善の話
善とは二世(にせ。今世と来世)にわたってその人を幸せにするもの、と成唯識論(じょうゆいしきろん)は定義している。その成唯識論の説でもって善とは何かをご紹介したい。なお煩悩の話と対になっているので、そちらも一緒に読むと理解しやすいと思う。

成唯識論は心(しん)を、まず心王(しんのう。心の本体)と心所(しんじょ。心の働き)に分類し、心所をさらに六種に分類している。その六種のなかに善の心所や煩悩の心所があり、善の心所は次の十一種からなる。

一、信(しん)。信の心。真理に対する素直で清らかな心。成唯識論には、「真実の道理あることを認め、仏法僧の真浄の徳をねがい、自らが真理を会得することを欲して、心を浄ならしむるを性となし、不信を対治して善をねがうを業となす」とあり、法相二巻抄(ほっそうにかんしょう)には、「世の常に信を起こすというはこれなり。誠の道、大乗の法を見聞して、貴くめでたい事と深く認識し願いて、澄み清き心なり」とある。

つまり信とは「澄み清き心」であるが、説明が長いのは信じてはいけないものがたくさん存在するからであり、真実の道理かどうかを判断するのは智慧の働きだから、信と智慧とは不可分のものである。「仏法の大海は、信をもって能入となし、智をもって能度となす。大智度論」

二、慚(ざん)。「自分自身と真理」に恥じてもろもろの罪を作らない心。煩悩のひとつ無慚を対治する。

三、愧(き)。「世間」に恥じて罪を作らない心。無愧を対治する。

慚と愧はともに「恥じる心」であるが、何に恥じるかに違いがある。「慚があれば必ず愧もあるが、愧があるからといって慚があるとは限らない。故に慚が最も大切である。瑜伽論」。「慚ある者は不退なり。退は羞恥すべきが故なり。大乗荘厳経論」。つまり世間に恥じるよりも自分と真理に恥じる方が大事なのである。

四、無貪(むとん)。むさぼらない心。自分と自分のものに執着せず、貪りの心を対治して善をなす心。

五、無瞋(むしん)。瞋(いか)ることのない心。心にかなわぬこと、我にそむく人ありとも、少しもいかることのない心。自分を苦しめることにも腹を立てず、瞋りを対治して善をなす心。

六、無痴(むち)。おろかでない心。万のことに明らかな心。道理をよくわきまえた、愚痴を対治して善をなす心。無貪、無瞋、無痴の三つを、貪瞋痴(とんじんち)の三毒を対治する善心ということで三善根(さんぜんこん)という。

七、勤(ごん)。精進する心。善を修することに純一で勇気ある心。勇敢に善を修し悪を断じ懈怠(けたい)を対治する心。仏教の歴史は不惜身命(ふしゃくしんみょう)の精進の歴史である。なお悪に対する努力は精進ではなく懈怠という。

八、軽安(きょうあん)。禅定に入ったときの身も心も軽くさわやかな心。煩悩をはなれ、心身が調和した状態。昏沈(こんちん)を対治して修行に集中する心。なお善の心所はすべてが一緒に働くとされるが、この軽安だけは禅定に入っているときにだけはたらく。

九、不放逸(ふほういつ)。放逸ならざる心。善悪をわきまえて精進する心。放逸を対治して悪を断じ善を修する心。不放逸は「精進と三善根」のこととされる。

十、行捨(ぎょうしゃ)。とらわれのない心。好き嫌いを捨てた安らかな心。精進と三善根を、平等・正直・無功用(むくゆう。力まないこと)の状態に保つ、落ちつきのない心を対治する静かな心。

十一、不害(ふがい)。他を害することのない心。他の悲しみの分かる心。すべての生き物に対して怒ったり悩ませたりすることのない、害の心を対治するあわれみの心。「慈悲とは無瞋と不害なり。無瞋は慈なり、不害は悲なり」

以上が善の心所である。あまり善の話らしからぬ内容だと思うかもしれないが、ここでは心の働きとしての善を説いているのであり、実践としての善は修道論や戒律の中で説かれる。

なお善には有漏善(うろぜん)と無漏善(むろぜん)がある。漏は煩悩のことであるから、有漏の善は見栄をはるとか、見返りを期待する、などの我執の心が根底に存在する善を意味する。そのため有漏善は「世間の善」、無漏善は「出世間の善」と呼ばれ、有漏善は未来に楽果をもたらすもの、無漏善は涅槃を得るのに役立つものとされる。白隠禅師曰く、「小善とても捨てず積め」。だから有漏善といえど捨てずに積むべきだと思うが、見栄はほどほどに。

善の項目を眺めていると、これらは修行する上での心構えのように思えてくる。またその順番も修行を進めていくときの順番になっているように思う。つまり「衆生本来仏なり」と信じることから出発し、現実の自分に対する慚愧の心を原動力とし、貪りの心、怒りの心、愚痴の心を対治し、無一物にむかって不退転の精進をつづけ、軽やかなとらわれのない心で慈悲を実践する、という順番である。

修行を始めたとき先輩から「心を何も無いほうへ何も無いほうへと持っていけ」と言われたことがある。ここで説かれる善がその方向に向かっているのは無漏の善を目ざしているからであろう。

参考文献
「凡夫が凡夫に呼びかける唯識」太田久紀 大法輪閣 昭和60年
「唯識三十頌要講」太田久紀 中山書房 平成12年
「成唯識論要講全4巻」太田久紀 中山書房 平成11年

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