべしとの意見書を書いたことなどから三蔵の一人になった。彼のロシア撃退作戦は、「自分に任せてもらえれば、わざわざ旗本や御家人が蝦夷まで行くことはない。諸国で死罪流罪にきまった囚人を引き連れていき、まず我が額に赤心報国の焼き印を押し、それから囚人すべてに押す。もし逃げる者があればその焼き印を目印に首を打つ」という過激なものであったが、幕府は採用しなかった。

彼は武で十八般をきわめるとともに、文の方も著書五百巻という学者であった。学問は英雄の下地であるとして、兵学や儒学から農政や土木まで研究したというから、文の方も実用重視で間口も広かった。武具を集めることと兵書をひもとくことを楽しみに、武具と書物に埋まるようにして暮らしていたのである。

しかも書物を読むときは二尺四方のけやきの板に正坐して、こつこつと両方のこぶしで板を突きながら読書をしていた。そのためこぶしが石のように堅くなっており、胸板ぐらいはこぶしでかるく突きくだくと豪語していた。

剣の師匠の山田茂兵衛は書も名手だったので、彼は師匠から剣とともに書も学び、さらに中国南宋の武将である岳飛(がくひ)の書を習った。気合いをいれて筆を揮ったので天井まで墨が飛んだといわれており、迫力に満ちたすばらしい書を残している。

彼は来客を好まず、面会を申し込んでもほとんど会うことはなく、訪れる人も少なかった。しかし寄宿の門人が四十人居たとあるから単なる人間嫌いではない。おそらく求道者としての生き方を好んでいたのであろう。ところが勝海舟の父の勝小吉は、よほど気に入られていたらしく気安く出入りを許されていた。勝小吉はそのときの思い出を「平子龍(へいしりょう?)先生遺事」という本にしており、それを参考に私はこれを書いている。

彼は一生独身で過ごしたが、「無妻で過ぎしは生涯の誤りなり、まことに不孝この上なし」と晩年になって悔やんだ。彼は母が信心していた浅草の観音さまに、年老いた母を背負って毎月お参りしたほどの孝行者であり、その母に粗略なことがあってはならないと結婚しなかったのだが、それこそが一番の親不孝だったと後悔したのである。おそらく家が絶えることになったからだと思う。

平山行蔵は文政十一年(一八二八年)十二月二四日に享年七十歳で亡くなり、四谷愛住町永昌寺に葬られた。法名は天秀賢道居士、辞世の歌は意外に繊細な感じの歌である。

「武蔵野の芝生隠れのすみれ草、花の咲くてふ知るや知らずや」

参考文献
「夢酔独言」勝小吉著 勝部真長編 平凡社東洋文庫 1996年
「夢酔独言」勝小吉著 勝部真長編 平凡社ライブラリー 2000年
「平子龍先生遺事」は上記の本に載っている。この二書は全く同じ内容であるが、後者のほうが廉価なうえに字が大きくて読みやすい。なお「夢酔独言」も面白い。
「剣と禅」大森曹玄 春秋社 1984年
「筆禅道」寺山丹中 柏樹社 昭和62年

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