お盆の話
お盆は日本の仏教を代表する行事であり、民族大移動の季節ともなっているが、その起源や変遷については分からないことが多い。あまりに古くから、あまりに広い地域でおこわれてきたため、さまざまな時代や国の要素が複雑に混じりあっているからである。

お盆という言葉は仏教行事の盂蘭盆会(うらぼんえ)からきたとされており、これは確かなことのようである。その盂蘭盆会の行事は中国では西暦五三八年、日本では六〇六年(六五七年説もある)に行われた記録が残っているというから、実に千五百年もの伝統を持っている。

盂蘭盆会は中国の西晋(せいしん。二五六年〜三一六年)時代の僧、竺法護三蔵(じくほうご・さんぞう。二三二?〜三〇九?)訳の仏説盂蘭盆経にもとづいて始まったとされているが、この経は五世紀の終わりか六世紀の初めごろに中国で作られた偽経ではないかといわれているから、竺法護訳というのもかなりあやしい。この経は盂蘭盆会の起源を次のように説明している。

釈尊の十大弟子の一人、神通第一といわれた目連(もくれん)尊者が悟りを開いて神通力を得たとき、母親が餓鬼道におちて苦しんでいることを天眼通で知っておどろき悲しみ、神通力で救おうとしたがどうしても救えなかった。そこで釈尊に教えを乞い、教えられた通り、七月十五日の自恣(じし)の日に衆僧に飲食を供養し、衆僧は尊者の母のために禅定と回向を修してからその供養を受けたところ、母は餓鬼道から救われた。

このように自恣の日に衆僧を供養すれば、その功徳により父母が生きている場合には無病長寿と福楽が与えられ、すでに死去した過去七世の父母や六種の親族は、地獄や餓鬼の苦しみから救われる。だから盂蘭盆会をおこなうことは親や祖先にたいする最大の孝行であり、最大の慈悲である、というのである。

盂蘭盆経は十分もあれば読み終える短いお経であるが、この目連救母の話が中国や日本の文学に与えた影響は大きく、やがて目連尊者の地獄めぐりといった話にまで発展していくのである。なおこの経によると、盂蘭盆会は衆僧を供養するための行事のはずであるが、今の日本では衆僧の方が先祖供養のために走り回っている。

この経に出てくる自恣の日というのは修行期間の最後の日のことである。インドでは夏の三ヶ月間が雨期になり、雨期は生き物が繁殖する季節なので、外を歩いていると虫や草木の若芽を踏みつぶしたりするし、また外出に不便な時期でもある。そのため雨期の三ヶ月間は一ヶ所に定住して修行に専念する期間になっていた。その修行期間を雨安居(うあんご)といい、その最終日が自恣の日である。

その自恣の日に、安居をなし終えた修行者に布施をしたり、そうした修行者に法要をしてもらったりすると、大きな功徳があるとされていたので、人々は競って修行者に供養の品を贈り、また修行者はその布施によって遊行に出るための準備を調えることができた。

こうした自恣の日の行事が盂蘭盆会の起源であるというのが、盂蘭盆会の起源に関する有力な説のひとつになっている。

     
お盆の疑問点

盂蘭盆会に関する疑問点はだいたい次の三つになると思う。

一、盂蘭盆という言葉の意味は何か。語源は何か。

二、盂蘭盆会の起源は何か。始まった場所はどこか。

三、仏教のふる里のインドに盂蘭盆会の行事があったのか。

盂蘭盆という言葉は、お供え物を入れる容器のお盆を意味するという説もある。その根拠になるのが盂蘭盆経であり、この経では盂蘭盆という言葉を供物を入れるお盆の意味で使っている。つまり当時の中国人の多くは盂蘭盆を容器のお盆と理解(誤解?)していたのであり、この経が成立した当時の中国で、すでに盂蘭盆の意味や語源が不明になっていたと考えられるのである。しかも同じ経中でありながら前半部分では、容器のお盆のことを盂蘭盆ではなく盆あるいは盆器と書いているから、この経は盂蘭盆の意味が定着していない時代の二つの文書が、合体して作られたもののようである。

ただしこの盂蘭盆とは容器のお盆であるとする説には、盂蘭という言葉の説明ができない難点がある。

盂蘭盆の語源に関しては次の説が定説になっている。盂蘭盆は正しくはウランバナ(烏藍婆拏)といい、これは逆さ吊りを意味するサンスクリット語である。つまり盂蘭盆会の法要は、地獄や餓鬼の世界に落ちて逆さ吊りの苦しみをうけている祖先を救う倒懸救苦(とうけんきゅうく)の行事である、という説が定説とされてきたのであり、この説は中国の貞観(じょうがん)年間(六二七〜六四九)の末に、勅を受けて撰述された「一切経音義」の中に初出し、やがて中国や日本に広まったものである。

一切経音義の著者はこの説でもって、盂蘭盆とは容器のお盆のことである、という誤解を否定したかったようであるが、私はこの説に違和感を感じてきた。祖先を供養する大切な行事を、逆さ吊りなどと呼ぶのかと疑問に思うからである。

とはいえこのウランバナ説が長年にわたり定説になってきたのだが、この一千四百年の定説に異をとなえた人がいる。それは仏教学者の岩本裕(ゆたか)氏である。彼は一九六八年に出版した「目連伝説と盂蘭盆」の中で、まずウランバナという言葉の存在を否定している。ウランバナという言葉はサンスクリット文献のどこにも出てこないのだから、そういう言葉は存在しないというのである。

つぎに盂蘭盆が倒懸の意味を持つなら、盂蘭盆経に倒懸を意味する語句が出てくるはずだが、それがまったくない出てこないのもおかしいという。ただしインドの伝承に、祭祀をしてくれる子孫のいない死者は、餓鬼になって「倒懸の苦を受ける」というものがあり、その言葉がウランバナに似ていなくもない。そのためこの伝承から、一切経音義の著者の玄應が、盂蘭盆を倒懸の意味に解釈したのではないかと推測している。

結論として岩本氏は、盂蘭盆会の起源をイラン系の民族であるソグド人の先祖供養の行事に求め、ソグド語で霊魂を意味するウルバンを盂蘭盆の語源としている。なぜここにソグド人が登場するのかと奇妙に思うかもしれないが、ソグド人は今のウズベキスタンのサマルカンドを中心とする地域に住んでいた民族であり、シルクロードの交易に携わっていたソグド商人が、自分たちが行っていた先祖供養の行事を仏教といっしょに中国に伝え、それが中国で盂蘭盆会の行事になったとするのである。

岩本氏は次のようなイラン人の祭りを紹介している。これはウズベキスタンで生まれた、十一世紀のイスラム世界を代表する知識人アル・ビールーニーが残した記録である。

「この祭の間、人々は食物を故人たちの廟室の中に置き、飲み物を家の屋上に置く。人々は、かれらの亡父祖の霊はこの祭の間には果報や処罰の場所を離れて、供えられた飲食物のところに来て、その力を吸収し、その風味を満喫すると信じている。人々はかれらの家を杜松(ねず)を燃やしていぶすことで、祖霊は姿を見せないとしても、その芳香を嗅ぎながら家族や親族と一緒に団らんできるようにする」

これを読むと、この祭りが日本のお盆とよく似ていることが分かる。最近はこのウルバン説が有力になり、百科事典や辞書にも載るようになってきた。

この説に従えばインド人がこの行事を逆輸入しない限り、インドで盂蘭盆会は行われていなかったことになる。仏教は十三世紀ごろにインドから姿を消してしまったため、インドで盂蘭盆会が行われていたかどうかはっきりしないが、七世紀にインドに長期滞在した玄奘三蔵や義浄三蔵の記録に盂蘭盆会が出てこないことや、忠実にインド仏教を移入したチベット仏教に盂蘭盆会がないことなどから、岩本氏はインドでは行われていなかったとしている。

中国では西暦五三八年に、梁(りょう)の武帝が盂蘭盆会を行ったという記録があり、これが中国初の盂蘭盆会とされ、それ以後、盛んになったという。武帝は仏教を保護したことで有名な皇帝である。また中国では盂蘭盆会と同じ七月十五日に、道教の中元の行事がおこなわれており、盂蘭盆会のお供え物に麦製品や畑の作物が多いのは、畑作地帯の収穫祭であった中元の影響が入っているためという。

     
日本のお盆

日本では、六〇六年七月十五日に盂蘭盆会と思われる斎会(さいえ)が行われた記録があり、六五七年には飛鳥寺(あすかじ)で盂蘭盆会が行われている。その後、盂蘭盆会は朝廷の恒例仏事となり、民間にも普及していった。

仏教伝来以前から日本人は、一月と七月に魂祭(たままつり)という先祖供養の行事をおこなっていたといわれ、七月の魂祭と中国伝来の盂蘭盆会が習合することで、日本のお盆行事が形成されたと考えられている。お盆は年に一度、祖先の霊がこの世に帰ってくる時とされ、旧暦七月十五日の満月の日を中心に、次のようなことがおこなわれていた。

七月一日。この日、地獄の釜のふたが開いて亡者が出てくるとされ、この日を盆始めとして準備にとりかかった。

七月七日。この日は七日盆(なぬかぼん)と呼ばれ、仏壇の掃除をしたり、仏具を洗ったり、盆棚に飾る花を山から取ってくる日になっていた。七夕(たなばた)はお盆に関係する行事が独立したものといわれ、この日を盆始めとするところもあった。

七月十三日の夕方。家の門口や墓地で迎え火を焚いて先祖をお迎えし、それから施餓鬼や棚経などの法要をおこなった。

七月十五日か十六日の夕方。送り火を焚いて先祖をあの世に送り、お盆が終った。ただし二十日盆という言葉や、二十四日のお地蔵さまの縁日を地蔵盆と呼ぶ言葉が残っているように、お盆の期間がもっと長いところもあった。

ところが明治時代に新暦が採用されたことで、お盆の時期が三つに分かれてしまった。それは新暦になっても七月十五日におこなう七月盆、七月ではあまりに早すぎるとして月遅れでおこなう八月盆、旧暦の七月十五日におこなう旧暦盆、の三つであり、大まかにいえば七月盆は東京周辺や東北地方、八月盆は北海道と本州の南半分、旧暦盆は東北・関東北部・中国・四国・九州に多い。ただし同一地域であっても必ずしも一定していない。旧暦七月十五日は、今年(平成十三年)は九月二日に当たるが、旧暦の七月十五日は新暦では八月の上旬から九月の上旬の間を移動するという。

教義の面から考えてみると、先祖があの世から戻ってくるという説と、仏教が説く輪廻転生(りんねてんしょう)説とはかみ合わないし、仏教が霊の存在を認めるかどうかという問題もあるから、教義的にはもっと整理する必要があると思う。しかし亡くなった人を偲んだり、その菩提をとむらったりすることは、人間の自然な感情であるし、それは人生に奥行きを与えてくれるものである。亡くなった人たちも私たちの心の中で生きているのだから、心をこめてお付き合いしなければならないと思う。

     
施餓鬼会

施餓鬼会(せがきえ)は平安時代に弘法大師などによって中国から伝えられ、お盆を代表する法要となった。しかしこの二つはもともと別の行事であり、施餓鬼はお盆以外でも修行される。施餓鬼会の起源もはっきりとしない部分が多く、それはこの行事が古くから行われてきた証拠ともいえる。

餓鬼は飢えや渇きに苦しむものを意味しており、餓鬼に食物や水をほどこす法要が施餓鬼会であるが、語感が悪いとして施食会(せじきえ)と呼ぶ宗派もある。施餓鬼は元来、餓鬼が集まりやすいとされる夕暮れどきにおこなわれていたらしく、明恵上人の伝記には上人が毎夕、施餓鬼をおこなっていたという記述がある。

施餓鬼をおこなうには施餓鬼棚(せがきだな)を本堂の縁側に組み、その正面に三界万霊(さんがいばんれい)の位牌をまつる。だから全ての霊を救うのが目的であるが、特に飢えや渇きで苦しむまつり手のいない無縁の霊が救済の対象である。

そのため施餓鬼棚には水と洗米(せんまい)が置かれており、まず水をサカキやミソハギの枝に含ませて本堂の外へふりまく。これを洒水(しゃすい)という。洗米はそこにばらまくと掃除がたいへんなので、これはお皿に入れておき後で外にまく。こうしてわずかばかりの水とお米を施すのであるが、陀羅尼(だらに)を唱えることで無量の水と食べ物となって、無量の精霊の渇きと飢えを救うとされる。

本堂の中には先祖の位牌や過去帳を安置した台が置かれており、ここでは焼香する。こうして、三界の万霊を救済した功徳を檀信徒のご先祖に回向しているのである。

参考文献
「仏教説話研究第三。目連伝説と盂蘭盆」岩本裕 昭和43年 法蔵館
「盆行事。伝承と信仰」竹林史博 平成24年 青山社

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