なせば成る

平成十四年の夏、三〇年ぶりに北海道へ行ってきた。網走(あばしり)まで飛行機で行き、北海道内は車を借りて回ったが、三〇年前のどろんこ道は高速道路かと思うほど立派な道に変身しており、これで六〇キロ制限はもったいないと思った。

今回の旅行でいちばん印象に残っているのは網走監獄博物館である。網走番外地として知られる網走刑務所の獄舎を建てかえたとき、古い獄舎を近くの丘のうえに移転して博物館にしたのであり、刑務所でさえ観光資源になるのかと驚いたが、見学する価値は充分にあった。

ここでいちばん興味をひかれたのは、この刑務所を脱獄した囚人が一人いたという話である。道路工事などの作業所から逃げ出した囚人は他にもいるが、監視の厳重な独房を破って逃げた囚人はその一人しかいないというのであり、しかもその男は生涯に四回、脱獄に成功した脱獄の名人であったという。以下に不可能を可能にした名人のあざやかな手口をご紹介したい。

     
青森刑務所脱獄

最初の脱獄は昭和十一年六月、青森刑務所からであった。脱獄の理由は公判の遅れによる長い未決生活に飽きたことと、彼を馬鹿にした看守を懲らしめてやれという軽い気持からであり、このときは独房と建物と裏門の三カ所の鍵を針金で開けて逃げ出した。

鍵を開けるのは土蔵破りをしていた彼の得意とするところであり、刑務所の鍵は見かけは大きくて頑丈だが、一本の針金で簡単に開いたという。準備したのは、針金を手に入れること、扉や鍵のある場所を確認しておくこと、看守の巡回時間を調べること、仕上げは寝具で寝姿を作ることであった。

脱獄のあと山中に身を隠したが、木の実や山菜ばかり食べていたため下痢がひどくなり、脱獄から三日目に下山したところを捕まった。名人もこの時はまだ修行が足りなかった。

     
秋田刑務所脱獄

二回目の脱獄は昭和十七年六月の秋田刑務所、脱獄の理由は刑務所のむごい扱いと、看守の横暴な態度に腹を立てたことであった。

そのとき脱獄の名人は、鎮静房と呼ばれる銅板張りの暗くて狭い独房に入れられていた。その独房には、三メートルほどの高さの天井に、三〇センチ四方の小さな天窓がひとつ付いているだけであった。その天窓が明かりのすべてであり、人間はそのような暗いところに長期間いると、精神的に危険な状態になってくるという。

そこで彼は壁が直角になっている部屋の角で、両手両足を踏んばって天井へ登る練習をはじめた。ヤモリ作戦の開始であり、どうやって登ったのかよく分からないが、頭を上にして登ったのではなく、片方の壁に両手、もう片方の壁に両足をあて、からだを横にして踏んばって登ったらしい。

そして天窓の枠からブリキ片と一本のさびた釘を手に入れることができた。そのブリキ片に、釘で表と裏から交互に一直線に穴を開け、それを二つに折って小さなノコギリを作り、それで天窓の木枠を切断した。ノコギリと釘は毎日おこなわれる身体検査や房内の検査で見つからないように、敷物から抜いた糸で天窓にゆわえておいた。天窓は高いところにあるため検査されなかったのである。

脱獄を決行したのは暴風雨の夜の、看守が交替したあとの十五分間の巡回のすき間だった。天窓を破って逃げ出し、高さ三メートルの中塀は飛びついて乗り越え、五メートルの外塀は丸太をかけて越えた。

脱獄後、三ヵ月かけて東京まで歩き、小菅(こすげ)拘置所の刑務官に会って秋田刑務所のひどさを訴えた。この刑務官にはその拘置所に収容されたとき世話になったことがあったからであり、翌日その刑務官につき添われて自首した。

     
網走刑務所脱獄

三回目は昭和十九年八月の網走刑務所、脱獄の理由は冬の刑務所のあまりの寒さと、囚人に対する扱いのひどさ、それと看守に対する復讐心からであった。脱獄することだけを心の支えに獄中生活に耐えていたといい、彼は親切な看守が勤務しているときには決して脱獄しなかった。

彼は怪力の持ち主だったので、ふつうの手錠ならねじ切ることができたし、釘一本あれば鍵を開けることもできた。そのためここでは特製の手錠と足錠をはめられていた。手錠にも足錠にも鍵穴がなく、ボルトとナットできつく締めてあり、しかも手錠と足錠は太い鎖でつながっていて、全部合わせると二〇キロ近くあった。二回脱獄しているため独房の中でもそのような状態におかれていたのである。

ここで彼が目を付けたのは監視用の窓だった。頑丈な独房のとびらには縦二〇センチ、横四〇センチの監視窓がついており、窓には五本の鉄棒を縦に溶接した鉄枠がはまっていた。その鉄枠に目を付けたのである。そしてここでは一切道具を手に入れることができなかったので、破獄のために味噌汁を利用した。監視窓の鉄枠とそれを止めているボルトに、根気よく味噌汁を注いでは力を加えつづけ、三ヵ月ほどして錆が出て鉄枠が動くようになると、できたすき間に味噌汁を注ぎ入れ、ついに鉄枠をはずすことに成功した。

手錠と足錠も味噌汁をかけたり、何万回とぶつけ合わせたり咬みついたりして、はずれる状態にした。看守がそれに気付かなかったのは特製の手錠と足錠を過信していたからであり、囚人はその過信を最大限に利用したのであった。しかも床板のすき間にかすかなキズを作り、看守の注意を床の方へそらせた。床板の下はコンクリートで固められていて、床下から逃げられないことは看守も囚人も知っていたが、看守の注意はそこに向けられたのであった。

脱獄は午後十時ごろ決行した。停電のため看守の交替が遅れて巡回の間隔が長くなったのが好機になった。脱獄者は視察窓の鉄枠をはずすとふんどし一枚になり、両肩の関節をはずして頭からナメクジのように抜けだした。頭さえ通ればあとは何とか通るものだという。それから廊下の天井にのぼり、天窓を頭突きで破って獄舎のそとに出て、刑務所の高い塀は、引きぬいたストーブの煙突の支柱を立てかけて乗りこえ、そして山へ逃げこんだのであった。

脱獄後はサロマ湖にちかい山中の廃鉱の坑道にかくれ家を作り、そこでひとり暮らしの自由を楽しんだ。ヒグマが出る山中に住み、夜になると盗みをするために闇にまぎれて下山するといったことは、並の人間にできることではない。逃走生活のための食料や衣類や日用品はすべて盗みで手に入れたが、盗難届がまったく出なかったのは少しずつ盗んで回ったからであり、彼が守っていた逃走訓は次の四つであった。

一、ひとつの集落からたくさん盗むのは危ない。少しずつ盗んで回る。

二、逃げ出したら山中深くもぐる。夜は穴のようなところ、昼は茂った木の上にいれば安全。

三、汽車やバスには乗らずかならず歩く。ただし昼歩きは禁物。人相や服装ですぐ分かる。

四、幹線道路は危ない。橋を渡ればあとは間道や獣道を歩く。

ところが脱獄から二年後の昭和二一年八月、山を下りて移動しているときに、畑荒らしの見張りをしていた二人の男と争いをおこし、木刀を持っていた男を刺し殺したことが原因で捕まった。

     
札幌刑務所脱獄

四回目は昭和二二年三月の札幌刑務所、脱獄の理由は前年におこした殺人事件の一審で死刑判決を受けたことであり、このときの作戦は床板を切って床下にもぐり込み、食器と手で二メートルほど穴を掘って逃げだすモグラ作戦であった。監房は鉄の箱のように補強されていたが、床下に弱点があることを見破られたのだった。

彼はこの刑務所では徹底した監視を受けていた。看守は房のまえに椅子を置いて二人一組でたえず監視をしていた。そこで名人はまず一つの規則違反を看守に認めさせるようにしむけた。それは頭から布団をかぶって寝るという違反である。穴を掘る時間を確保するには、布団の中に物をいれて寝姿を作り、布団の中で寝ていると看守に錯覚させる必要があった。ところがいつも頭を出して寝ているとその作戦が使えないのである。

そのため脱獄者は看守を威したりすかしたりしながら、徐々にそのことを黙認させていった。担当していた看守は選り抜きであったが、貫禄の違いが大きく看守の方が心理的に負けており、にらみ合いをしても先に目をそむけるのは看守の方であった。脱獄が成功したのは半分は心理作戦の成果であり、それは他の刑務所でも同じであった。

破獄のための道具は洗面用の桶の鉄のタガと、取調室の扉のガラスを止めていた小さな釘であった。釘でタガに細工をしてノコギリを作り、そのノコギリは便器の裏に飯粒で貼りつけて隠した。検査のとき便器の下は調べても裏は調べなかったからであり、それからできるだけ飲食の量を減らした。便器が一杯になると捨てるために外に出さなければならない。そのため排泄物を減らして時間かせぎをしたのである。

彼は正座して内股に手を入れ、貧乏ゆすりをする格好で床板を切った。看守から注意されると「寒いから仕方ねえだろう」といってごまかし、切り口は切りくずとホコリを混ぜた飯粒をすり込んで隠した。しかも天井や窓を盗み見するふりをして、看守の注意を窓や天井に向けさせた。窓はとても人が抜けられる大きさではなかったが、それでも看守はあざむかれた。こうして床板を切り、就寝後の巡回のあい間に床下へもぐり込み、穴を掘って逃げ出したのであった。

脱獄後は山の中を転々と移動していたが、十ヵ月後の昭和二三年一月、職務質問に引っかかって捕まった。そのとき彼は山中に三カ所の隠れ家をもち、一年間山ごもりできるほどの物資や食料を蓄えていた。

     
模範囚となる

捕まっては脱獄することを繰り返したのち、脱獄王は東京の府中刑務所に送られた。昭和二三年六月のことであり、昭和二一年の殺人事件は二審では傷害致死と判定されて死刑は免れていた。

府中刑務所の所長の作戦は巧妙だった。囚人が到着すると所長はすぐに特製の手錠と足錠をはずさせた。それらに鍵穴はついておらず溶接で固定されていたので、金切り鋸で切断しなければならなかった。つぎに特製の独房を二つ用意して不定期に移し替えた。しかし見た目はできるだけ他の房と同じように作り、接し方も他の囚人とできるだけ変わらないようにした。脱獄常習犯に敵愾心や復讐心を起こさせないように気を配りながら、毅然とした態度で臨んだのである。

もう一つの対策は仕事を与えたことだった。何もさせずに独房に入れておけば、囚人は脱獄計画を立てるしかすることがない。そこで仕事を与えて脱獄以外のことに気をそらせたのであり、仕事は囚人にとっても楽しみなことだった。こうして脱獄の名人は、府中刑務所では名人芸を使うことなく、昭和三六年に模範囚として仮釈放となり、出所後は建築現場で仕事をし、自慢の体を使って骨惜しみせずによく働いたという。そして昭和五四年、心筋梗塞のため七一歳で亡くなった。

     
なせば成る

この脱獄王は「なせば成る」の見本のような男である。鋼鉄製の頑丈な手錠や足錠を根気よくぶつけて破壊したり、一本の針金や一枚のブリキ片を使って脱獄したりしたのであり、物がなくても道具がなくても、工夫とやる気があれば何でもできることを彼は教えてくれる。

これだけの体力と気力、ねばりとがんばりを、まともなことに使っていたら大きな仕事を成し遂げることができたはずであり、並みはずれた体力や精神力がかえって道を誤らせたともいえる。人間は得意とすることで身を滅ぼすものであり、墨子(ぼくし)の「人のその長ずる所に死せざるはすくなし」という言葉を思い出させる。

仏教の本に次のような泥棒の話があった。

「たとえばここに泥棒の名人がいるとする。その泥棒が自分が住むへやの隣のへやに、莫大な財宝が隠されていると知ったなら、寝ても覚めてもその財宝を盗むことに熱中するはずである。私たちの心の中にはへや一杯の財宝よりも、はるかに素晴らしい宝物が隠されているのだから、この泥棒以上に一心不乱に心の中の宝物を探し求めるべきである」

人間はみな監獄の中の囚人みたいなものである。小さな体と我見我情という二重の壁の中に閉じ込められているのであり、そこから脱獄しようとする人は少ないが、それができれば世界すべてを手に入れることができる。

参考文献
「脱獄王 白鳥由栄の証言」斎藤充功 平成十一年 幻冬社
「破獄」吉村昭 昭和六十一年 新潮文庫

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