賽の河原の物語

平成十四年十一月、晩秋の木曽の御岳山(おんたけさん。三〇六七メートル)を歩いてきた。ナナカマドの紅葉の鮮やかなときであった。この山は一列に並んだ噴火口が作りあげた複合火山であり、山上には古い火口に水がたまってできた六つの池がある。そのためこの山は長大な山頂を持っており、最高点のある峰の名は富士山頂と同じ剣ヶ峰(けんがみね)である。

その広くて長い山上台地のまん中あたりに賽の河原(さいのかわら)があった。石ころだらけのなだらかな斜面が賽の河原になっていたのであり、立ちならぶ大小のお地蔵さまや石積みの塔が、雨まじりの冷たい風に吹かれていた。これらはおそらく子供をなくした山好きの人が安置したものであろうが、大きな石のお地蔵さまは担ぎ上げるだけでもたいへんだったと思う。ここがこれまで見た中でいちばん大きな賽の河原であった。

南アルプスにある鳳凰三山(ほうおうさんざん)のひとつ地蔵岳にも賽の河原があった。地蔵岳の頂上付近には特大の地蔵菩薩のような巨岩がそびえている。その巨岩の下の広場にお地蔵さまがたくさん立ち並んでいたのであった。この鳳凰三山と御岳山は百名山に含まれている。

新潟県に焼山(やけやま)という二千四百メートルの山があって、地図によるとこの山の中腹にも賽の河原がある。そのため一度、登ってみたいと思っているが、この山は火山活動のため今は入山禁止になっている。

海岸で賽の河原を見つけたこともある。佐渡へ行ったとき、島の北端にある海ぞいの遊歩道を歩いていたら、あまり奥行きのない海岸の洞窟に、お地蔵さまがぎっしりと安置されていたのであった。

賽の字には土地の境界で鬼神を祀る意味があり、そのため道祖神は賽の神とも呼ばれていた。そうしたことから死者や鬼神を供養するために、石を積んだり酒食を供えたりした場所、あの世との境を思わせるような石ころだらけの荒れ地を、賽の河原と呼ぶようになったのではないかと思う。

賽の河原の原点は、京都の桂川と鴨川が合流する所とする説がある。平安時代そこは佐比(さい)の河原と呼ばれる葬送の場になっていたというのであり、昔は河原や村はずれの荒れ地が庶民の葬送の場にされていたのである。だからそうした場所には、石仏や石塔などがたくさん立ち並んでいたのかもしれない。

賽の河原は三途(さんず)の川の河原のことともいわれ、その三途の川は冥土(めいど。あの世)にあるとされるが、あの世へ行くときに渡る川なので、この世と冥土のさかいにあるともいわれる。三途の川と呼ばれるのは渡し場が三つあるとされるからであり、途は道を意味している。そしてどの渡し場を渡るはこの世で犯した罪の軽重によって決まるという。

つまり三途の川の手前に衣領樹(えりょうじゅ)という大木があって、その木の下で奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)という鬼が亡者を待ちかまえており、奪衣婆が衣服をはぎ取り、懸衣翁がそれを衣領樹の枝に懸ける。すると生前に犯した罪の重みによって枝が垂れ、その垂れかたの違いでどこを渡るかが決められ、善人は中流にある橋渡(はしわたし?)という渡しで金銀七宝で作られた橋を渡り、あまり罪の重くない者は上流にある山水瀬(さんすいせ?)で膝下までの水を渡る。

ところが罪の重い者は下流の強深瀬(きょうしんせ?)を渡らなければならない。ここは流れが矢のように速く、波は山のように高く、しかも岩石が流れてきて罪人の五体をうち砕き、死ねばまた生き返り、生き返ればまたうち砕かれ、沈めば大蛇が口を開いて待ちうけ、浮かべば鬼に弓で射られるという。

また「三途の川の渡し賃」を持っていない亡者は、奪衣婆に衣服を奪い取られるともいわれており、そのため死者に一文銭を六枚持たせることがおこなわれていた。今でもそのなごりで六文銭を描いた紙片を納棺する地域があるというし、墓地の土の中から一文銭が出てくることもある。

賽の河原は幼くして亡くなった子供が苦を受ける場所ともいわれ、苦を受ける理由は幼くして死んだ親不孝の罪をつぐなうためらしい。賽の河原地蔵和讃(わさん)によると、そうした子供たちは、賽の河原で小さな手で石を積んで塔を作り、その功徳を父母や兄弟やわが身に回向する。ところがそこへ地獄の鬼がやってきて作った塔を突きくずし、もっと作れと責めたてるというのである。地獄の鬼が出現するのだから、この和讃によれば賽の河原は地獄の中かその近くにあることになる。

賽の河原や三途の川に関することは、仏教というよりも民俗学に属する問題であろうが、石を積んで回向の塔を組むという部分はおそらく法華経から来ている。「たとえ子供が戯れに砂をあつめて塔を作っても、その功徳でその子供は仏道を成ず」と法華経にあるのが元だと思うのである。

地蔵菩薩は弥勒仏が出現するまでの無仏の時代に、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天、という六つの世界の衆生を救うとされており、石のお地蔵さまが路傍に立っているのは、常に人々とともにあることを表している。また地獄に落ちた人々がその名を呼べば、地獄の責め苦を代わりに受けてくれるともいわれ、そのため身代わり地蔵が作られたり、賽の河原で子供を守るということにもなったのだと思う。

以下にいくつかある賽の河原地蔵和讃の中から短いものを一つご紹介する。この和讃は江戸時代に作られたとされるが作者は不明である。

     
賽の河原地蔵和讃

これはこの世の事ならず。死出の山路のすそ野なる。

賽の河原の物語。聞くにつけても哀れなり。

二つや三つや四つ五つ。十にも足らぬみどりごが。賽の河原に集まりて。

父恋し母恋し。恋し恋しと泣く声は。この世の声とは事かわり。

悲しさ骨身をとおす也。彼のみどりごの所作として。河原の石をとり集め。

これにて回向の塔を組む。一重組んでは父のため。二重組んでは母のため。

三重組んでは古里の。きょうだい我が身と回向して。昼はひとりで遊べども。

日も入相(いりあい)のその頃は。地獄の鬼が現れて。やれ汝らは何をする。

娑婆(しゃば)に残りし父母は。追善作善のつとめなく。ただ明け暮れの嘆きには。

むごや悲しや不憫(ふびん)やと。親のなげきは汝らが。

苦患(くげん)を受くる種となる。我を恨むることなかれと。

くろがねの棒をのべ。積みたる塔を押しくずす。

そのとき能化(のうけ)の地蔵尊。ゆるぎ出でさせ給いつつ。汝ら命みじかくて。

冥途(めいど)の旅に来るなり。娑婆と冥途はほど遠し。我を冥途の父母と。

思うて明け暮れたのめよと。幼きものを御衣(みころも)の。

裳(もすそ)のうちにかき入れて。あわれみ給うぞ有難き。未だ歩まぬみどりごを。

錫杖(しゃくじょう)の柄に取りつかせ。忍辱(にんにく)慈悲の御膚(みはだえ)に。

抱きかかえて撫でさすり。あわれみ給うぞ有難き。

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