不滅の命の話

五〇歳を過ぎると誰しも死ぬことが気になってくる。死ぬときには死ねばいいなどと口では言っていても、心の中はすっきりしないものなので、死の問題は自分なりに納得しておくべきだと思う。もっとも死ぬときには死ねばいいと覚悟をするのも一つの方法かもしれないが、実際に死が目の前に迫ってきたら、そうした覚悟は役に立たずうろたえることになる、ということも覚悟しておくべきだと思う。

人が死を恐れるのは死を経験したことのないのが一つの理由であり、初めてのことには誰しも恐怖心を抱くものである。しかし私たちは毎晩、死を経験している。死と眠りのちがいは、目が覚めるか覚めないかぐらいのことだと思う。だとすると、ぐっすり眠るのは人生最大の快楽であるから、死はそれ以上の快楽のはずである。

目が覚めているときにも死は存在している。心のはたらきは滝にたとえることができ、滝は落下する一本の水のつながりのように見えるが、近づいてよく見ると、ばらばらに落下する大小の水の集まりでできていることが分かる。心の働きはそれに似ていて、心は糸のように連続しているものではなく、生じては滅する不連続な意識によって成り立っている。数珠にたとえていうと糸ではなく珠の方であり、心はたえず生死をくり返しているのである。

体が死ぬと命はどうなるのだろうか。一休さんの歌にこういうものがある。

「たらちねに呼ばれて仮に生まれ来て、心おきなく帰るふるさと」

たらちねは母にかかる枕詞であり、ここでは母を意味している。母に呼ばれて仮にこの世に生まれて来て、死ねば元のふるさとに帰っていくのだから、死を恐れる必要はないというのである。七〇年か八〇年でさよならするのだから、この世が仮の世であるのはまちがいのないことであるが、ならばその命のふる里はどこにあるのか。宇宙のかなたに命のふる里の星があるのだろうか。

「死にはせぬ、どこにも行かぬここに居る、尋ねはするな物は言わぬぞ」

これも一休さんの作とされている。この体が死んだら命はどこへ行くのか。どこにも行かぬ、ここにおる。命はあらゆるところに満ち満ちている。しかし命そのものは見ることもさわることもできない。だからいくら探しても見つからず、いくら呼びかけてもは返事をしてくれない。

「形見とて何か残さむ、春は花、夏ほととぎす、秋はもみじ葉」

これは良寛さんの歌である。春に咲く花も、夏のホトトギスの声も、秋のもみじの錦も、すべて良寛さんの形見であり、良寛さんの命である。すべては一つの大きな命のあらわれであり、地球上に数百万種の生物、七〇億の人が住んでいるというが、みんな一つの命を生きているのである。

「日はまなこ、虚空はからだ風は息、海山かけて、わが身なりけり」

私たちは宇宙大の命を生きているのであり、太陽が爆発しようが、地球が破裂しようが、びくともしないのが私たちの本当の命である。

命は海にたとえることができる。風が吹くと海面にたくさんの波が立ち、波は生まれては消えることを限りなく繰りかえしているが、海の水は生ずることも滅することもない。増えることもなければ減ることもない。命は大海の水のように、不生不滅であり不増不減なのである。

別のたとえでいうと、海の中に水差しが沈んでいるとする。水差しの中には海の水がいっぱい入っており、水差しが壊れてなくなっても中の水はなくならない。水は元からそこにあったし、どこかへ行くこともないのである。

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