十善戒の話
慈雲尊者飲光(じうんそんじゃ・おんこう。一七一八年〜一八〇四年)の名著、十善法語(じゅうぜんほうご)を抜き書きでご紹介したい。慈雲尊者は坐禅修行と仏教教理研究の両方を深くきわめた行学兼修の人であり、その達人が全力を傾けて書いた十善戒の解説が十善法語である。なお十善戒は初期の仏教ですでに説かれていた十善の教えを戒にしたものであり、代表的な大乗戒の一つである。
尊者は釈尊の教えに回帰することと、正法律(しょうぼうりつ)と名づけた仏教本来の律を復興することに生涯を捧げた人である。尊者の目はつねに仏教の根本に向けられていたのであり、そのため真言宗に属していたがそうした一つの宗派にとらわれることはなかった。
尊者はすぐれた言語学者でもあった。仏典に使われているインド伝来の梵語(ぼんご)を研究し、ついに独力でもって梵学津梁(ぼんがくしんりょう)一千巻を完成させたのである。この本には日本に伝わった梵語がすべて載っているという。なお津梁は渡し場の橋とか手引きを意味する。
尊者は儒教や神道(しんとう)も深く学んでいるが、神道の研究を始めたとき尊者はすでに七〇歳を越えていた。神道を研究したのは真言宗の教義に神道が含まれていたのが動機であり、仏、儒、神、の融合を説くその神道は慈雲の名から雲伝神道と呼ばれる。「この神道、無為に趣けば仏法なり。道とは常住不変なるものなり。この道、天地と共になり出でたる、わが国の神道なり。人倫ありて後、衆多の聖人いでて按排布置せる、これ儒教なり」
慈雲尊者の名を聞いて、墨蹟を思いうかべる人も多いと思う。尊者の墨跡のすばらしさは生前からすでに評判になっていたといわれ、二千点を超える墨跡が残っているという。尊者いわく。「志は護法に在り。故に、一行たりと謂えども必ず護法に在り、他の善心を開発するに在り」
尊者は江戸時代中期の一七一八年(享保三年)に、大阪中之島にあった高松藩の蔵屋敷で生まれ、父は蔵屋敷の管理をしていた武家の上月安範(こうづけやすのり)、母はお幸(こう)、七男一女の末子であり、幼名を満次郎、のちに平次郎と改めた。なお両親の墓は大阪市東住吉区山坂の真言宗の寺、法楽寺に現存するという。
尊者は小さいころから剛胆な性格であり、夜中に外にある便所へ行くのも一人でそっと抜けだして行っていた。あるとき父親が度胸だめしと、暗い便所の片隅にうずくまり様子を見ていたら、それを見つけた尊者はつかつかと近づいて父親の頭から足までなで回し、「ヤア、人間じゃ、人間じゃ」と言って小用をすませて帰っていった。その剛胆さに父親は驚くとともに、「この児は将来、大人物か大悪党になるに違いない」と気づかったという。
十三歳で父が亡くなり、その遺命により法楽寺の忍綱貞紀(にんこうていき)和尚について出家した。僧名を忍瑞(にんずい)という。ところが子供のころは大の仏教ぎらいであり、「十年間、仏教を学んでその誤りのあるところを知り、還俗して仏教を破砕し好きな儒教を学ぶ」ことを考えていたという。ところが学んでいるうちに仏教の奥深さを知り、のめり込んでいった。
二四歳から三年間、信州の正安寺に大梅禅師を訪ねて禅を学び、帰ってからも真剣に坐禅を続けた。坐禅修行を始めたのは、「多聞は生死を度せず。仏意とはるかに隔たる」という文を読んだのがきっかけであったという。
二七歳のとき、「胸中に何もなくなり、森羅万象ことごとく光り輝き、三世十方世界ひろびろとして、白雲が空を行くがごとき大自在を得た」と光尊者伝にある体験をし、心の中のお荷物を下ろすことができた。そして「自らその境涯を楽しみ、喜々として甘露を含むがごとし。飢寒の身に切なるを知らず。入定連日、落雷の柱を破るをも覚えず」という生活を続けた。
四一歳から五四歳までの十四年間は、生駒山(いこまやま)の中腹に独居して坐禅三昧の日々を送った。尊者が生涯を通じて坐禅を好んだことは、坐禅姿の肖像画がたくさん残っていることからもうかがえる。肖像画に見る尊者の温和な風貌には心を引かれる。禅の文献では臨済録を重視し、しばしば提唱した。
五九歳以後は葛城(かつらぎ)山中にある高貴寺(こうきじ)に住し、そこを根本道場として正法律を広めた。そのため葛城の慈雲尊者と呼ばれるようになった。高貴寺の住所は大阪府南河内郡河南町平石。山号は神下山(こうげさん)。宗派は真言宗。
尊者は歯が抜けるたびに請われて人に与えたらしく、歯に添えて贈った歌が十六首も残っている。このことは尊者が多くの人から慕われていたことを示す証拠だと思う。以下にその中の三首をご紹介する。なおスリランカの高原の町キャンディに、釈尊の犬歯を伝えていることで知られる仏歯寺(ぶっしじ)という寺がある。釈尊も抜け落ちた歯を人に与えたのだろうか。
「落ちそふる、この葉の秋のおとづれに、又こん春の近きをぞしる」
「深山木や、枯れ行くままに年を経て、春をもわかず落つる木の葉ぞ」
「今はただ、残る一葉を頼りにて、こずえ淋しきなが月の頃」
一八〇四年(文化元年)十二月二二日、尊者は八七歳で京都で亡くなり、遺体は高貴寺に運ばれて葬られた。臨終の日の様子を孫弟子の神光院智満和尚はつぎのように伝えている。
「尊者、西の京の阿弥陀寺で衆のために経を講じ、日没におよんで点灯を命ず。侍者、命にしたがい灯を点ず。尊者いわく、なお暗し、灯を加えよと。侍者、すなわち命にしたがう。尊者また曰く。なお暗し。さらに加えよと。侍者、また命にしたがう。かくの如くすること数回、侍者いわく、すでに五・七本に及べりと。尊者、笑ろうて曰く、しからば眼光まず去ると見えたり。死期遠からず。臥床を設けよと。乃ちしとねに就き、即夜遷化(せんげ。死去)す」
十善戒
師の曰く、人の人たる道は、この十善にあるじゃ。世間戒も出世間戒も菩薩戒も、すべての戒はこの十善を根本とする。十善と説けどもただ一仏性じゃ。一法性じゃ。この十善戒は、甚深なること広大なることじゃ。瓔珞経(ようらくきょう)に「理に順じて心をおこすを善といい、背くを悪と名づく」とある。仏性に順じて心をおこすを善といい、これに背くを悪という。本性に身口意(しんくい)相応すれば十善おのずから全きじゃ。
私意をもって本性を増減するがいわゆる悪じゃ。仏性は善悪ともに妨げぬものなれども、善は常に仏性に順ずる。悪は常に仏性にそむく。法として是の如しじゃ。ただ迷う者が迷う。知らぬ者が知らぬばかりじゃ。男女、飲食、睡眠などの、欲ある世界を欲界と名づく。欲をはなれ身心が禅定と相応する世界を色界と名づく。心が色身をはなれ、虚空と相応し寂静と相応するを無色界と名づく。
この三界は十善まったき処にて、その中の衆生は実にわが子ぞ。法として是の如しじゃ。ただ我相を存する者が、自他の隔たりを構えて自ずから達せぬ。本来空を知れば三界は我が所領じゃ。その中の衆生はわが子じゃ。色声香味などの諸塵が、みな妙理と相応して身心を悦ばす。山河大地をもって自己の身体とす。一切衆生の心念思慮をもって自己の心相とするじゃ。
正眼に見きたれば、一切国土として仏国ならざるなく、一切衆生として仏子ならざるなく、一切道として仏法ならざるなしじゃ。
世人の楽しみをも邪に求め、心の散乱を楽とするは愚痴の至りじゃ。自己だに明瞭なれば、その楽、身心に備わりて外の楽をかることではない。賢聖の心は法と相応する。上品の十善、三界を超過して無漏道を得る。この国の教えは彼の国に通ぜず、彼の人をみちびく教えはこの人に通ぜず、智人をみちびく教えは愚者にほどこすべからず。愚者をいざなう教えは智人に通ずべからず。ただこの十善のみ、万国におし通じ、古今におし通じ、賢愚、貴賎、男女におし通じて、道とすべき道じゃ。
十善戒法を真実に護持する者あらば、かならず勇猛剛強の徳を長ず。直き処からから出た勇が誠の勇じゃ。仁者はかならず勇あり。勇者は必ずしも仁あらず、とある。道の依る者の、怯弱(きょうじゃく)になる理はなきことじゃ。
戒法というは悪を止むなかにその徳を成就する。この十善に反するを十悪という。この十悪業を上品につくれば地獄に堕す。法性縁起の不可思議なることを信ぜば天眼をもって見ずとも地獄は有るじゃ。
戒学をもって自ら身心清浄にし、他を教えて身心清浄ならしめ、定学をもって自ら身心寂静にし、他を教えて身心寂静ならしめ、慧学をもって自ら身心明瞭にし、他を教えて身心明瞭ならしむ。もし賢聖ならば、たとい深山幽谷の中にあって一人の知人なきも、その国の福縁広大なるということじゃ。
第一不殺生戒(ふせっしょうかい)
一切衆生はわが子なるによって、一切有命の者に対すれば不殺生戒となる。一切有命の者が眼にさえぎれば必ず慈悲心生ずる。この菩薩の心を戒と名づくる。この菩薩の心、衆生に本来具有のものなれど煩悩・業障の深厚なるによって現ぜぬまでじゃ。現ぜぬといえども本来かけめはない。
総じて怒りは内の憂悩によっておこる。憂悩は我愛より生ずる。我愛は念々、念相を取るより生ずる。法のあり通りを全うして世に処すれば、一切時、一切処にその楽あるじゃ。楽あれば憂悩がない。憂悩なければ怒りは生ぜぬじゃ。
もし残忍の心をたくましくして、罪なき者をことさらに殺害して、極大の苦悩怨恨を生ぜしむる。この時、業の種子が成就して、他時異日、わが身に集まる。無しと言われぬじゃ。
殺生の、人道に背き、天命に背き、正道理に違うことを知って、みだりに殺さずみだりに悩まさぬが、世間相応の持戒者。殺生の業果空しからぬを信じ、殺さず悩まさず、憎み恨まぬが、出世間少分相応の浄持戒者じゃ。
衆生の当相まったく法性のある処なるを信じ、法相の当相まったく衆生の差別なることを知れば、自己法性の衆生、わが戒相となり来る。わが慈悲心となり来る。わが戒体この衆生あって倍増する。わが慈悲この衆生あって増上する。
この濁世に忍び難きをよく忍ぶ。この難事、この怒り悩むことあってわが忍力を成就するじゃ。背恩、暴悪、驕慢のひとを見てわが忍力を成ずる。ここに至って真正の持戒者と言うべし。人間に生まれたことの尊重なるを憶念するは、道に達する要津じゃ。自ら自己人身に尊重の心あれば、自暴自棄の患いが無きじゃ。さらに、微細の虫蟻に至るまで本性の平等なるに達す、これを不殺生戒まったきと名づく。
経のなかに「善心をもって悪人を殺すは、悪心をもって蟻を殺すよりその罪軽き」とある。また「国家に害あるを殺すは、その罪は無き」とある。世間にあっては、姑息の仁や怯弱の心をもって一・二人をゆるして大乱に及ぶことはせぬじゃ。
出世間の戒は一向に殺生せぬ。心を寄するはただ道のみ。世間の師とはなるべく、世間の交わりにはよらぬ者じゃ。賢人君子には一生怒りの声を出さぬ者もある。
人たる道に背くことによって清浄妙心の中に地獄を建立する。大火を現ずる。大水を現ずる。仏と異ならぬ心を持ちながら、自ら迷うて業相の姿を構えて、ここに死しては彼に生じ、しばらくも定かならぬじゃ。生もなく滅もなき場所に、みずから生死をかまえて種々に顛倒するじゃ。自己心中に大安楽のあるを知らずに迷うて居るじゃ。
第二不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
火は暖性じゃ。水は湿性じゃ。この水の湿、火の暖かなるは、いか様なる事あっても改まらぬことじゃ。水の湿性のごとく、火の暖性のごとく、菩薩は不偸盗の性じゃ。この盗戒のごとく、前後の九戒もみな菩薩たる者の本性じゃ。
日月星辰の動きを見て、古今に条理の乱れぬことを知る。条理の乱れぬことを知れば、道を守って疑わぬ。貧しきに処して富をうらやまず。賤しきに処して貴きを望まぬ。月満れば欠け、物盛んなれば衰えるを見て、世相の当然を知る。
満ち欠けのあることを知れば、得失是非に心を動ぜぬ。足りて奢らぬ。欠けて愁えぬ。雷ふるい地うごくを見て、常と変と相よることを知る。常と変と相依ることを知れば、時々にふれて恐れなく、難に処して自ら安んじ、常に処して遠く慮る。要をとりて言わば、眼に触れ耳に聞く、生まれ来たりしより死し去るまで、不偸盗の行相ならぬことはなきじゃ。
この盗戒は、上徳の聖者といえども尽くされぬ処なれども、盗みはせぬものぞ、他の物はみだりに用いるな、借りた物は速やかに返せよと言えば、どんな者でも護持のさせらるるじゃ。これを初めとして節操を教え導かば、賢聖の地位にも到るまじきものではない。上下智愚におし通じて、身に行い心に得べき道と言うべきじゃ。古今におし通じて行わるることならねば、道とは名づけられぬ。
この不偸盗戒は、智者も持たねばその智を失う。愚者も持たねば刑罰をまぬがれぬ。王侯大人も持たねば国おさまらぬ。庶人も持たねば家がととのわぬ。誠に、万国古今に通じて道とすべき道と言うべきじゃ。
近世、教相を建立する者は、仏法といえば向上に広大に説きしめす。教相判断がくわしくても、高くても、身の修まりにも、国家の治まりにも用に立たぬ。もちろん生死解脱の要路にたがい、仏意にも背くことじゃ。
近世の道俗をいざない導く者は、易きより易きについて、我が宗門のなかには過ちを改め悪を止むるには及ばぬと言い、持戒禅定も廃すべしと言う。ついに賢聖の正規則をとり失うようになり下がり、悪をなして恥じぬようになり下がったことじゃ。人に良心あれば、善根のすすめられぬと言うことは有るまじきぞ。
小乗法にあっては、不殺生戒の中にわが慈念、増長する。不偸盗戒の中にわが福徳増長する。不邪淫戒の中にわが行、清浄なる。不妄語戒の中にわが徳、真実なる。不綺語戒の中にわが心、寂静なる。不悪口戒の中にわが語音、柔順なる。羅漢果の人は言、まず笑みを含むとある。
不両舌戒の中に衆僧、和合する。不貪欲戒の中に小欲の行、成ずる。不瞋恚戒の中に四無量心を得る。不邪見戒の中に人無我の理にたっして、優に聖域に入るじゃ。
大乗法にあっては、大根機の菩薩を利益す。不殺生戒の中に生死を超過する。不偸盗戒の中に報土を荘厳する。不淫戒の中に、清浄の身心の到るところ禅定相応する。不妄語戒の中に広長舌相、三千界を覆う。不綺語戒の中に法の快楽を得る。
不悪口戒の中に、六十四種の梵音を成じて説法諸機に透る。不両舌戒の中に、四弁具足して人天信受奉行する。不貪欲戒の中につねに第四禅相応する。不瞋恚戒の中に後得智より大悲を生ずる。不邪見戒の中によく仏智慧に入るじゃ。
いま人間世界に生まれ出でし自己五尺の色身は、過去世の十善の影にて、仏性の一分縁起する姿じゃ。一生の寿命も福分も、位も智慧も徳相も定まりたるものじゃ。
親の病ある時、その子かわることもならず。子に痛みのあるとき、その親が分かつこともならぬ。福分が定まりあるによって、彼を減じてこれを増すこともならず。この増減のならぬ場所が仏性のあり姿で、不偸盗戒の縁起じゃ。
経中に、宝間比丘(ほうげんびく)という者あり。初めて具戒をうけて仏所に行き、礼拝して仏に聞く。すでに受戒し終わる。如何が修行して聖道を得べきと。世尊いわく、汝が物にあらずば取ることなかれと。
この一言の教えを受け、礼拝して去り、樹下にいたり石上に坐具をしき、結跏趺坐して思惟す。世尊の汝が物にあらずば取ることなかれの教えは、いかなる義ぞ。(中略)一切がわが物ならず取るべからず、と決定す。この時、一切の我相を離れ、廓然として初果にいり、再び思惟して羅漢果を成ぜしとある。
業は心相よりおこる。事に大小あれども理に巨細ない。この心ある所この業ある。理にそむき法性にたがう。地獄もあるべきことじゃ。この三途(地獄)に堕するを異熟果(いじゅくか)という。この不偸盗戒を犯する者は、たまたま人間に生ずるも貧窮な、資財に自在を得ぬ。これを等流果(とうるか)という。国にあって植うる所の五穀も霜などを被るを増上果(ぞうじょうか)という。
あやまる者は、本体かけめのなき仏性に背いて、生々の貧窮下賎の身となる。ただ謹慎の士のみ有って、自家屋裏の宝蔵ながく損減なきじゃ。
第三不邪淫戒(ふじゃいんかい)
不邪淫戒の相は正しきことじゃ。不淫戒の相は尊尚なることじゃ。この戒相は、法性より等流し来て、近く人天を利益し、遠く無漏道に達するの大道じゃ。
この不邪淫戒は、万巻の書を諳んずる者も、持たねば身に災いある。甚だしきに至っては、家を滅ぼし国を滅ぼす。全ければ終身やすし。学者も愚者も、一等につつしみ守らねばならぬじゃ。誠に智愚おし通ずるの道はここに在るじゃ。
国の乱れもこれを元としておこる。家の礼もこれを元としておこる。身の礼もこれを元としておこる。謹慎に守る者は、天神地祇の冥助を得る。男子にせよ女人にせよ、我に属せぬ者には心をよするな。みだりになれ睦まじくするな。
法性が縁起しなければ止みね。縁起すれば天地となり来る。この天地の中に男女となり来る。この男女の中に不邪淫戒・不淫戒の相となり来るじゃ。
法性が男女となり来たり、この男子あって天の徳を全くする。この女子あって地の徳を全くする。男女の道が正しければ天地の気候もおのずから正しく、乱るれば天地の気候もおのずから乱るる。この道に慎みある者は天の福をうける。この道の乱るる者はその身に災害あつまる。古今いずれの国にも、この道乱るれば国を亡ぼし家を亡ぼす。
真正の沙門の不淫戒を護持するは、諸仏正法のある処じゃ。世間未曾有の法じゃ。世尊、この僧宝を世に残して人天の福縁となし給う。縁あれば出でて世の福田となる。縁なければ隠れて心地の徳を煉る。三衣しばしば破れ、一鉢つねに空しうして、身心とこしなえに泰然たるじゃ。これを供養する者は天地の間にあって福禄栄耀の報いを得る。
五欲の中には触欲もっとも重く、情欲の中には愛欲もっとも深しとある。この淫欲の法、身心を繋縛して累劫の憂いとなる。愛欲に随順すればこの世界ことごとく執着となる。流れて我慢となり、あるいは争いを起こす。
この愛欲というものは禅定智慧をさえぎる故に、経・律の中で深く呵責するところじゃ。
第四不妄語戒(ふもうごかい)
この不妄語戒というは、万事を偽らぬことじゃ。見たこと聞いたこと、皆ありのままで事がすむじゃ。いつわりは言うな。言うたことは違えるな、といえば、上下智愚におし通じて行わるる。知れた通り持ち易きじゃ。
それじゃが、このありのままが実にその徳あるじゃ。いかようの事が有りてもこの戒は破るまじと誠心決定すれば、その徳が天地にも古今にもゆきわたることじゃ。この真実語というものは法性のあらわるる姿で、この世間を利益するじゃ。
総じて妄語というものは下劣なることで、人をあざむく以前に早く自己をあざむく。天地にも背く。わずかに一・二人をあざむかんとして天神地祇の冥助を失うじゃ。
言語その正しきを得れば、人道立し天道立し、ゆたかに聖域に入る。言語その正を失えば、法性にそむき、天道人理に背き、生々の処に人身を失うじゃ。
要をとりて言えば、偽りを言わぬばかりが甚深じゃ。最甚深じゃ。真実語が直に仏語じゃ。外に仏語はない。この真実語を法と名づくる。外に法はない。この法を精勤に護持する人が菩薩じゃ。外に菩薩はない。
一切の非衆生の音韻も法性のあらわれた姿じゃ。松風、水の音。このなか決徹して疑わねば、耳根の中に円通門を得ることじゃ。
現今、この世間も、仏世尊の無漏大定の中に安住してあるものじゃ。現今の言音も諸仏の妙法じゃ。ただ業障深重なる者が、寂光土の中に無常敗壊の相を見る。
元来、この身口意の業は同一なるものじゃ。別に似て、別ならざるものじゃ。身に口業を造ることもあり。意に口業を造ることもあり。身の妄語とは、人をたぶらかさん為に、卑官の人が高官をいつわる。徳なき者が有徳の相を現ずる。才なき者が才あるよそおいを作す類。
心の妄語というは、人知れぬ心の内に、一度かくあるべしと思い定めたことを容易に改むる類じゃ。仏菩薩に誓ったことを容易に改むる類じゃ。この心の内というものは、多少の人が容易に思うことなれども、徳義を成就することは、この人しれぬ処にあるじゃ。真正にこの戒を護持する者は、思うこと言うべく、言うこと必ずおこなうべく、身口相応し、内心また異なき。これを三業の不妄語という。
妄語の法、順ずれば世間出世間の妙安楽を生ずる。背けば妙安楽を失う。矢の弦を離れたる如く、発すれば止められぬじゃ。愚痴なる者は、火と言って口を焚くものでなく、食と言って飢えを療するものでなきと思い、言辞を容易にする。あやまりの甚だしきじゃ。肉眼にこそ身えね、天命ここに定まりて身の吉凶となるじゃ。智者は言語すくなく、また妄語なきじゃ。もし多言なれば盛徳のきずとなる。虚妄なれば身を亡ぼし家をうしなう。また愚者はおおく妄語する。この因縁によって他の欺きをも受くと言うことじゃ。
諸仏と仏弟子は妄語は無しとある。この妄語なき人が真正法を得る。真正法の人はこの一切言音がみな法門となり来る。この言音中に法を満足して、無漏聖道を得ると言うことじゃ。
一切諸法をとりも直さず第一義じゃ。柳にあっては緑じゃ。花にあっては紅じゃ。獣が林にかける。諸仏の大涅槃に相違せぬじゃ。鳥が空中に飛ぶ。菩薩の智慧徳相に異ならぬじゃ。我相ある者は、法において法相を生ずる。法相生ずるによって取捨憎愛を生ずる。
迷う者は迷う。元来、法に高下はない。悟るものは悟る。元来、第一義も不可得じゃ。第一義も不可得なるによって、諸仏の無上菩提というは可得の法ではない。
第五不綺語戒(ふきごかい)
第五を不綺語戒という。綺は織りなして模様ある絹じゃ。あやある言葉、正しからぬ辞を綺語という。この戒はこの絹にかたどりて名を立てたものじゃ。この模様ある言辞は、質直を失って散乱をまねく。新訳に無義語と訳す。これは義理なく利益なき辺に名を立てたるものじゃ。また雑穢語と訳す。純一ならず清浄ならぬ辺に名を立てたものじゃ。
四つの口業の中で、余の三戒はその罪いちじるしければ、その悪たる誰しらぬ者ない。この戒は他の歓笑をもよおすなればその相、隠る。その悪たる、知らぬ者が多い。もっとも細心に護持すべき戒じゃ。
およそ大人(たいじん)たる者は言語すくなき習いじゃ。まして飾りたる言、あやある辞、義理にかなわぬ言葉、みなその人品に相違す。もし言えば、大人の道に違うてこの不綺語戒を破するじゃ。小児をからかったり恐怖せしめたり、あるいは怪談を設け怪事を構造して、世を惑わし民を惑わす類、みな災いのきざしと知るべし。
下なる者が上の衣冠を著し、上の威儀をまねする。男子が女人の衣服を著し、女人の威儀をまねする。在家が出家の衣服を著し、出家の威儀をまねする。出家が在家の衣服を著し、在家の威儀をまねするなど、みな身の綺語に属する。
武士は軍事を戯れごとに為すまじきなり。仏者は法を戯れごとになすまじきなり。王者は政事を戯れごとに為すまじきなり。この戯れは一事といえども容易ならぬじゃ。一言国をおこす。万民の福となる。一言国をみだす。万民のわざわいとなる。
この綺語たわむれは、世にあって憂苦を長ずる。謹慎篤実はじつに歓楽のある所じゃ。ここに人あって、その心軽薄に落ちねば、天地四方、風雲日月、みなわが楽のある所じゃ。禽獣草木、古今の人物、みな我が楽のある所じゃ。一切の典籍、治乱の事跡、みな我が楽のある所じゃ。春夏秋冬、時々の風景。皆その楽となる。およそ誠の楽は天の与ゆる所にあって、天地とともに尽きることがない。綺語などに随順する暇はあるまじきことじゃ。
法としては是の如くなれども、この綺語をも一向に廃せよと言うではない。広く言わば世間一切の事、みな利あり害ある。たとい詩書六経も時によりてはその害を生ずる。囲碁飲酒も、事に当たっては少分の徳ある。たとえば一草一木の、みな能あり毒ある如くじゃ。
いたる処の樹下、もしは石上、もしは静室の中、みな我が修行の道場となる。結跏趺坐して正憶念する。この楽はまた世間に類せず。智度論の中に、魔王が結跏趺坐の絵を見ても怖るるとある。塵外にへいげいして、胸中に一世を空ずる。月下に経行して、自ら我相を伏する。独処して自らあざむかぬ。世間に交えて慈悲と相応する。ここにおいて、茶香、囲碁等の興、たとい許すとも、随順して居らるる場所でない。
先仏の相、賢聖の姿。賤しきことは位なく官なし。尊きことは人間天上の師位じゃ。この貴賎あいかかわらぬ処にその道あって存する。貧しきことは資財みな念を絶す。富めることは万国の応供。世間の福田じゃ。この貧富あいかかわらぬ処にその道あって存する。
美服美食、一切の名誉、みな我が心を煩わすに足らぬ。時を積み年をかさねる。日々いまだ知らざるところの法を知る。未だ見ざるところの法を見る。飢えたる者の食を得るごとく、法味身心に徹してながく捨離せぬ。熱時に涼風を得るごとく、世間の熱悩ここに遠離す。疲極の者の休息を得るごとく、身心の煩労ここに遠離す。誠に歓喜を生ずべき処じゃ。誠に楽しむべきことじゃ。
経中にこの説がある。出家に三業ありて終身、心を寄すべき処と。一に坐禅。二に誦経。三に営事。諸仏賢聖は余事なし。ただこの禅定のみじゃ。仏の無上正覚、入涅槃、みな禅定相応の姿。その中間の説法、みな禅定三昧の所現と言うことじゃ。
誦経というは、仏語を受誦して、これをもって心地を照らす。一句半偈ことごとく甘露味にして、無漏大定より等流しきたる所じゃ。口誦すら業障を消滅し、善功徳を得る。心、憶念すれば累劫の迷習を解脱し、聖慧を獲得する。
営事というは、経中に、仏地を一掃するは閻浮提の仏を造るに勝るとある。近くは雪峰禅師が到るところ典座に労をとる。賢聖の福分に従事すること是の如くじゃ。衆僧、我によりて安楽に修行する。仏法、我によりて世に久住す。自利利他、当来の資糧、ここに積集するじゃ。
この坐禅入定の楽しみ、受誦経論の楽しみ、営事福業の楽しみ、ことごとく糸竹管弦の比すべき所にあらずじゃ。僧徒の詩賦文章にわたり、書画にふける。みな恥ずべきの甚だしきじゃ。
要をとって言わば、諸法のあり姿の、改まらず変ぜず、飾らず違わざるを不綺語戒の相と名づく。
第六不悪口戒(ふあっくかい)
第六は他を侮らぬ法じゃ。この法を不悪口戒という。悪語をもって人をののしる。これを悪口という。この悪口の卑劣なることを知って、口業を守り、柔軟語に順ずるを不悪口と言う。この不悪口を護するを不悪口戒と名づくる。この悪口は身を亡ぼし国を破る。
下賎なる者を下賎といい、愚痴なる者を愚者といい、形不具足なる者をかたわものという類、ことごとくこの戒の違反じゃ。もしは上等の人を中等にいい下し、中等を下等にいい下すは、この戒、増上の違反じゃ。浮ついた者を猿に比し、暴悪なる者を狼に比するなどは、もっとも甚だしきことじゃ。
もし事実なきにことさらに設けなしてののしるは、悪口に妄語を兼ねる。もし嘲弄してののしれば綺語を兼ねる。もし他の親好を破すは両舌を兼ねる。
もし驕慢の心あって、他を見ること禽獣の如くなるを意業の悪口とす。意気揚々として、鷹の衆鳥をしのぐ如きを、身業の悪口とす。もし語業、悪口を離るるとき、心おのずから驕慢を離るる。身おのずから傲慢を離るる。この故に有志の者は、初めに語業を慎むべきじゃ。
大人の大人たる所は、意気揚々の処にはなくて志性温良の処にあるじゃ。その楽しみ放逸歓楽の処にはなくて、謹慎篤実の処にあるじゃ。その心、傲慢なれば兄弟妻子もみな怨賊となる。一度の麁言、一度の傲慢、みな災害の兆しと知るべし。
謹慎篤実の人のみあって、今世後世の楽事を全くするじゃ。愚なる者は謹慎は窮屈なるように思い、放逸は安楽なるように思う。そうではない。誠の楽は放逸の処にはない。愚なる者は謹慎篤実なれば、不器量のように思い、傲慢大胆なれば一器量あるように思う。そうでない。誠の度量は謹慎篤実の上にある。
総じて、人のこの世にある、上下貴賎、一人として、是にてよきぞと心を許すことはならぬ世界じゃ。もしこの怠あれば、この災いそこに長ずる。徳、高ければいよいよ慎まねばならぬ。この謹慎のところに自ら利し他を利する。名、高ければいよいよ慎まなければならぬ。この謹慎のところに天の助けを得る。
年、長ずればいよいよ慎まなければならぬ。この謹慎のところに無病延寿がある。功、大なればいよいよ慎まなければならぬ。この謹慎のところに偉名をまったくする。独弧無伴なればいよいよ慎まなければならぬ。この謹慎のところに神霊の守りあるじゃ。いにしえに、君子はその独りを慎むとある。
三業の悪口なければ、その人を徳者と名づくる。ここに欠くることあれば、徳者とは名づけられぬじゃ。老人もしこの戒を謹まざれば、世に処して恥が多いじゃ。貴人もしこの戒を謹まねば、下より上を侮る。君父もしこの戒を謹まねば、子弟の侮りを受くる。
一切の衆生いきとしける者、みな一仏性なること大海の同一塩味なる如く、虚空の同一廓然たる如くじゃ。この一仏性、凡夫とても減ぜぬ、仏に在っても増せぬ。この仏性の増減なきことを信ずれば、みずから驕慢の心なく、悪口は離るるじゃ。迷いに迷いをかさぬれども元来相違なく、廓然として開悟すれども元来相違ない。この迷悟へだてなきことを信ずれば、みずから驕慢なく悪口は離るるじゃ。
賢聖は一仏性において、常恒に清浄無為じゃ。凡夫は一仏性のなかにおいて、常恒に煩悩無明じゃ。この煩悩無明の中、影を追うて止まぬ。業にしたがって流転する。一多を建立する。自他を建立する。無常の常相をこしらえる。無我法中に我相を計する。一法中に心境を分異する。
衆生に仏性あることを知れば、礼拝尊重すべし。仏性を尊重すれば、その人の目にはただこれ仏性のみじゃ。元来、世間に一衆生として凡夫という者を見ぬ。仏性を礼拝恭敬すれば無量の功徳を得る。悪口すれば大罪を得る。真正の道人、その罪のあることを知る。その功徳のあることを知る。
一切衆生、業風に吹きまどわされて、ここに死しかしこに生ずる事、たとえば空中に浮かぶ雲の如くじゃ。風にしたがって合す。合すれば同一の雲じゃ。風にしたがって離散す。離散すれば百千万の雲じゃ。一切衆生が自性空中に起滅して、彼あり此あるに似る。貴あり賎あるに似る。智愚あるに似る。
第七不両舌戒(ふりょうぜつかい)
今日は不両舌戒じゃ。この戒は平等性じゃ。和合の徳じゃ。人に交わって友愛親好の心あるがこの戒の趣じゃ。菩薩はみずから友愛親好の心なるによって、他の友愛親好を喜ぶ。誤っても離間して他の親好を破することはない。この不両舌戒が直に菩薩の本性じゃ。この心、一分まったき者が人間の当分じゃ。もし衆に及ぶ者が人民の主たる徳じゃ。
この友愛親好、近くは人の人たる道で、家にあっては孝となり、君に仕えて忠となり、郷党朋友の交わり、みな和順するじゃ。遠くは縁にふれて法を得る。境に対して自身を明らかにする。飛花落葉に無師自覚する。一句一偈の中に無漏聖位に入る。一切時、一切所、みな自心と相応して無上正覚の基本たるじゃ。
両は両人両家などを指す名じゃ。舌は言説往来のことじゃ。新訳には是を離間悟と訳す。離とは離別じゃ。間とはへだつことじゃ。この事の悪なるを知って、他の親好を破せぬを不両舌と言う。
およそ世間の習い、中以下の人の言は、多く抑揚表裏あるものじゃ。これらの言は、聞かざればよし、もし聞くも心頭にとどむべきことではない。もしこれを聞いて憶持し、これの語を彼に伝え、彼の悟をこれに伝うれば、必ず彼此の親好を破して、仲あしくなるべきじゃ。
この中、ありのままなることを言うて離間するが、この戒当分の犯じゃ。ありのままを違うれば、両舌に妄語を兼ねる。もし粗野な言辞をまじうれば、悪口を兼ねる。もし綺飾の言をまじうれば、綺語を兼ねる。国の乱れたる時、知謀の士が軍中の計略に、あるいは離間し、あるいは反間を行う。これは違犯ではない。
両舌語は語業のなかにもっとも卑劣なることじゃ。ついには人を敗りみずから害し、家を亡ぼし国をくつがえすじゃ。もしこの戒を破する者は、貴人はその位を失い、徳者はその徳を失い、威権あるものはその威権を失う。人倫の賤しむところ、神祇の憎むところ、天命の許さぬところ、法性に違背する処じゃ。
山あれば川ある。峰あれば谷ある。陸地あれば海ある。春夏あれば秋冬ある。刀剣あれば甲冑ある。みな友愛の徳、不両舌の功じゃ。
およそ法を説くはただ相対の儀じゃ。生死にたいして涅槃を説き、凡夫にたいして聖者を説き、煩悩無明にたいして菩提を説く類じゃ。ここに至っては、迷いの源に達すれば直に聖域に入る。
迷情のなかにこの心境を見る。この心境能所のなかにも、平等の性、和合の徳は、本来隠し得ぬじゃ。心現ずれば境きたる。境来たれば憎愛生ずる。もし能所を離るれば、法は元来不可得じゃ。およそ法を論ずるは、ただこの能所の差配じゃ。ここにいたって能所おのおの立して、ただ心源を見るじゃ。
妄想を相続する中にこの生死あるじゃ。この生死界にも平等の性、和合の徳は、本来隠し得ぬじゃ。生おのずから生ならぬ。滅にたいして仮に生を現ず。滅おのずから滅ならず。生にたいしてその相を現す。この穏顕を捨つれば世界元来不可得じゃ。およそ世相を分別するは、ただこの穏顕のみじゃ。
要をとりて言わば、言わぬ処に言語の徳は全く、思わぬ処に心念の徳は具わる。山がみずから山と言わぬ。山と思わぬ。山の徳はここに全い。海がみずから海と言わぬ。海と思わぬ。海の徳はここに全い。天がみずから天と言わぬ。天と思わぬ。地がみずから地と言わぬ。地と思わぬ。天地の徳はここに全い。四時おこなわれ百物なるじゃ。仏性は言説心念を離れて、しかも常に縁起する。縁起端なきこと環(たまき)の如くじゃ。
首楞厳経(しゅりょうごんぎょう)に、跋陀婆羅菩薩(ばっだばらぼさつ)が浴室において水因三昧を得るとある。不両舌戒が満足すれば、一切の冷暖軽重等の触が、菩薩の禅定三昧じゃ。
口に説いて道を得るのではない。たとえば高山に登る思いあらば、道に迷わぬように足を損なわぬ様にして、ただ歩を移すばかりでよきじゃ。歩を移して休まねば、山頂をきわむる時節あるじゃ。今時の者の法を得ぬは、ただ教相の深浅、法門の高下を論じて、実習実行なき故じゃ。談論なかばにして日すでに暮るるじゃ。
涅槃経に、好衣服を好むは法滅の相という。染色の法は、青、黒、木蘭の三如法色ということじゃ。経に、法滅のとき袈裟白色に変ずとある。
四姓、出家してことごとく釈氏と称する。貴族卑姓の品あれども、同一和敬じゃ。凡聖まちまちなれども、ことごとく同一師に学する。要を取りて言わば、この心は制伏せねばならぬものじゃ。涅槃経に、心の師とはなるべし。心を師とすることなかれとある。平生みずから省みて、自心の非を知る。もし我が三毒を知らば、かならず随順せぬ。みずから制伏する道を思う。
この身かぎりあり。その智かぎりありて、ひとり衆能をそなえることならぬ処に、天道人理も備わることじゃ。我ひとりの智をもって、衆事を統べらるると思うは、理に暗きことじゃ。一家の主は、一家の大体を心とすべし。一国の主は一国を我が心とすべし。細末の事は、知らざるも可なりじゃ。此を十善の法という。
修行道地経の中に、禅法を教授する者、他心通あればみずから禅定に入り、その根縁を観じて随宜の法を授くべし。もし他心通なき者は、その相貌威儀を察して塵労を分別し法を授くべしと。たとえば、多婬の人は不浄観を修して法に入るべし。多瞋恚の者は、慈悲を修すべし。
二六時中、生より死に至るまで、法を得る時節じゃ。天文地理、一切人事、禽獣草木に至るまで、みな全く法の当相じゃ。縁のある処はこの法のある処、法のある処はわが得道のある処じゃ。
如上の四つの口業は、一の妄語に帰する。在家の五戒の中には、一の妄語を立てて、余の三罪を摂する。この十善の法は、つぶさに開示して口に四罪を分かつじゃ。もし、妄語、綺語、悪口、両舌の者は、世に処して怨憎おおく、自心をあざむき、言うところ人みな信ぜず、しばしば災いに遭い、悪趣に入る。
この心、未来際をつくして断絶せぬは、楽しむべきことじゃ。一たび作ったことの消失せぬは、楽しむべきことじゃ。この善悪業果ありて、一切世界の苦楽昇沈、みな我が心より生ずる。ことごとく楽しむべきことじゃ。
第八不貪欲戒(ふとんよくかい)
第八の不貪欲戒も護持せねばならぬことじゃ。この戒に随順する者は、夜も安穏じゃ。昼も安穏じゃ。家居も安穏じゃ。遊行も安穏じゃ。無病長寿じゃ。独居して憂いなきじゃ。世に交わりて災害なきじゃ。無漏聖道の因縁となるじゃ。貪瞋痴(とんじんち)を、三毒と名づく。
十善戒の最後の三戒、これによりて制するじゃ。いにしえより釈して、境に染するを貪と名づけ、憤怒を瞋と名づけ、闇惑を痴と名づくという。今ここに貪欲というは、境に染著して心に希求する義じゃ。この境の虚仮なることを知って、希求の心なきを不貪欲という。法ありてこの不貪欲に随順するを不貪欲戒という。
世間に凡夫という者がある。無しと言われぬじゃ。また聖者という者がある。無しと言われぬじゃ。凡夫とは何を名づくるなれば、貪欲ある者の名じゃ。貪欲が丸こかし凡夫の心じゃ。聖者とは何を名づくるなれば、貪欲なき人の名じゃ。不貪欲戒が丸こかし聖者の心じゃ。今日の人間、五尺の小身、別に金色光明を放たずとも、この貪欲だになくば、人人生まれついたままで、是が聖者じゃ。
なぜにこの貪欲を凡夫心と名づくるなれば、貪欲はかならず苦と相応するものじゃ。一切欲ある処として、苦ならぬはない。この貪欲ありて、身も心も苦しみ、二六時中定かならぬ者が、世にいわゆる浅ましき凡夫じゃ。もし情欲あれば勇者も勇を失う。智者も智を失う。
貪欲心をもって、色を見れば五色みな苦じゃ。貪欲心をもって、声を聞かば五声みな苦じゃ。貪欲相応すれば、花の香、舌の味、身の触、みな苦じゃ。貪欲心をもって世間に住すれば、男女大小みな苦じゃ。金銀財宝、地位名誉みな苦じゃ。
この貪欲の諸苦を出過せる人が聖者じゃ。不貪欲戒に住して色に対すれば、一切の青黄赤白がこの眼を養うに足るじゃ。一切の松風水音がこの耳を遊ばしむるに足るじゃ。一切の好香悪香がこの鼻を安んずるに足るじゃ。一切の味がこの舌を養うに足るじゃ。一切の寒暖温冷がこの身を置くに足るじゃ。一切の善悪邪正・是非得失がこの心を遊ばしむに足るじゃ。一切時一切処が上人聖者の境涯じゃ。この十善戒には飲酒戒を制せぬじゃ。なぜぞ。十善は世間出世間の通戒じゃによって、飲酒は所論でなきじゃ。十善の人、礼式に順じて時あって酒を用いる。過ぐるに至らぬじゃ。もし過ぎて威儀を乱すに至れば、この不貪欲戒を破するじゃ。
この正法の処より看れば、天地もまったく不貪欲戒の姿じゃ。日も中すれば傾く。月も満れば欠くる。物さかんなれば衰ろう。草木も、花のうるわしきものは木の実が美ならぬ。禽獣も、角ある者は牙を略す。珠玉の多き国は、かならず五穀衣服に乏し。寒雪の国は暴風すくないと言うじゃ。
人間もまったく不貪欲戒の姿じゃ。独り生じ独り死する。千金の子も一銭を持ち来たらず一銭を持ち去らぬ。不貪欲戒の姿じゃ。富栄の人は短命なる者が多い。貧賤の家は多く子孫に乏しからぬじゃ。多事なれば身を損ずる。多慮なれば心を労する。華奢を好む者は、多くその家を亡ぼす。枯淡を守る者はおおく一世を全くするじゃ。
世に処してこの戒を護する者は、天地をもって我が心とするじゃ。天の与うる所は万乗も辞せず。天の惜しむ所は、一草一木も取らぬ。驕奢の身に益なきことを知って、常に減じて更に減ずる。飢えて食すれば、諸味みな口にかなう。困じて眠れば、寝席つねに安きじゃ。文華の志をやぶることを知って、拙を守って更にまもる。
器物の飾りを省く。衣服の飾りを省く。言辞、巧を去って直につく。進退、繁を去って簡につく。位はおる処にして足る。富は命ある処に足る。楽は四時昼夜に具わる。清夜に仰いで名月衆星をみる。この荘厳は金銀珠玉のおよぶ処ではない。不貪欲戒をもって心とするは、面白きことじゃ。
世間の法として、楽しみをも好むべきなれども、これに時日を費やすは愚じゃ。諸々の遊び事、好めば好むにしたがってその中に味わいが生ずる。これを荒と名づくる。この味が生じて止むことなければ、徳義をそこなうに至るじゃ。
花を愛するも、可なりじゃ。桜を庭前に植うるも、山林に尋ぬるも、可なりじゃ。もし他家庭前の植木をも奪い、財を費やし力を労して、求めて止まぬ類は、じつに災いの伏するところじゃ。
功なくして禄ある。徳うすくして位たっとき。不意に財利を得る。分に過ぎて称賛を得る。みな智者の慎む処じゃ。この禄位は、寿命の減ずるかあるいは眷属を奪うじゃ。この財利は、かならず禍の伏する処。この称賛これ毀謗の兆しじゃ。もし謹慎あまりあって災難に遭う。この難は福の基じゃ。満分に他を恵んで怨讐を生ずる。この怨讐はかならず人望の帰する基じゃ。
世の愚なる者は、災難にあって憂悩する。憂悩、増長すれば、鬼類便りを得て災害が断絶せぬじゃ。あたら復縁を失うじゃ。怨讐にあって瞋怒を生ずる。瞋怒が増長すれば、此も鬼類その便りを得て生々怨敵となる。あたら人望を失うじゃ。顔色つねに和す。音声つねに和す。挙動つねに謙下す。威厳この中にあって尽くることない。
不貪欲戒は、一切世間において護持せねばならぬ法じゃ。一念、分をこえ貪欲に随順すれば、自心に背く。世間に背く。人倫に背く。天道に背く。法性に背くじゃ。これを初めに慎まねば、あと救うべからざるに至るじゃ。この常を守り分を超えぬことは、至って易き道なれども、その徳は広大なることじゃ。
この身あって着る。その限りを知る。身にかなえば止む。この衣服十分の好を求めぬ。この口あって食らう。その限りを知る。十分の好味を求めぬ。もしその味わいはなはだ口にかなう時は、三分して一を減ずる。この眼あって十分の好色を求めぬ。もしその色はなはだ眼に適うときは、その守りを知る。
よくこの戒を護持する者は、家宅十分の安きを求めぬ。病あるとき、医に十分の功を求めぬ。人に交わりて十分の親好を求めぬ。臣佐を用うるに、おのおのその長ずる処を取る。奴僕を役使するに十分の労を為さしめぬ。軍に臨んで十分の勝ちをとらぬ。書を読むに解し尽くすことを求めぬ。事に臨んで十分の才を尽くさぬ。十分の名に居らぬ。十分の功に居らぬ。
生々の処、この戒と共に生ずる。この戒と共に長ずる。富四海を保って心に繋縛ない。貴き億兆の上に居して心に倨傲ない。心に繋縛なければ、この富未来際を尽くして用い尽くさぬじゃ。心に倨傲なければ、この世界のあらん限りは尽くさぬじゃ。
なぜぞ。法性無尽なれば戒善も無尽じゃ。戒善無尽なれば善業果も無尽じゃ。善果、戒法を助けて、常に世界に居す。この位、この富、生々の処に随逐して影の形を逐うがごとくじゃ。
第九不瞋恚戒(ふしんにかい)
この不瞋恚戒は一般の人にあっても容易ならぬことじゃ。まして王公大人にあっては、その利害もっとも著しきじゃ。謹慎に護持して事々みずから省察するべきことじゃ。
世間の悪事その数おおしといえども、本源は貪欲・瞋恚の二つじゃ。その中、みずからの志を破り徳義をそこなうは貪欲を第一とす。世を乱し事を害するは、瞋恚を第一とす。説くときはこと別相あるに似たれども、貪欲ある者はかならず瞋恚ある。瞋恚ある者はかならず貪欲ある。その悪不善法たることは一つじゃ。貪欲を離るれば瞋恚も薄くなる。瞋恚を離るれば貪欲も薄くなる。その善功徳たることは一つじゃ。
孔子の家児、ののしらるる事を知らず。曾子の家児うたるる事を知らずとある。もし家に打罵呵責の事あるは、その主人たる者は恥ずべきことじゃ。軍陣と言うものは、世間闘争の大なることにて、善順柔和に相違せるだに、忿兵はかならず敗軍すと言う。
その余のこと、みな怒って敗れぬと言うことはない。もし事にふれて怒りの心おこらば、この敗れの兆しと知るがよきじゃ。華厳経に、菩薩、一念心の瞋恚の火によって、無量億劫の功徳法財を焼き失うとある。初め、一念の瞋恚はわずかなれども、その罪業障の増長する、実におそろしきことじゃ。
経中に、まむしの口に毒ある。蜂の尾に毒ある類。みな瞋恚の姿とある。地獄界の猛火あるも、この瞋恚の増上せる姿と言うことじゃ。これらは、たとえば風寒暑湿の病、五臓の虚実によって、種々の怪夢を見るごとく無しと言われぬじゃ。
この世界、平等なり。山川草木、みな己が心中の法門じゃ。飛花落葉ことごとく我が迷情を開解する道場じゃ。清風明月、我とともに善を修し悪を止むる友じゃ。犬の門を守る。鶏の暁を報ずる。山林に花果ある。田野に穀米ある。みな我が手足・庫蔵じゃ。男女大小、起居動静、みな我が善知識じゃ。元来平等性の中、彼に是なく此に非なし。まるこかし不瞋恚戒の儀じゃ。その是非を見る者は、見る者のとがじゃ。その瞋恚を生ずるは、生ずる者のとがじゃ。
山川草木に対して瞋恚を生ずるか。この山川は、耳目なく思慮なく、わが瞋恚を見聞分別せぬ。この瞋恚、労して功なきじゃ。鳥獣に対して瞋恚を生ずるか。この鳥獣は、みずから水草を逐い、みずから食を求め友を求む。わが言意を解せぬ。この瞋恚、労して功なきじゃ。
人間に対して瞋恚を生ずるか。この人間は、日夜に衰老してついに死に帰する。石火電光の暇、しばらくこの世に存在するも、枯骨皮肉に包まれたものじゃ。わが相手になるに何の所詮なし。此も労して功なしじゃ。
わが身心の苦悩不如意は、わが業力による。他の知るところに非ず。他の慳貪瞋恚は他の妄分別による。わが身心に関わるにあらず。一類愚昧の者、わが業力にたぶらかされて他を怒る。過ったことじゃ。一類愚昧の者、他の妄分別を執着して、みずから瞋恚を動ずる。浅ましきことじゃ。迷いの著しきことじゃ。
法性海中、その境あるいは心に順ずるに似る。その境あるいは心に違うに似る。この順違まじり生じて、この世界がむつかしくなる。二六時中、ただこれ我他彼此じゃ。生より死に至るまで、ただこれ驕慢嫉妬じゃ。
順境に対して愛を生ずる。この愛、衆生を悩乱して、猿まわしの猿をつかう如し。違境に対して瞋恚をおこす。この瞋恚、衆生を悩乱して丈夫の小児を弄するが如し。愛より瞋恚をおこす。瞋恚より愛をおこす。環の端なきが如く、青蝿の生肉を離れ得ぬが如くじゃ。
一切衆生が自心に思いをおこし、この心より境を生じ、みずから造作せし境にしたがって愛恚をおこす。此に愛を生ずれば、彼も愛をもって応じ、此に瞋恚を生ずれば、彼も瞋恚をもって応ず。境が心にしたがって種々に転変する。不可得なるものが衆生となり来る。瞋恚心となり来る。愚かなる絵師が、みずから描き出した夜叉に怖れてみずから夜分におそわるる如くじゃ。
羅漢果を証せし人は、左の方に香をもって供養する。右の方に損害の心をもって来る。この二人に愛憎なきとあるじゃ。
この色ある。この声ある。この香ある。この味ある。この触ある。この善悪邪正・得失是非ある。この貪欲ある。この瞋恚ある。ただこれ空中の影じゃ。迷わば迷え、この迷い元来、根なし。覚らば覚れ、菩提はこれ空の義じゃ。真正道人の世にあること、虚空の如くじゃ。
世事の思うままにならぬ処に、面白きことあるじゃ。この縁ありてこの苦楽を生ずる。一切ただ迷情の差配じゃ。わが身の思うままならぬ処に、面白きことあるじゃ。
人間、死すれば朽ちて土に帰す。迷者の習い、生きて動き痛痒を覚すれば、これをわが物と思い、日夜に保著すれども、ただこれ生縁いまだ尽きざる間の妄想のみにして、元来、土塊に異ならぬじゃ。山川大地・草木叢林をもって自身と説けば、広大なる事を言い出すようなれども、元来この土塊を自身と思うより看よ。遠くはなきじゃ。
衆生界のほか別に仏界あるに非ず。仏界のほかに衆生界あるに非ず。迷う者は、諸仏の無上正覚のなかに居て三毒をおこす。諸仏は常に衆生三毒のなかにあって、無漏大定智悲に安住す。この無漏大定智悲、衆生界に応現して、月の万水に影をうつす如くじゃ。
三毒の縁起いずれの処より来るぞ。ただこれ現今、衆生一念心上の按排布置じゃ。この一念心また蹤跡なし。元来、生なく滅なく、来なく去なし。悟らんと欲せば直に悟れ。汝が一念心、元来不可得じゃ。迷わんと欲せば迷え。汝が一念心上の愛水、世界をうるおして生ず。生ずる者はかならず滅す。消滅ある処かならず来去あり。
第十不邪見戒(ふじゃけんかい)
第十は不邪見戒じゃ。邪は正に対する名。よこしまにひがみたること。見はみると言う字。ここでは眼でみるではない。心に見定むる処あることじゃ。この見処がよこ道にゆきたるを邪見という。この邪見のおそるべきことを知って、正智見に随順するを不邪見という。法あってこの不邪見を護するを不邪見戒という。
この邪見、数おおけれども、要をとって言えば、断常の二見に過ぎぬ。断見にいろいろ有れども。まず善を為して善の報いなく、悪を為して悪の報いなく、神と言うもの、仏と言うもの、いま現に見るべきならねば、これもなきことと思い定むるを断見という。
常見も種々なれども、しばらく人は常に人となる。畜は常に畜となる。人の畜生となるべき理なく、畜生虫蟻の類が、人となるべき理なきと思い定むるを常見という。
正知見というは甚深なれども、しばらくこうじゃ。仏菩薩も世にまします。賢人聖者も有るべく、神祇も眼にこそ見えね有るべく、善をなせば決定その報いあり、悪をなせば決定その報いあると信ずれば、この戒は全きじゃ。
総じて戒法は不思議なるものにて、この戒善が身にあれば、外の悪事が自ずから遠ざかる。たとえば国に武備あれば、敵国が得伺わぬが如く、また人の元気充実したる者は、風寒暑湿の外邪が侵さぬ如くじゃ。
不殺生戒その身にそなわれば、たとい怨賊毒虫にあっても慈悲心を生ずる。非理に有情を損害する悪賊煩悩はよりつかぬじゃ。不偸盗戒その身にあれば、禄位官爵などの中に、非理の求めはない。強盗・窃盗などの悪賊煩悩はよりつかぬじゃ。不邪淫戒その身にあれば、他所護の男女の境において、みずから愛著を生ぜぬ。一切非理の愛著、垣根をこえて相したがうなどの悪賊煩悩はよりつかぬじゃ。
不妄語戒その身にあれば、一切の語言が自ずから真正なるじゃ。偽りを造作し偽書を作り出す等の悪賊煩悩はよりつかぬじゃ。不綺語戒その身にあれば、言に虚飾がない。一切の口合い、非時の言論、小唄浄瑠璃などを弄ぶ悪賊煩悩はよりつかぬじゃ。不悪口戒その身にあれば、言語おのずから柔軟なるじゃ。呵責・悪声・怨言などの悪賊煩悩はよりつかぬじゃ。
不両舌戒その身にあれば、言語に仁愛の相あらわるる。他の親好を破り、君臣父子の間を離する讒言などの悪賊煩悩はよりつかぬじゃ。不貪欲戒その身にあれば、二六時中いたる処に足ることを知る。諸々の多欲悪貪、威勢をうらやみ、名利にふける悪賊煩悩はよりつかぬじゃ。不瞋恚戒その身にあれば、五尺の姿まったく慈悲と相応する。眉をひそめ、額をしわめ、目に三角を生じ、憂悩嫉妬などの悪賊煩悩はよりつかぬじゃ。
不邪見戒その身にあれば、一切の人民、貴賎男女を見るときにも、山河大地を見るときにも、まったく因果応報の相じゃ。まったく真如実相のよそおいじゃ。一切の邪思惟分別、聖をないがしろにし賢をそしり、神祇をあなどり、仏菩薩を非毀する悪賊煩悩はよりつかぬじゃ。
この防非止悪の効能が、任運無功用に日夜に増長してしばらくもやまぬ。富める者ならねば富の徳は知らぬ。位ある者ならねば位の尊きことは知らぬ。詩人ならねば詩の巧拙は知らぬ。隠者ならねば清閑の楽しみは知らぬ。その如く、みずから戒法を護持する人に非ざれば戒法の尊重なることは知らぬじゃ。
たとえて言わば、心性は月のごとく、境界は盤水のごとく、妄念想像は盤水の月影のごとくじゃ。盤水ある処はかならず月影ある。月影は月輪の体ならねども、影はかならず月によって生ずる。かくの如く、境界のある処はかならずその念生ず。念はかならず本性によって起こる。
盤の多少によってつきかげもまた多少がある。月影に多少はあれども、天上には唯一月輪のみ。かくの如く、念想は境にしたがって多少あれども、心性はただ一法性のみじゃ。この盤水を彼の瓶にうつすとき、この月影が彼へうつり往くに非ず。当所に滅して当所に生ずる。
念想もまたかくの如し。その水をこぼしおわれば、その月影が飛び上がって天上の月中に帰るには非ず。当所に生じて当所に滅するが如く、この境去ればこの念去って本性へ帰するには非ず。ただ当所に生じて当所に滅する。昨夜の月影は昨夜に滅する。
滅しおわって無きかと思えば、こよい盤水を貯えれば、かならず昨夜の月影の如くにうつる。今年、中秋の月影は去年の影ならねども、かならず去年中秋の月影に違いなくうつる。念相も亦かくの如く、今日の念は昨日の念ならねども、かならず昨日の如く生ずる。
この念おこれば即ち滅してしばらくも留まらぬものじゃ。この念々滅して留まらぬことを、決徹して疑わねば、常見の深坑は超過する。この念相続してしばらくも間断なきものじゃ。この念々相続して間断なきことを、決徹して疑わねば、断見の深坑は超過する。今日の念は昨日の念でなき。昨日身に苦ある。心に憂悩ある。今日思い出すに、ただこれ影像のみじゃ。
今日、楽事あってその心歓喜する。元来、昨日の知る処ではない。憂悩は歓楽に相違す。歓楽は憂悩に相違す。日々かくの如く、夜々かくの如く、念々かくの如く、時々かくの如く、日ゆき月きたり、寒暑代謝す。これを流水にたとえれば、雨前の流れは雨後の水に異なれども、一類相続してこの流れ断絶せざる如くじゃ。
色より香にうつり、香より声にうつり、また色にうつり、味わいにうつり、香にうつり、触にうつる。もしこれを一車を引いて西より東に過ぐるごとくに言うは非じゃ。一猿の六窓より面を出すが如くと言うは非じゃ。冷暖ただ自知する人に許すじゃ。昨日の念相がさわがしければ、今日も安らかならぬ。昨日の念相が寂静なれば、今日も穏やかなるものじゃ。
老後、事々まどいなきは、少年修学の巧による。死時心相の乱れぬは、平日の禅定の力による。これを流水にたとえれば、前流急なれば、後流おだやかならず。支流とどこおり有れば、泉源やすからず。流れ疎通して河岸あふれず。大海かぎりなくして、万流帰投する如くじゃ。
前念と後念と、一と言うべからず。異と言うべからず。念々代謝して実体なけれども、後念はかならず前念に相似して起こる。今日の念は昨日の念ならねども、かならず昨日の念に似て現ずる。今年の念は昨年の念ならねども、かならず去年の念に似て現ずる。
今生の念は過去世の念ならねども、かならず過去世の念に似て現ずる。未来世の念は今生の念ならねども、かならず今生の念に似て現ずる。三世におし通して、誰が主と言うことなく、境に対して生じて念々代謝する。代謝して跡なきかと思えば、慣習の境によって増上する。
瞋恚を慣習する者は、多く瞋恚の念生ずる。此を習うて止まねば、ついに残忍暴悪の衆生となる。愛欲を慣習する者は、多く愛欲の念生ずる。これを習うて止まねば、ついに柔弱多婬の衆生となる。
善をなして善の報いあり。悪をなして悪の報いある。これ一つにても、みな聖賢の地位に入る。さてさて、世間の者が近き処にある道を忘れて迷う。むつかしくなき理を外にして誤ることじゃ。
この仏あることを信ずれば、的を見て矢をはなつ如く、孜々として善をなして止まぬ。元来、平等法性の中に、この仏を信ずれば、この心即仏心と言うべし。この場所、省発も入らぬ。悟りもいらぬ。教相判釈もいらぬ。文章利口もいらぬことじゃ。
この仏となるべき道を法と名づくる。その道を行う人を菩薩と名づくる。この道を守護する者を諸天神祇と名づくることじゃ。
この神祇あることを信ずれば、たとい小根劣機の者も、人しらぬ心の内にも、悪事は思われぬ。まして悪事はなされぬ。人と言うものは習わせによる。善を習えば善にうつる。この習いが性となり、この善がわが身心となる。
死に臨む人、あるいは手をあげてうち払い、あるいは虚空をつかみ、あるいは白沫を吐き、あるいは身体煩悶し手足撩乱する。この類みな悪相なると言うことじゃ。もし柔軟の顔色、慈愛の相あって命終す。もしは合掌歓喜して正念相続する等は、みな善相なると言うことじゃ。大抵は、善相なるものは善処に生じ、悪相あらわるる者は悪趣に入ると言うことじゃ。
もしその傍らに居らば、仏菩薩を念ぜしめ、大乗経・諸陀羅尼を読誦するを要とするじゃ。近辺みな寂静なるがよきと言うことじゃ。夜分の灯燭もかすかなるがよきと言うことじゃ。病人平生の功徳善根を讃歎するがよきじゃ。たとい平日に恨みあるとも、その時は言うまじきじゃ。起居食事、万端みな病人の心に適うべきことじゃ。また別に因縁あって、得道の人も外に苦相現じ、悪人の苦相なきも有りと言うことじゃ。
実修行に高遠なることはいらぬじゃ。まずこう憶念せよ。わが五尺の形骸は、肉血のおしまろかれた物じゃ。生じ出ずるより死し去る後の後まで、膿血不浄臭穢の日夜に流れ出ずる物じゃ。ここに極まったことじゃ。まずこれを決徹して疑わねば、正智見を得る基となる。断常二見の深坑を超過する。
一切の名利はこのところに脱却する。一切の我慢勝他はこのところに脱却する。一切の五欲執着はこのところに解脱するじゃ。この名利五欲我相を脱するとき、雲霧はれて朗月を見るごとく、人道もここに明らかに、天命もここに明らかなり。実智慧の光明、世界を照らすじゃ。高遠ならずして而も誠に高遠なることじゃ。
この五尺の身が、しばらくは健やかに、しばらくは病悩し、平癒し壮健にかえるかと思えば、また諸々の疾病を生ずる。日を送り、月を送り、年をかさねて、何事かあると思えば、ついに衰老に帰する。肌はしわむ。歯は落ちる。髪は白くなる。腰はかがむ。目は暗くなる。耳は遠くなる。ここに極まったことぞ。この事を決徹して疑わねば、聖智見を得る基となる。今日しばらく少壮なるままに戯笑遊興に心をよせ、悠然として月日を送るを迷いと言うじゃ。
この身あればこの念ある。身が先とも念が先とも言われぬ。要を取って言わば、小児の身あれば小児の心、大人の身あれば大人の心、男子の身あれば男子の心、女人の身あれば女人の心じゃ。この身あってこの苦ある。この身心が先ともこの苦が先とも言われぬ。この身心憂悲苦悩の処が、諸々の賢聖入道の基となる。これらは宿福深厚の人とともに語すべき処にして、名利五欲の人とともに言うべきに非ずじゃ。
この身心は何れの処より来たり何れの処に去るぞ。何れの処に生じて何れの処に解脱するぞ。ただ大聖世尊のみ明了なる処にして、諸々の賢聖の憶念修習する処ぞ。ここに一の疑いを生じて、決徹の場所に至るを大丈夫と名づくる。
古人も大疑のもとに大悟ありと言う。これに心を寄することを知らず、苦が来れば苦に悩まされて、苦の来処を知らず。妄りに免れんことを思いはかって、種々妄念を長ず。世をそしり人をとがめて常に安からぬ。この者を迷いの凡夫と名づくるじゃ。
生まれ出でし初めを知れば、死の終わりを知る。死の終わりに明らかなれば、死後の去処に達する。今日かくあることを知れば、過去の業相を知る。今生の身心をつまびらかにすれば、当来の苦楽を知る。
理屈というものも無尽なるによって、好めばいつまでも理屈が付いて回るじゃ。大なる理屈を好めば、都表なく大になる。微細なる理屈を好めば、しごく緻密になる。後世仏者の類は、自宗他宗の仏くらべ、法くらべばかりなす。我が家の仏こそ尊けれ、わが宗こそ便なれと言う。ただ文字の上の勝相ばかりを談じておる。
頓教・円教・大乗・無上乗などと言うて、文字の勝相も高きことを好めば、都表なく高くなる。脚もとにあることを知らずして、外に向かって求むる者は、みなこの類ぞ。儒者といい、仏者といい、外道といい、内道という。名は違えども、実の道を得ぬ者は、その迷いは一つじゃ。
小機のために小法を説き、大機のために大法を説き給う。自己だに明らかなれば、教相の浅深も、性相分別も、妨げぬことじゃ。今時の自己を忘れて、ただ教相をのみ判じ、妄分別に随順して、理屈を巧みにする者は、迷いの大なるもの、恥ずべきの甚だしきじゃ。
こだまも声ある。鏡像もよく笑いを含む。これあれば彼あり。彼おこればこれ応ずる。彼とこれと、一と言うべからず異と言うべからず。心と境と、一と言うべからず異と言うべからず。心転ずれば境界もしたがって遷る。境転ずれば心も自ずから変ずる。
善業をなせば、この善業がただちに諸天の境界となる。仏菩薩の境界となる。悪業をなせば、この悪業がただちに畜生修羅となる。餓鬼畜生となる。諸天の境中には、この心ただちに歓楽遊戯す。三悪趣の境中には、この心ただちに苦悩逼迫す。諸仏境中には、この心ただちに無漏大定智悲を現ず。
因果応報は、信じて信じらるることぞ。信じて信じそこないのないことぞ。この断常の二見を超過すれば、かならず正智慧を生ずる。正智慧を得れば、生死に自在を得る。到るところ正法じゃ。到るところ聖智見じゃ。法あって自心となり来る。自心を離れて法はなきじゃ。法全ければ自心全く、自心全ければ法全きじゃ。
世尊、因知の所行、何事をふみ行うことぞ。国城を棄捨し、王位を棄捨し、樹下に春秋を送り、石座上に身命を終わる。何を明了になさん為ぞ。ただ今日、衆生現今の一念心のみじゃ。この心中に三世ある。この心中に十方ある。三世十方、元来自心に相違せぬじゃ。断常の二見を超過して、ただこれ平常心じゃ。一切智解を超過して、了々と常に自ら知るじゃ。生を他方に転じて、来所もなく去処もなく、富万国を有して、我もなく我所もなし。
迷悟、元来不二じゃ。仏界を知ろうと思わば衆生界に入ってみよ。大道徹底の処を尋ねば迷いの源底を窮めてみよ。ただ知らぬものが知らぬばかり、解せぬ者が解せぬばかりぞ。
法宝の尊重なることも、信ずれば信ぜらるる。この仏あってこの法ある。この法あってこの仏ある。法性の身、法性の土、たがいに融摂して未来際を尽くす。法々自爾、心念を絶す。思惟せば禅定相応じゃ。
しばらく大聖世尊の、菩提樹下にうる処の法、衆生各自その根気に応じて聴受し得る。在世滅後これを貝葉に書して後世にのこす。支那に翻じ伝えて住持の法宝となる。根気差別し、法の深浅種々なれども、一文一句ことごとく甘露味なることは一じゃ。無量劫の無明煩悩を一時に照破するはこの法宝じゃ。無量劫の罪業障礙を一時に消滅するはこの法宝じゃ。万善功徳を一時に満足するはこの法宝じゃ。
三宝の尊重なることを知るを、入道の初要とする。正知見を得る基本じゃ。要をとって言わば、三宝というは、法性の世の福縁にしたがって現るる姿ぞ。法性が本来明了なるところより、仏宝が現るる。法性が本来清浄なるところより、法宝が現るる。法性が本来平等なるところより、僧宝が現るる。三宝と説けども、ただこれ一法じゃ。
この道あってこの天地ある。この天地あってこの人ある。いにしえも渓山日月、今も渓山日月、いにしえも男女大小、今もまた男女大小、この人の人たる道は、仏出世にもあれ、仏滅後にもあれ、常に世間にあって衆生を利益するじゃ。
人機おとろえて道おこなわれぬと言うは非じゃ。時世異にして法利益なしと言うは、愚の甚だしきじゃ。この末法の世の中、一般の人あって、戒法を持つはむつかしきことぞ。通人の及ぶ所ならずと言う。このひと言をもって衆人の眼を瞎却し、引いて黒暗路に入る。
看よ、殺生するは、よほどむつかしきぞ。人を殺すは勿論のこと、たとい禽獣魚虫を殺害するにも、身をも動かし心をも労す。それ相応の殺具刃物などを用う。不殺生戒を持つは、この造作にわたらず。泰然として護持のなることじゃ。
偸盗を犯ずるは、よほどむつかしきことぞ。盗賊の部類に入って、家焼強盗をなすは勿論のこと、盗みごまかしも、身も心も働かさねばならぬ。人の目をも忍ばねばならぬ。不偸盗戒を持つは、この造作はいらぬ。行住坐臥、泰然として護持のなることじゃ。
邪淫を犯ずるは、むつかしきことぞ。他の妻妾を犯ずるは勿論、少々の婬戯も、世間国法に許さぬことは、人の目をも忍ばねばならぬ。身心をも労せねばならぬ。不邪淫戒を持つことは、何の造作がある。家居つねに安く、交友もまた安く、悠然として護持をなすことじゃ。浄行の人は、相好言辞威儀も、衆に異なると言うことじゃ。
妄語もむつかしきことぞ。よほど思惟分別を用いて、世を惑わし人をあざむくに足るじゃ。万事ありていに言うほど易きことはない。見ざるを見ずと言い、見たるを見たと言う。安然として常に護持して、身を終わるまでその患いなきじゃ。
綺語も、よほど弁舌利口を用うべく、むつかしきじゃ。悪口も、両舌も、なおさら心労なることぞ。不綺語、不悪口、不両舌を守る。何の造作あるべきぞ。悪貪多欲も、瞋恚嫉妬も、身心を労苦す。不貪欲、不瞋恚は、この造作なきじゃ。二六時中、みずから省みるにやましからぬじゃ。
邪見はなおさらむつかしきことぞ。邪法邪宗は勿論のこと、たとい少分の邪見も、元来無理な道理をこしらえ立つる故、その心、労するじゃ。正見正道理の通りに、仏あることを信じ、神祇あることを信じ、善を好み悪をにくむ。何のむつかしきことはなきじゃ。この不邪見の徳ある者は、人主は明らかなるじゃ。よく群臣の邪正を知る。鏡の長明なる如く、胸中に物なければ、好醜おのずからあらわるるじゃ。
要をとりて言わば、一切悪として十悪業にもるることはなく、一切善として十善業にもるることはなく、一切戒法としてこの十善戒に漏るることはなきじゃ。二百五十戒、五百戒、三千威儀と言うも、本体はこの十善じゃ。
この十善を全うせば、その身を修め、その家をととのえ、その国を平治するに余りあるべきじゃ。人々箇々、賢聖の地位にも入るべく、次第に満足すれば、仏身と合一する時節の有るべきことじゃ。
参考文献
「十善法語」 木南卓一編 三密堂書店 昭和56年
「慈雲尊者法語集」 木南卓一編 三密堂書店 昭54
「人となる道」 木南卓一編 三密堂書店 昭55年
「慈雲尊者 人と芸術」 三浦康廣 二玄社 1980年
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