山岡鉄舟の話

「まず獣身を養い、それから人心を養え」というようなことを、福沢諭吉翁がどこかに書いていた。この言葉は、明治維新で開国はしたが、世界を相手にするには日本人の体格はあまりに貧弱すぎると嘆いての言葉であったと思う。

諭吉翁と同時代を生きた山岡鉄舟(てっしゅう)居士は、この言葉をみごとに体現した人であった。身長六尺二寸(一八八センチ)、体重二十八貫(一〇五キロ)という当時の日本人にしては並はずれた体格の持ち主であり、しかもその体は武道で鍛え抜かれたものだったので、相撲を取っても下手な力士だと相手にならなかった。

鉄舟居士の生涯はその獣身と、坐禅で養われた精神力によって作り上げられたものであったずば抜けた体力と気力があればこそ、剣と禅と書というどれ一つとってもたいへんな努力を要することを、同時進行でなし遂げることができたのである。

     
剣術修行

鉄舟居士がいちばん骨を折ったのは剣の修行であった。九歳で新陰流(しんかげりゅう)を学び、十歳から北辰(ほくしん)一刀流を学んだ。狂気のようにまっ正直に捨て身の稽古をしたので、鬼鉄と呼ばれて恐れられた。

しかし二〇年間、修行しても納得できず、「剣道明眼の人を四方に求むるも、更にその人にあう能わず」と嘆いていたが、二八歳のとき明眼の人に会うことができた。小浜藩士で一刀流の剣客、浅利又七郎義明(あさり・またしちろう・よしあき)である。浅利の技量と心境は居士をはるかに越えていた。最初に竹刀(しない)で立ち合ったときは、半日ちかくも激しく打ちあった末に浅利が勝ちはしたが、ほとんど互角の勝負であった。ところが木剣での立ち合いでは力の差がはっきりと表れた。

「浅利又七郎は下段につけてジリジリと気合いで攻めてくる。それに対し居士は青眼に構え、浅利の剣先をおさえて押し返そうとするが、浅利は盤石のように少しも応じず、面前に人なきがごとくヒタヒタと押してくる。居士の剛気をもってしても破るに破れず、一歩さがり、二歩しりぞき、ついに羽目板まで追い詰められてしまう。こんなことを四・五回もくり返した末に、ついには部屋の外まで追い詰められて戸をピシャリと閉められてしまう」

というありさまで手も足も出なかった。坐禅をしていても思い出すたびに、浅利の姿が山のように立ちはだかり圧迫してくる。そこで天竜寺の滴水(てきすい)和尚に相談したところ、「両刃、鋒(ほこさき)を交えて避くることをもちいず。好手かえって火裏の蓮に同じ。宛然(えんぜん)として自ずから衝天(しょうてん)の気あり」という語を授けられ、居士は三年間この語に参じた。

そしてある晩、寂然とした天地無物の境に入り、気が付くとほんの一瞬のことと感じたのにすでに夜は明けかけていた。ためしに剣を構えてみると浅利の幻影がのしかかってこない。喜びを押さえて門人を呼んで立ちあってみると、あまりの気迫に門人は居士の前に立つことさえできなかった。

そこでさっそく浅利又七郎と立ちあい、浅利は構えを見ただけで居士を許し、元祖伊藤一刀斎から伝わる無想剣の極処を伝え、一刀流の免許皆伝をさずけて伝統をつがせた。明治十三年三月三十日、居士四十五歳のときのことで、こうして居士は無刀流を開き、さらに滴水和尚から印可もさずけられた。浅利はそれ以後、剣を手にすることはなかったという。

     
禅の修行

禅の修行は十三歳ごろ始めた。昼は剣術、夜は坐禅と決めており、夫人の話ではどんな日であろうと二時まえに寝たことがなく、夜を徹して坐禅することも珍しくなく、とにかくよほど骨を折ったという。

若いころの居士はひどいあばら屋住まいで、ネズミが家の中で暴れまわっていた。ところが居士が坐禅を始めるとネズミが急に静かになり、ついには睨みつけるとネズミが梁からポタッと落ちたという。信じられない話だが、まんざらうそでもなさそうである。

三七歳(明治五年)の頃から三年間は、三島の竜沢寺の星定(せいじょう)和尚に参じ、東京から三島まで三十余里を歩いてかよった。健脚の持ち主とはいえ歩くだけでいい修行になったと思う。三年目に星定和尚に許されたが居士は納得できなかった。ところが竜沢寺を辞して箱根を越えているとき、山の端からぬっとあらわれた富士を見たとたん豁然(かつねん)と大悟した。駆けもどってきた鉄舟居士の姿を見て、星定和尚はニコニコしながら「今日は間違いなく戻ってくるだろうと待っていた」と言った。

「晴れてよし、曇りてもよし富士の山、もとの姿はかはらざりけり」。この歌はその大悟の心境を歌ったもので、居士はこの歌を富士の自画賛としてよく書いている。その後さらに数人の老師に参じ、最後は天竜寺の滴水和尚について仕上げた。滴水和尚はまだ徹底していないとして締めつけたが、指導する方もたいへんだったようで、「鉄舟のような者はまたとない。鉄舟に接したときは一回一回が命がけであった。わしは鉄舟のためにかえって磨かれた」と言って誉めた。

四五歳のとき大悟徹底し滴水和尚から印可を受けたが、その後も油断なく研鑽を積んだことは、それから四年後の次の言葉からも分かる。「人は生死脱得ということをよく問題にするが、おれは維新のさい弾雨の中をくぐって来たのでさほどに難しいとは思わなかった。しかし色情という奴は変なもので、おれは二一の時から言語に絶した苦心をなめたが、四九歳の春(明治十七年)、庭前の草花を見ていた時、忽然、機を忘れる事しばし、ここに初めて生死の根本である色情を裁断することができた。色情脱得の方がよほど難しかった」

これは居士がよく述懐した言葉だという。山上さらに山ありで、こうした修行の功により言語に絶した妙趣がそなわり、居士がいるだけで周囲の人も素晴らしく元気になったという。

     
書の修行

門弟の小倉鉄樹氏は、居士が一生を通じて苦心したのは剣と禅であり、書も好きだったがこれは余技に過ぎなかったと書いているが、とても余技と呼ぶような努力や技量や作品数ではなかった。本格的に書を学んだのは十一歳のころに飛騨高山で岩佐一亭という書家についてからであり、居士は旗本の出で江戸の生まれであるが、父親が飛騨郡代に任ぜられたため、このときは高山に住んでいたのであった。

そしてわずか十五歳にして入木道(じゅぼくどう)五二世の伝統を岩佐一亭から受け継ぎ、その後、書聖と呼ばれる王義之(おうぎし)の十七帖(じゅうしちじょう。書き出しが十七日先書なのでこう呼ばれる)を二〇年間まなびその神を会得した。入木道という言葉は、王義之が板に書いた字の墨が、木の中に三分(さんぶ。板の厚さの十分の三?)染み通っていたという故事からきている。入木道は弘法流の書とされ、弘法大師も王義之を深く学んでいる。

鉄舟居士の揮毫(きごう)の多さは信じられないほどであり、百万枚ぐらい残っているのではないかと言う人もある。百万枚はおおげさかもしれないが、とにかく一日に五百枚ぐらいはさらさらと書いていた。なにしろタダでいくらでも書いてくれるので、書いてもあとからあとから持ち込まれ、ときにはそば屋の看板まで書かされたという。大量に書きまくるため出入りの墨屋が身代を起こしたと言われ、墨屋の丁稚(でっち)数人が朝から晩まで専属で墨をすっていた。

ふつうの人なら半紙に百枚書くのもたいへんなので、ある書家が「そんなに書けるはずがない」と言って信じなかったが、事実だと知って舌を巻いて驚いたという話が残っている。その話を居士が聞き、「あの人は字を書くのだから骨が折れる。おれのは墨を塗るだけだから訳のない話だ」と言ったというが、うまく書こうなどと思わずひたすら無心に書いたのであろう。大森曹玄老師が「鉄舟さんは傑作も多いが駄作も多い」とどこかで言っていたが、あまりに多く書きすぎたのか、無心すぎたのか。

鉄舟さんのすぐれた作品は書の分からない私が見ても、どうしたらこんな字が書けるのか、私もこんな字を書いてみたい、とため息が出てくるほどの神品である。剣や禅は形として残らないものなので、居士の評価は書によってなされると思う。

鉄舟さんの書は私の寺にもあるし他でもたくさん見てきたが、草書で書かれたものはまともに読めたためしがない。しかし草書のくずしは我流に見えても、すべて古法にのっとっているという。

     
貧乏修行

居士は貧乏修行も並はずれて積んだ人である。若いときの苦労は買ってでもせよを実行したらしく、若いときはあまりの身なりのひどさに「ぼろ鉄」と呼ばれていたほどであり、この修行でもずいぶん鍛えられたらしい。もっとも居士が生まれた小野家は裕福な旗本であり、教育ママだった母親のおかげで子供のときには剣や書を優れた師について学べるだけの余裕があったが、むこ養子に行った先の山岡家は没落した足軽の家だった。

鉄舟夫人の兄は幕末の三舟(さんしゅう)のひとり、槍一本で伊勢守(いせのかみ)になったという高橋泥舟(でいしゅう)である。泥舟の兄の山岡静山はそれ以上の槍の名手で、居士は静山から槍を学びたいへん尊敬していた。そして静山が若くして亡くなったとき、泥舟はすでに高橋家の養子になっていたため、居士がその妹と結婚して山岡家をついだのである。

居士は衣食住にはまったく構わない人で、大灯国師遺誡(ゆいかい)の「衣食(えじき)のためにすること莫れ。肩あって着ずということ無く、口あって食らわずということなし」を実行した人であった。貧乏の最盛期には着物から家財道具、畳まで売りはらって八畳の間に畳三枚だけが残り、そのうちの一枚が居士の書斎になり、あとの二枚で寝たり食べたり客を通したりした。その畳も居士がいつも座るところは丸いくぼみができ、やがてくぼみは床板まで届き、冬になっても夜具さえ無く、売るに売れないボロ蚊帳にくるまって夫婦で抱き合って寒さをしのいだという。

「何も食わぬ日が月に七日ぐらいあるのは、まあいい方で、ことによると何にも食えぬ日がひと月のうち半分くらいもあった。なあに人間はそんなことで死ぬものじゃねえ。これはおれの実験だ。一心に押して行けば、生きていけるものだ。お前らもやってみるがよい。死にはせんよ」

夫婦は死ななかったが、最初に生まれた子供は母乳が出ないために死んでしまった。この最初の子供が生まれたときには、敷くにも掛けるにも一枚の布団もなく、自分の着物を奥さんに掛けてやり自分はフンドシ一つで看護した。奥さんが「それではあんまりひどいから」と着物を着せようとすると、「なに、裸の寒稽古をやっているのだ」と言って押しとどめた。

そんなに貧乏していても、一分銀三粒を刀に結びつけて決して使わなかった。幕末の動乱期どこで死ぬか分からず、武士のたしなみとして自分の死体を始末する費用の用意を忘れなかったのである。

     
清水の次郎長

子分三千人といわれた清水の次郎長親分は、居士に心酔し、いつも出入りしていた。あるとき次郎長親分がこんな事を言いだした。

「先生。撃剣(げきけん。剣術)なんてたいして役に立たないもんですねえ」

「どうして役に立たぬな」

「わっしの経験ですがね。刀をもって相手に向かった時にはよく怪我をしたものですが、刀を抜かずに、この野郎、とにらみ付けると、たいていの奴は逃げちまいますよ」

「そういうこともあろうな。それでは、お前はそこにある長い刀でどこからでも俺に斬りかかってこい。俺はこの短い木太刀で相手をしよう。俺にかすり傷ひとつでも負わせたら、お前が勝ったことにしてやる」

負けん気の強い次郎長は刀を抜き、端然と座っている鉄舟居士をしばらくの間にらみ付けていたが、

「これはいけねえ。どうしてもお前さんにはかかれねえ。此のすくんでしまう気持ちはどうした訳だろうね。先生には分かっているだろうから教えておくんなさい」

「それはお前が素手で、この野郎と相手をすくませるのと同じことだ」

「それではわっしが素手で、この野郎とにらみ付けるとなぜ相手がすくむんだね」

単純な次郎長がどこまでも追求すると、居士は楽しそうに言葉をついだ。

「それはお前の目から光りが出るからだ」

「撃剣を稽古すれば、よけいに出るようになりますか」

「なるとも。目から光りが出るようにならなけりゃ偉くはなれねえ」

そう言って、「眼、光輝を放たざれば大丈夫にあらず」と大書して与えた。次郎長親分はこれを表装し、いつも床の間に掛けていた。

鉄舟居士は殺生をひどく嫌い、人を切ったことは生涯一度もなかった。ところが居士のところに出入りしていた剣客の中に、松岡萬(つもる)という辻斬りの好きな男がいた。旧幕臣で剣術のうまい血の気の多い男であった。二人が一緒に歩いていたある晩のこと、居士が小用のため立ち止まり、用が終わって連れはどこかと見まわすと、一町ばかり先で松岡が人に切りかけていた。

「まったく困った奴だ」と飛んでいくと、相手は大柄な武士で、松岡の刀の切っ先が鼻とすれすれになっているのに、ふところ手したままヌッと突っ立ってビクともしない。さすがの松岡も武士のたじろぎもしない様子に呑まれ、たじたじになっていた。「いや、これは手ごわい奴にぶつかったわい」と居士も思い、「ご無礼するなっ」と叫びながら松岡の襟をつかんで後ろに引き倒した。

松岡は尻餅をついたまま固くなってまだ刀を武士に向けていたが、居士が「どうもご無礼しました」と詫びたとたん、その武士は「ありがとう御座る」と言うなり、ふところ手したまま尻餅をついた。相手は腰が抜けて動けなかったのである。この武士のまねができれば辻斬りを退散させることができる。

     
ひのき舞台

明治元年、居士三三歳のとき、鳥羽伏見の戦いにやぶれた徳川幕府は朝敵の汚名をこうむり、倒幕の官軍は三方から江戸に向かって進軍し、本営は駿府に到着、先陣は川崎の宿に達し、このままでは江戸の町は戦火に焼かれ、徳川家は滅亡するという事態になった。

このとき居士は徳川慶喜公の命をうけて、駿府の西郷隆盛のもとに向かうことになった。居士はいちど家に帰り、夫人に「飯はあるか」ときいた。夫人がおひつと大根の葉の漬け物を持って来ると、冷飯に大根の葉をかけてさらさらと十数杯かき込み、「ちょっと出てくる」と言って、益満休之助と二人で出発した。

そして官軍の兵があふれる東海道を突破したが、あまりに堂々と道のまん中を歩いて行ったので誰も手出しも怪しみもしなかった。そして駿府に着くや官軍参謀の西郷隆盛に会って、慶喜公の恭順の意と、江戸城を無血開城することを伝え、こうして戦いは回避されたのであった。この談判により百万の江戸市民は兵火をまぬがれ、徳川家は滅びずにすんだのだから、上野に西郷隆盛の銅像が立つくらいなら居士の銅像もなくてはならぬ、とは門弟の小倉鉄樹氏の言葉である。

     
宇宙の道理

居士が二三歳の時に書いた落書きというものが伝わっている。それは「宇宙の道理」を図解したもので、いちばん上に「宇宙界」があり、「漠として、宇宙界と名付くといえども、切言すれば吾人も亦等しきものなり」と説明がある。そして次に全体の説明がある。

「右のごとく宇宙の道理を系統して図解するにあたり、我ひそかに思ひらく、そもそも人のこの世にあるや、おのおの其の執るところの職責種々なりといえども、その務むる所の業に上下尊卑の別あるにあらず。本来人々に善悪の差あるにもあらず、人間済世の要として一段の秩序あるのみ。

されば何人によらず、おのおの本来の性を明らめ、生死の何物たるを悟り、かたがた吾人現在社会の秩序にしたがい、生死を忘れて、その職責を尽くすべきなり。その責を尽くすは則ち、天地自然の道によるものにして、いやしくも逆らうべからず」

分かりにくい文章であるが、要するに、「宇宙の根本は一つであるから、社会の秩序として職種や身分のちがいはあっても、すべての仕事に貴賎はなく、すべての人に上下の別はない。だから何人も、自己の本心本性を明らめ、生死の問題を解決し、天地自然の道にしたがって与えられた職責を果たさなければならない」と宣言しているのである。

居士の剣禅書の修行の目的は、天地同根・万物一体の理を体験しそれを広めていくことにあった。わずか二三歳でそれを人生の目的にしていたのである。

     
最後の修行

晩年は午前五時に起床し、六時から九時まで撃剣指南、十二時から四時まで揮毫、夜は坐禅か写経であった。朝から晩まで来訪者が絶えないため、軽い冗談をかわして応対しながら揮毫することもあった。

鉄舟居士に会っていると、英雄の霊気に打たれてみんなボッといい気持ちになってしまうため、訪問者の帰りが二時三時になることもしばしばだった。居士はいかなる人であろうと玄関払いをしたことがなく、訪ねてくる人には必ず会い、相手がどんな青二才であっても額が畳につくくらい丁寧に挨拶した。

豪放磊落でありながら実に細心な人で、手紙を書くときには必ず下書きをし、書き終えるとくるくると巻いて畳み、それをまた広げて読み直し、それから封筒に入れた。下書きをした紙は自分で細く切ってコヨリを作っていた。そのため机の下にはコヨリの束がいつも転がっていた。

居士は明治二一年七月十九日に亡くなった。五三年の生涯は実り少ないものではなかったが、もっと長生きしていればどれだけ大きな仕事をなし遂げたことかと思う。明治十九年の春ごろから胃病が重くなり、二〇年の八月には右脇腹に胃ガンの大きなしこりができ、二一年二月からはまったくの流動食となった。

病中といえど生活は平生となんら変わらず、見舞客には座敷で応対し、帰る時には玄関まで送り、来客のない時には揮毫もした。写経は亡くなる前日まで続け、よほど苦しいはずなのに温容をくずさず、かんしゃくを起こすこともなく、「お医者さん、胃がん胃がんと申せども、いかん中にも、よいとこもあり」という歌を作って見舞客と談笑した。

七月に入ると急に病勢が衰えたように見えた。居士はようやく死期が近づいたことを自覚し、七月八日に撃剣の門人すべてを集めて最後の指南をした。十七日の夜八時ごろ手洗いから戻って来て、「今夜の痛みは少し違っている」とつぶやいた。すぐに医者が呼ばれ、診断の結果は胃に穴があいて急性腹膜炎を併発し、もはや手の施しようがないということだった。重態ということで見舞客が殺到して病床をとりかこみ、建具がはずされた邸内は身動きもできない有様になった。そうした喧噪を居士はまったく意に介さず、布団にもたれて談笑つねに変わらない様子だった。

七月十九日の明け方、明烏(あけがらす)の声を聞き、「腹張りて、苦しき中に、明烏」と辞世を吟じた。ところがこの辞世は門人たちのあいだに物議を起こした。先生ほどの大物の辞世に「苦しい」という言葉はふさわしくない。事実あの通り悠々とされているではないか、ということで暫く公表されなかったが、天竜寺の峨山(がさん)和尚がこの辞世を聞いて大いに感心し、「さすがに鉄舟居士の遺偈(ゆいげ。いげ)だ。実に傑作だ」と讃嘆したため公表されることになった。

午前七時半、居士は浴室で体を洗い清め、夫人は喜ばなかったがかねて用意の白衣(はくえ。白い着物)に着替えた。そして九時ごろ、皇居にむかって結跏趺坐(けっかふざ)して入定の用意をした。気息はかなり切迫していた。夫人はさすがに耐えがたく、居士の背後にまわり右肩に手と顔をあててすすり泣きした。これに気付いた居士は静かにふり向き、「いつまで何をぐずぐずしていますか」と微笑んで、ふたたび正面に向きなおった。

そして午前九時十五分、坐ったまま、まったく静かに瞑目大往生をとげた。享年五三歳(満五二歳)、その顔はわずかに笑みを含み、手にうちわを握り、端然と結跏趺坐していたので、弔問者はその死を疑った。つぎつぎにやって来る弔問者が対面できるように、遺体は暫くそのままにしておこうという意見もあったが、夏の暑い時期でもあり翌日の夜納棺された。それからちょうど十年後の同月同日に英子(ふさこ)夫人が亡くなった。五八歳だった。

鉄舟居士はドクロが好きでよく描いていた。そのドクロに添えて書いていた歌を最後にご紹介したい。「死にきってみれば誠に楽がある、死なぬ人には真似もなるまい」

参考文献
「おれの師匠」復刻版 小倉鉄樹 平成13年 島津書房
「剣と禅} 大森曹玄 1983年 春秋社
「山岡鉄舟」 大森曹玄 1983年 春秋社
「鉄舟随感録」 阿部正人編 2001年 国書刊行会
「山岡鉄舟の武士道」 勝部真長 平成11年 角川書店

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