アフガンの大仏さま

平成十三年三月、アフガニスタンのバーミアンにある大仏さま二体が、イスラム原理主義勢力タリバンによって爆破された。テレビで大きく報道されていたので覚えている人も多いと思う。偶像を禁止しているイスラム教国に仏像があるのはけしからん、というのが破壊の理由のようであった。

この国が内戦状態になる前の今から三〇年以上も前のこと、その大仏さまを見にアフガニスタンへ行ったことがある。これはそのときの体験談である。

それは真冬の二月の寒いときだったので、バス乗り場に行くときの早朝の首都のカブールは、町も周囲の山々も凍りついていた。その寒さのなかバケツで水を運ぶ子供たちの姿が目についた。朝食の準備をするための水を運んでいるらしく、みんな粗末な寒そうな服を着ていた。

それを見て子供のころのことを思い出した。私の家には井戸がなく隣家の井戸を使わせてもらいバケツで水を運んでいた。子供の仕事になっていたその水運びのことや、ガッチャンポンプで井戸水をくみ上げるのが当たり前という時代だったので、水道が敷設されるというとき、詮をひねれば水が出るという話が信じられなかったことなどを思い出したのである。

バーミアンへ向かうバスの中も暖房が効いておらず寒かった。その上すきま風といっしょに泥で汚れた雪が車内に舞いこんできた。バーミアンはカブールからバスで八時間ほどヒンズークッシュ山脈に入ったところにある。そのヒンズークッシュ山脈は険しい岩山が連なる不毛の山脈である。というよりも、この国の国土の大半は不毛の土地なのである。そうした木のほとんど生えていない山々を見ていると、山高きがゆえに貴からず、木が生えているからこそ貴い、という言葉が思い出された。

しかもこの峠を越えればバーミアンに着く、という手前の峠が吹雪いていて、オモチャのような小さなブルトーザーで除雪作業をしていた。バーミアンの情報を教えてくれた日本人旅行者は、バスがこの峠を通過できず二回ひき返し、三回目にやっとたどり着いた、しかもバス代は返してくれなかった、と言っていたから、私が一回で到達できたのは幸運らしかった。

山中の寒村であるバーミアンはカブールよりさらに寒く、周囲の山々は雪をかぶっていた。着いたとき日はすでに暮れかけており、暖房も寝具もない安宿のベッドで寝袋にくるまって寒い寒い夜をすごし、翌朝さっそく大仏さまを拝みにいった。

大仏は屏風のようにそびえる赤茶けた崖に彫られており、大きい方は高さ五五メートル、小さい方は三八メートル、柵など設置されていないので足元まで行って見上げることができる。大仏が入っている窪みの天井部分には壁画が残っており、お顔を近くから見るための洞窟状の階段があるらしく、窪みの上部にのぞき窓のような穴があった。

周辺の崖には蜂の巣のように石窟の穴があいており、石窟は全部で七五〇ほどあるという。これらの石窟には寺院の跡も含まれているのだろうが、私が確認した限りでは中に残っているのは壁画の一部ぐらいであり、焚き火のススで真っ黒になっている穴もあった。

周囲がそうした状態なのに、なぜ大仏さまだけ破壊されずに残っていたのかと思うかもしれないが、実は大仏も破壊された後だったのである。大仏はまず崖を削って像の土台を彫りだし、その上に漆喰(しっくい)を塗って形を仕上げ、彩色を施す、という方法で作られていた。

しかし私が見たときには、漆喰は一部が残っているだけで、ほとんど土台の岩がむき出しになっており、顔は大きくえぐられ、腕も足もほとんど失われていた。射撃の的にしていたという話も聞いたことがあり、あれ以上破壊するには爆薬を使うしかなく、それをタリバンが実行したのである。

大仏さまの前の広場に、「写真を撮ったらお金をいただきます」という大きな看板が立っていた。その金額はもう忘れてしまったが、「うそでしょう」と言いたくなるような高額の撮影料であり、そのため初めはその金額を信じなかったが本当だと知ってあきれた。これだけ破壊しておきながら、今さら大金を取るとはいい根性をしていると思った。しかも内緒で撮りたくても、見張りが小屋の中でがんばっているため撮ることができず、遠くから撮るしかなかった。

アフガニスタンは美人の国であるが、この国の女性は年頃になると顔をかくしてしまうため、十二・三歳以後は顔を見ることができない。ところがバーミアンを歩き回っているとき、顔をかくす直前の女の子の写真を何人か撮ることができ、いいおみやげができたと喜んだが、カブールの宿でカメラを盗まれたためその写真は残っていない。

バーミアンには私が泊まったような安宿だけでなく大きなホテルもあったし、飛行場もあった。大仏さまはアフガン観光の目玉だったのであり、そのお陰をこうむっていた人は間接的には何万人もいたはずである。そういう人たちは大事な目玉を破壊されて生活に困ったと思う。大仏さまのいないアフガンに見るべきものはほとんど存在しないのであり、その後タリバンが急速に崩壊したのは人々から見放された証拠だと思う。

アフガン復興の象徴として大仏を再建しようという話があるが、私はその必要があるとは思わない。国民の総意で破壊したのではないにしろ、彼らにとって不要な物だから処分したのであり、作ったとしてもイスラムの教えに反するとして、また争いの原因になるだけかもしれない。それに手を合わせてくれる人は一人も住んでいないのだし、仏像は観光資源として作るものではない。そのようなお金があるなら人々の生活のために使うべきだと思う。

     
七世紀のバーミアン大仏

孫悟空のお話に出てくる「三蔵法師さま」のモデルになった玄奘(げんじょう)三蔵は、西紀六二九年にインドへの往路でバーミアンに立ち寄っている。大唐西域記にバーミアンは次のように記されている。

「バーミアンは雪山(せっせん)の中にある。国の大都城は崖に拠り谷をまたぎ、長さ六・七里あり、北は高い崖を背にしている。・・・王城の東北の山のくまに立仏の石像がある。高さ百四・五十尺ある。金色にきらきらと輝き、宝飾がまばゆい」

この記述から彼が見たときには、大仏には金箔が張られ、美しく装飾がほどこされていたことが分かる。ただし二体あるとはなぜか書かかれていない。それと城の東二・三里に大きな伽藍があり、その中に長さ千余尺(三百メートル)の涅槃像があるという記述もある。

なぜイスラム教国の山奥の寒村に巨大な仏像があったのだろうか。誰がいつ作ったのだろうか。大仏製作に関する資料はまったく残っておらず、六世紀の終わりから八世紀ごろにかけて作られたと推測されているだけである。そのころのバーミアンは絹の道の要衝として栄え、そこでは仏教があつく信仰されていたのである。

インドと中国を結ぶ道はいくつかあったが、六世紀中頃まではパキスタン北部のガンダーラ地方からインダス川沿いに北上し、カラコルム山脈を越えて中央アジアにぬける道が多用されていた。ガンダーラは今のペシャワールを中心とする地域であり、玄奘三蔵以前の仏教僧の多くはこのカラコルム越えの道を利用していた。おそらくこの道が「仏教北伝の道」の中心であったと思う。

ところがガンダーラ地方の情勢が変化し、カラコルム越えの道の治安が悪くなったことから、ヒンズークッシュ越えの道が使われるようになり、バーミアンが交通の要衝になったらしい。玄奘三蔵が遠回りになるヒンズークッシュ越えの道を選んだのはこうした理由からであろう。大唐西域記を読むと、当時はシルクロード沿いの国の多くで仏教が栄えていたことが分かる。それは遺跡によっても裏付けられており、彼はそれらの仏教国を縫うように旅をしたのであった。

少し話は変わるが、「世界がもし百人の村だったら」という本がよく売れているという。いま地球上には六三億人ほどの人間が住んでいるが、世界を人口百人の村に置きかえてみると、そのうちの五二人が女性、四八人が男性だという。要するに世界人口の五二パーセントが女性、四八パーセントが男性ということである。同様に百人のうち、三〇人が白人、七〇人が有色人種、そのうちの六一人はアジア人である。

同様に百人のうち、三三人がキリスト教徒、十九人がイスラム教徒、十三人がヒンズー教徒(インドは人口が多い)、そしてなんと仏教徒はわずか六人だという。世界三大宗教の一つとしてはさみしい限りであり、数は力であるから近い将来、三大宗教の金看板を失うことになるかもしれない。

仏教発祥の地であるインドは今はヒンズー教とイスラム教の国になり(最近また仏教が広まりつつあるが)、パキスタンは北部のガンダーラを中心に仏教が栄えた国であるが今はイスラム教国である。アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、キルギス、など中央アジアの国々もすべてイスラム教国になり、日本が仏教を学んだ中国は共産国になった。

これらの国々に仏教が栄えていた時には、百人のうちの二〇人も三〇人も仏教徒だった時代があったと思うが、いま仏教国といえる国は日本を初めとして、韓国、タイ、カンボジア、ラオス、ミャンマー、ブータン、チベット、モンゴル、スリランカなど十ヵ国ほどであろう。もっとも何をもって仏教国とするかは難しい問題であるが。

これらの国の中で日本はいちばん経済力と人材に恵まれている。だから世界宗教の名にふさわしい仏教を育てるために、指導的な役割を果たしていかなければならないと思う。

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