運転三昧の話

運転免許をとったとき私は四十歳をとうにすぎていた。田舎の寺の和尚に、車は必需品だと痛感してから運転免許に挑戦したのであり、初めのうちは給油所に入るのもこわかったが、馴れてくると遠出もするようになった。そして長時間運転して気がついたのは、運転は坐禅修行に似ているということだった。

ともに睡魔との戦いであり、よそ見をしたがる心との戦いであり、緊張感の維持が最重要とされることである。しかも座布団に坐っていて事故をおこすことはないが、運転中によそ見や居眠りをすればたちまち事故につながるから、坐禅より運転のほうが真剣になりやすい。命がかかっていることが運転のおもしろさにであり、手軽に真剣な心を教えてくれる修行が運転である。だから長時間運転した後は坐禅した後のようにサッパリとした心境になっている。

坐禅道場には接心(せっしん)という、一週間にわたって朝から晩まで坐禅ばかりする修行期間が年に七、八回ある。ところがそのように集中して坐禅をしていても、なかなかいい坐禅ができず、もう少しましな心境にならないものかと思ったりするが、接心が終わってからふり返ってみると、ふだんの状態よりも格段にいい心境になっていたことに気がつく。

運転をしているときの心の状態も、ふだんとなんら変りがないように思うかもしれないが、実は大きな違いがある。その違いを自覚して深めていけば、運転を修行にすることができる。そのためにはまず真剣に運転するという心構えが大切である。その心構えが、無理をしない、腹を立てない、のろのろ運転をしない、ということにもつながり、無事故にもつながると思う。

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