不浄観の話

不浄観(ふじょうかん)は、自分あるいは異性の体に対する執着を離れるための修行法の一つであり、白骨観(はっこつかん)とも呼ばれる。そのやり方には、体が大小便や血や脂などの不浄に満ちていることを観想する方法と、死体が腐りウジがわき白骨となっていく過程を観想する方法の二つがあり、自分の体に対する執着を去るには前者を、異性の体に対する執着を去るには後者をおこなうとされる。

また後者には、観想ではなく実際に死後の人体の変化を観察する方法もあって、この場合は時間がかかることから、死体の近くに寝泊まりする小屋を作って観察することもあったという。

大法輪という仏教系の雑誌に、タイ国の寺で修行している日本人の比丘(びく。修行僧)が書いた、タイでおこなわれている不浄観の紹介記事が載っていた。それによると、バンコクの警察病院の死体解剖室は比丘に開放されていて、受付に声をかける必要もなく自由に出入りできる。そこには常に十体以上の死体が解剖のために集められていて、解剖された死体や、ハエが無数にたかる変色した死体なども見ることができ、暑い国なので強烈な死臭が脳裏にきざみ込まれるという。

そこで不浄観を行ったときのことを著者は、「部屋に入る前は、むごたらしいものを見て気分が悪くなるだろうと思っていたが、入ってしばらくすると、むしろ心が少しずつ静まっていくのが感じられた」と書いている。そして病院を出て人々が行きかう賑やかな町中をバスで通過するときも、「普段あまり経験することのない気持ちの落ちつきと、生きていくことへの勇気のようなものが心に満ちてくるのを感じた」という。

また不浄観を修するための犬の死がいが裏庭に置いてある寺とか、小部屋に女性のミイラが置いてある寺などもバンコクにはあるという。

現在でもこうした修行が実践されているというのは意外だったが、きわめて具体的な修行法なので効果は大きいと思う。ただし正式に不浄観を修するには、相手がまだ生きているとき、不浄観の対象にすることを承諾してもらう必要があると聞いたことがある。つまり確かに生きていた人間が、白骨になっていくのを見届けることが大事だというのである。

具足戒の第三に「人を殺したり、死の快さを説いて人に自殺を勧めたりしてはならない」という戒がある。これは犯すと教団追放になる最重要の戒の一つであり、この戒を制定した理由として以下の因縁が伝えられている。

バグムダー河畔にいた比丘たちが不浄観を修した結果、肉体の汚れを嫌って死を願うようになり、そこにちょうどニセの修行者がやって来たので、衣を与えて自分たちを殺してもらった。これに味を占めたニセ修行者は、死を勧めては比丘を殺して衣を手に入れることをくり返すようになり、そのため釈尊はこの戒を制定するとともに、厭世観を生じやすい不浄観にかわって数息観(すうそくかん)を勧めた、という因縁である。

人を殺してはならないという戒の因縁としては、少し的はずれな内容のようにも思うが、伝わっているすべての律にこの因縁は記載されているという。これなどは不浄観の副作用が強すぎた例であり、日本の仏教が不浄観を説かないのは、日本人の国民性もあるだろうが、この話も一つの理由だと思う。

不浄観ではないがインドのバラナシで火葬を見たことがある。ガンジス川の岸にある火葬場では、つねに十数体の遺体が焼かれており、しかもそれを間近に見ることができるのである。火葬の手順は、まず河原に薪を五十〜六十センチ積み重ね、その上に白い布で包まれた遺体を横たえる。それから係の男が火のついた炭をのせたワラ束を持ってやってきて、遺体の周囲を数回まわってから、手にしたワラ束を左右に振る。するとワラに火が燃え移るので、それを薪の下にさし入れて点火する、という具合であった。点火するまでのわずかの時間をねらって、ノラ牛が遺体の上に供えてある花を失敬して食べていた。

遺体をつつむ布が燃えてなくなると、遺体がむき出しになり、手足が動いたり、頭蓋骨が割れて脳ミソが出たり、内臓が出てきたりするのが見える。それを係の男が竹の棒でひっくり返しながら焼く。最後まで残るのは腰の部分であり、薪が足りなくて焼け残る遺体もあるが、そういうのは竹の先にひっかけてガンジス川に投げこむ。川には川イルカと思われる動物が泳ぎ回っており、また火葬場にはノラ犬がやたらと多く、インドのノラ犬はかわいそうなほどやせているのが普通なのに、ここの犬はみなよく肥えていた。

火葬が終わると川の水をかけて消火する。するとバケツを持った子供たちが集まってきて、燃え残りのカラ消しを持ち去り、残った遺骨や灰は川へ流してしまう。だからインド人は墓を作らない。無駄のない国だと思う。

私は遺体を焼く臭いが鼻をつく五〜六メートル離れた所からその光景を見ていた。あまり熱心に見ていて男の人から注意された。ここは家族しか入ってはだめだ、観光客はあそこから見ることになっている、そう言って指さした所を見ると、川から少し離れた所に展望台があり、観光客らしい人が何人か見えた。

しかたなくその日はそれで引き上げたが、一週間ばかり毎日通って見ていた。まず火葬場にお参りをしてから、バラナシの町を見学して歩いたのであり、時間のある若いときにしかできないのんびりとした旅行だった。火葬場通いを続けていたら効果が出てきて、夜寝ているとき目の前に光景がちらつくようになってきたが、肉体に対する執着は一向に無くならなかった。

日本ではじめて火葬が行われたのは、西暦七百年に道昭(どうしょう)という僧が亡くなったときとされる。彼は遣唐使として中国へ渡り、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)から学んだ法相宗を日本に伝えた人である。本人の遺言によって火葬にされたのであり、これがインドから日本へ火葬の習慣が伝わった瞬間であった。

やはりインド旅行中、マドラス駅の待合室で、乞食の行き倒れらしき男が死んでいるのを見たことがある。様子がおかしいので顔をのぞき込んだら、目や鼻にアリがたかっていたのであり、すぐ近くで掃除婦が床を掃いていたが、死んでいるのは分かっていても見向きもしなかった。それが朝八時頃のことで、十時頃に通りかかった時も変化はなく、昼食のあと立ち寄った時にはさすがに片付けられていた。火葬にされるのはインド人にとって幸せなことだというが、彼は火葬にしてもらえたのだろうか。

インドでは行き倒れがあると、通りかかった人が遺体のうえにお金を投げ、ある程度お金がたまると、どこからともなく人がやって来て遺体を処理すると聞いたことがあるが、その時は誰もお金を投げていなかった。

歳をとると肉親や知人の葬儀に参列する機会が多くなる。そして親が死ぬと次は自分の番かと思ったりするし、収骨などは白骨観の修行のようなものである。誰しもこうして自分の死を受け容れていくのであろうが、こうしたことが大きな命に目覚めるきっかけになればいいと思う。

参考文献「タイ・テーラワーダ仏教の不浄観」落合隆 大法輪平成13年3月号

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