四つの道

インドの聖者ビベーカーナンダ(1863年〜1902年)が「四つのヨーガ」という題で講演した記録が残っている。四つのヨーガとは崇高なる精神世界にいたるつぎの四つの道である。

第一の道、カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ。仕事の道)

第二の道、バクティ・ヨーガ(愛のヨーガ。信の道)

第三の道、ラージャ・ヨーガ(王のヨーガ。禅定の道)

第四の道、ジュナーナ・ヨーガ(智慧のヨーガ。哲学の道)

これらのヨーガのうち、行為のヨーガは活動的な性質の者に、愛のヨーガは感情的な性質の者に、王のヨーガは瞑想を好む性質の者に、智慧のヨーガは理性的な性質の者に対応しており、王のヨーガは他の三つの基礎となるものでもある。ビベーカーナンダはこれら四つの道の調和を理想としていた。この四つの分類は、宗教というものが持つ四つの性格を表しているのではないかもと思う。そしてどの性格が強調されかによってその宗教の特色が出てくるのだとも思う。ここではビベーカーナンダの言葉の抜き書きでもって、これら四つの道をご紹介したい。

なお健康体操として行われているハタ・ヨーガは、ぼう大なヨーガの体系の中から、その入口部分の柔軟体操的なものを抜き出したもので、坐禅の補助として効果があるので私も熱中したことがあるが、坐禅や瞑想そのものではない。ビベーカーナンダも健康体操としてのハタ・ヨーガは悟りの役に立たないと言っている。

   
カルマ・ヨーガ(仕事の道)

この世界は恐ろしいからくり機械である。もし我々がそれに手を触れるなら、たちまちに捕らえられ滅ぼされる。我々はみな強力で複雑なこの宇宙の機械にしばられている。それを逃れるには二つの方法しかない。

第一は機械のことをいっさい気にせず、それが進むがままに放置して遠ざかっていることである。この世界に対する執着を断念するならば、我々はたちまち自由になれる。しかしそれは言うは易いが実行することはきわめて難しい。

最高の人々は沈黙していく。もっとも偉大な人々は知られることなく過ぎ去った。彼らは思想を世界に残すが自身のためには何も望まない。名声を得ようともしないし、彼らの名前のつく学派も体系も立てはしない。彼らはけっして音をたてないがその思想は山々をも貫く。しかし彼らは行動したり説教したり戦いをしたりするには、あまりに神に近すぎる。

つぎに第二の手段がある。それは世の中に没入して、そこに仕事の秘密を見出すことである。機械のからくりから逃げるのではなく、そこに留まり、そのからくりを扱うことを学び、仕事をすることを学ぶのである。それがカルマ・ヨーガの道である。

宇宙全体が働いている。何のためか。自由のためである。川は流れ、渦巻き、落下し、戦いながら自由な流れとなって進む。我々もこの世界から脱出するために働くのである。そしてそれには経験が役に立つ。

仕事を避けることはできない。また宗教は行動でなければならない。だから休みなく働け。しかし奴隷として働くのは真の仕事ではない。利己的な仕事は奴隷の仕事である。精神を自由にとどめよ。仕事に執着してはならない。ただ世界の幸福のためにのみ行動するべきである。そうすれば狂信者にはならないであろう。平和であれ。自由であれ。

私たちの仕事を神に捧げよう。もし仕事がうまくいっても、その果実を得ることをしない。失敗しても心配はしない。罰をのがれるただ一つの方法は、報償を断念することである。不幸をのがれるただ一つの方法は、幸福への願いを断念することである。死の彼方まで行くただ一つの方法は、生への愛を断念することである。これらは互いに結びついているからだ。

真に偉大な人は、いちばん平凡な生活において偉大である。何の動機もなく、金銭のためでもなく、名声のためでもなく、何のためでもなしに働く者がもっともよく働く。彼はブッダとなるであろう。それがカルマ・ヨーガの理想である。

「真理を実現する」ことと、「人々を助ける」こと、この二つの誓いが必要である。最後の戸口に達した聖者といえど、兄弟たちを助けるために引き返すべきだ。偉大な人とは自己の実現を断念しても、他の人々のカルマ・ヨーガの実現をたすける人である。

ここからは蛇足。カルマは行為を意味しており、自業自得の業がカルマである。ビベーカーナンダと同じことを白隠禅師が言っている。禅師は菩提心とは何かという疑問にぶつかり長く解決できなかったが、四十歳のとき菩提心とは上求菩提・下化衆生(じょうぐぼだい・げけしゅじょう)の実践であると納得し、それからは四弘誓願文(しぐせいがんもん)を重視するようになり、「菩提心なきは魔道に落つ」という言葉も残している。

四弘誓願文は「衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願学、仏道無上誓願成」という四つの誓願からなり、これを二つにすると上求菩提・下化衆生になる。そして上求菩提は真理を実現すること、下化衆生は人々を助けることである。

   
バクティ・ヨーガ(信の道)

愛の宗教は広大な領土を包含している。それは愛の多様な段階をへて、至上の愛へと向かう魂の行進である。長い危険な旅、目的地にたどり着く者ははなはだ少ない。

我々は、神に満ちた、永続的な、唯一の愛、に到達することができる。しかしそれは長い道のりであり、大多数の人は中途でとまる。一世紀のあいだに幾人かがこの神の愛にまで身を高め、そしてその国全体が彼らによって神化する。太陽が昇ると影がかき消されるように。

真に神を認めた人のみが宗教的である。私たちはみな無神論者である。そのことを告白しよう。唯物論者は真摯なる無神論者である。

宗教は事実の問題であり、単なる知的同意は我々を宗教的にはしない。神の愛は、弱い人が到達することはできない。肉体的にも精神的にも強くあれ。

バクティ・ヨーガの神聖な愛の道の五段階。

第一は、恐怖心から逃れるために救いを求める段階。

第二は、神を父とみる段階。

第三は、神を母とみる段階。

第四は、愛することを愛し、一切の得失と善悪をこえて愛する段階。

第五は、神と一体となり愛を実現する段階。

「無限の愛」の段階である第五段階に達した人には、もはや欲望もなく、利己主義もなく、自我もない。彼は愛した人と一つになる。彼は息子、友だち、愛人、夫、父親、母親そのものなのだ。私はあなたであり、あなたは私である。一切は一つにすぎない。そして彼は、その光明にあふれた頂上からみずから降りてきて、下に残っている人々に手を差しのべるために戻って行く。

バクティ・ヨーガは日本の仏教でいえば念仏の教えに近いものだと思う。自己のはからいを捨て去り、すべてを仏さまにまかせ、仏さまと一つになる道である。

   
ラージャ・ヨーガ(禅定の道)

ラージャ・ヨーガは精神の絶対的な調整と抑制の科学であり、真理に達する科学的で実際的な方法を人類に提供している。真理は精神集中によってのみ達することができる。

普通の状態では、我々は精力を浪費している。精神のもろもろの力は散らばっている光である。それが火となるには集中して束にしなければならない。それ以外に真理を認識する方法はない。

この狂った猿のような精神を抑制することは、決して容易ではない。動きまわる精神は、欲望に酔い、嫉妬にそそのかされ、傲慢に悩まされる。

しばらく精神を流れるにまかせておくがよい。精神は湧きたぎり、泡だつ。猿をはね回らせるがいい。待っていて観察するがよい。諸君が内にいだいている多くの醜いものが示されるであろう。しかし知識と忍耐は力である。日に日に精神の放浪は減少するであろう。これは長く骨が折れる仕事であることを、私は隠しはしない。

私が教えることには何の神秘もない。このヨーガの体系の中で、秘密であり神秘であるものは一切しりぞけられるべきである。実験すべし、自分で。神秘もなければ、危険もない。盲目的に信ずるのは悪いことである。

ラージャ・ヨーガの教えは「あなたは何を信ずるのか」と尋ねたりはしない。あなたの信仰を立てるまでは、何も信じてはならない。全ての人間は、この自由を用いる権利と義務をもっている。

諸君自身の精神をはたらかせよ。肉体と思考とを自ら抑制せよ。もし諸君が少しも病気でないなら、他人の意思はなんら作用しないであろう。いかに偉大であり善良であろうとも、盲目的に信ずることを要求するものは誰でもしりぞけよ。

断食するもの、食いすぎるもの、眠らないもの、眠りすぎるもの、働かないもの、働きすぎるもの、これらはヨーガ行者になれない。体がとくに怠惰なとき、あるいは病気のとき、あるいは精神が非常にみじめで悲しいときには、ヨーガを行ってはならない。

ここからは蛇足。ラージャは王を意味しており、そのためラージャ・ヨーガは「ヨーガの王」と訳される。ビベーカーナンダはラージャ・ヨーガを実習する人に、つぎの五つの戒めを課している。これは仏教の五戒に似ているがさらに難しい内容であり、この五つが実行できるならもう修行は必要ないようにも思う。

「不殺生」。一切の自然に対して侮辱を加えないこと。行為においても言葉においても思惟においても、生きた存在に決して害を加えないこと。練習の始めに「すべての生き物が幸福でありますように」と祈るべきである。

「絶対の真理」。行動においても言葉においても思惟においても、うそをつかないこと。

「完全な清浄」。一切の性的な行為の禁止。

「絶対に羨望しないこと」

「魂の純潔と無私無欲」。誰からもいかなる贈り物も受けないこと、期待しないこと。

   
ジュナーナ・ヨーガ(智慧の道)

これは合理的・哲学的ヨーガであり、それは理性に捧げられる。宗教は一つの科学であり、ラージャ・ヨーガが内面を調整する科学なら、ジュナーナ・ヨーガは思考の道具の取りあつかいに関する科学である。

この道において精神は果てしない空虚な議論の網にかかるかもしれない。その網はラージャ・ヨーガの精神集中によってのみ通り抜けることができる。この両者は深く関係している。

星の世界を支配する法則を知ることは、崇高であり良いことである。人間の感情、情熱、意思を支配する法則を知ることはいっそう良いことであり、はるかに崇高なことである。そしてそれは宗教の領域なのだ。

神への信心の道であるバクティ・ヨーガは、実践は容易であるがその進行はゆるやかだ。ジュナーナの道は迅速で、確実で、合理的で、普遍的である。

人間は考えるべし。人間の光栄は思惟の中にある。私は理性を信じる。神の最大のたまものである理性にそむいて信じるというのは、巨大な冒とくではないか。盲目的に信ずるよりも、理性にしたがって無神論者になる方がまだましである。

科学と宗教は、奴隷の身分から脱出するための二つの並行的な企てである。ただ宗教はいちばん古くていちばん神聖であるという迷信を、私たちは持っている。宗教は道徳性を重要点とみなすので、ある意味においてより神聖である。科学はその点を閑却する。

宗教は形而上の世界を扱う。科学が物理学的世界の真理を扱うのと同じように。そして宗教の科学は、生命の唯一の本質を発見する時に停止するであろう。宗教はそれ以上進むことはない。それは全ての科学の目的でもある。

昔のベーダンタ哲学者たちは、彼らの魂のいちばん内部の核に、一切の宇宙の中心を発見した。そこへ行かなければならない。坑道をうがち、掘り、見て、触れなければならない。

我々の真の生命は、我々が他の人々の中に、そして宇宙の中に生きる瞬間に現れる。この小さな体に我々を限定することは、明らかに死である。だからして死の恐怖が訪れるのだ。この宇宙の中に一つの生命でも存在するかぎり、自分は生きているということを実感するのでなければ、死の恐怖は克服されないであろう。

この勝利は、教育により、修養により、瞑想と精神集中により、とりわけ自己放棄と自己犠牲によって到達することができる。

ここからは蛇足。「直感は精神の先駆者として斥候の役を演じ、理性は精神の軍隊の主力をなして後から進む」とあるから、ジュナーナ・ヨーガは悟りの体験を理論的に体系づけたもの、具体的にはインド古来のウパニシャッド(ベーダンタ)の哲学を指しているのだと思う。

   
未来の宗教

ビベーカーナンダの言葉をもうすこしご紹介したい。

私は過去におけるすべての宗教を受け容れ、すべての神を崇める。私は未来のすべての宗教に対して心を開いている。

「啓示の書」は完結されてはいない。すべての聖典はその数ページが開かれたに過ぎない。無数のページがなお開かれるべきである。私は、その本が、そのすべてのページが、開かれることを望む。

無限の進歩が我々の合い言葉であれ。あなたの信仰は排他的であってはならない。あなたの愛は普遍的な慈悲であるべきだ。新しい宗派を作るなかれ。すべての宗派を受けいれよ。すべての信仰を調和させよ。

参考文献「ロマン・ロラン全集15。生けるインドの神秘と行動。ラーマクリシュナの生涯。ヴィヴェーカーナンダの生涯と福音」みすず書房1980年

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