煩悩の話

人生のさまざまな苦しみは煩悩によって生じる。だから煩悩の克服が苦からの解脱を目ざす仏道修行の目的である。それはもちろんやさしいことではなく、また煩悩がなくなったとしても、老いや病気や死を避けることはできず、肉体的な苦痛がなくなる訳でもないが、外的には何ら変わらなくても心が変わればすべてが変わる。

煩悩を克服するには、煩悩のことをよく知らなければならない。敵を知り己れを知れば百戦危うからず、正体を知れば煩悩を撃退しやすくなる。ここでは玄奘三蔵の成唯識論(じょうゆいしきろん)の説を中心にして、煩悩とは何かをご説明したい。成唯識論では煩悩を以下の三十四に分類している。

     
三毒と六根本煩悩

毒薬のように人を苦しめる三つの煩悩が三毒(さんどく)。これにあと三つ加えたのが六根本煩悩(ろくこんぽんぼんのう)。

一、貪(とん)。貪(むさぼ)りの心。よろずのものを貪る心。自分の好きなものに執着して苦を生ずる心。

二、瞋(しん)。瞋(いか)りの心。我に背くことあれば必ずいかる心。自分の嫌いなことに腹を立てて不安と悪行をまねく心。

三、痴(ち)。愚痴の心。よろずの物事のことわりに暗い心。邪心を体とする、四諦や因果律などの道理を弁えない自己中心的な我執の心。愚痴の心は無明(むみょう)とも呼ばれ、これが全ての煩悩の根元とされるから、無知と我執が迷いと苦しみの根元である。楞伽経(りょうがきょう)には「貪愛を名づけて母となし、無明を父となす」とある。

以上が貪瞋痴(とんじんち)の三毒であり、これに以下の三つを加えると六根本煩悩になる。

四、慢(まん)。高慢な心。我が身をたのみて人をあなどる心。おごり高ぶって苦を生ずる心。慢の中には自らを卑下することで他を見下す慢心、つまり「自分のいたらなさや罪深さを自覚しているだけ私は人よりも偉い」という卑下慢(ひげまん)もある。ただし倶舎論によると卑下慢は、自分が相手よりも格段に劣っているのに、少しだけ劣っているとする慢心とある。

五、疑(ぎ)。真理を疑う心。何事に対しても心が定まらず、とかく疑う心。悟りとか解脱などの真理の存在を、そんなものが有るものかと疑う心。

六、悪見(あっけん)。邪悪な見解。まちがったことをつよく思い込み、まことの道理を知らないことから苦を生ずる心。誤った人生観や世界観。

     
十根本煩悩

悪見の内容を五つに分類し、全部で十にしたものが十根本煩悩(じゅうこんぽんぼんのう)。

六、有身見(うしんけん)。我執の心。我が身と人の身、我が物と人の物、をきびしく分かつ心。自分と自分が所有するものに執着する心。

七、辺見(へんけん)。一辺に固執する心。世界は永遠に存在する、あるいは永遠に存在することはない。宇宙には果てがある、あるいは果てがない。肉体と霊魂は同じである、あるいは同じでない。如来は死後に存在する、あるいは存在しない。など断常の二見をふくむ両極端の誤った見解に執着する心。我が身はいつまでも生きている様に思い、死んだ後はすべて無くなってしまう様に思う心、とも説明される。

八、邪見(じゃけん)。因果を否定する心。罪ということも無し、功徳ということも無し、悪いことをしても良いことをしても報いは無い、という因果律を否定する心。自分の蒔いた種は自分で刈り取るというのが仏教の基本なので、邪見な人は決して仏教に入ることはできないという。

九、見取見(けんじゅけん)。自分の考えに固執する心。自分の意見とか教えに執着して争いの元となる心。「この事を説くということが私にはない」と釈尊が言っているように、仏教には自らの教えを否定する教えも存在する。教えは病気を治すための薬、病気が治れば薬はもういらない、教えに執着するのは薬の副作用であるからそれも捨てよというのである。

十、戒禁取見(かいこんじゅけん)。自分の行動に固執する心。異教の戒などに執着して苦行などでいたずらに身を苦しめる心。身に付いた習慣などに対する執着心。とにかくこれが私のやり方だという頑固な心。

     
小随煩悩

根本煩悩に付随しておきる煩悩が随(ずい)煩悩。その中で他の煩悩との共通点の小さい、はっきりとした性格と強烈なはたらきを持つ煩悩が小随煩悩(しょうずいぼんのう)。十種ある。

一、忿(ふん)。激しい怒りの心。人を殴りたくなるような怒りが爆発した状態の心。

二、恨(こん)。うらみの心。憎しみを抱いて捨てず、いつまでも恨みを結ぶ心。恨みを結ぶ人は、怒りをおさえることができず、心の中がいつも悩ましいとある。

三、覆(ふく)。罪をかくす心。名利を失うことを恐れて罪をおおい隠す心。罪をかくす人には必ずあとで後悔と悲しみがある。「空にありても、海にありても、山間の洞窟にありても、世に罪業よりのがるべき所なし。法句経」。「我がとが我が心に見られては許すことなし。至道無難禅師」。なお仏さまに罪を懺悔(さんげ)することを発露白仏(ほつろびゃくぶつ)という。

四、悩(のう)。いらだち悩む心。腹立ちや恨みから、ひがんだり悩んだりする心。一人で腹をたて、一人で悩むという状態。ものを言うにもその言葉はやかましく、けわしく、いやしく、あらく、心は腹黒く毒々しい、とある。

五、嫉(しつ)。嫉妬、ねたみの心。我が身の名利を求むるが故に、人の繁栄を見聞きして生じる、ねたましく安らかならぬ心。

六、慳(けん)。物おしみの心。財宝に執着して人に施す心がなく、いよいよ蓄えんとのみ思う心。

七、誑(おう)。たぶらかしの心。名利を求めて心得ちがいのはかりごとを廻らし、自分にすばらしい徳があるように偽る心。次のへつらいの心との違いは、相手の心を乱すところにある。

八、諂(てん)。へつらいの心。策をめぐらして人の心にとりいり、人目をくらましたり自分の過ちを隠したりする心。おべっか、諂曲(てんごく)の心。

九、害(がい)。他を害する心。思いやりやあわれみの全くない心。他の悲しみが分からず無慈悲に害する心。

十、驕(きょう)。おごり高ぶりの心。自分をすばらしい者と思い、ほしいままに誇り高ぶる驕慢な心。根本煩悩の慢もおごりであるが、慢は他と比較した上でのおごり、驕は他と比較せずにおごることとされ、驕には、健康に対するおごり、若さに対するおごり、長寿に対するおごり、生まれに対するおごり、体に対するおごり、富貴に対するおごり、私は何でも知っているというおごり、などがある。

上の十種の小随煩悩のうち、根本煩悩の貪りの心を根元とするものは、罪をかくす心、物おしみの心、たぶらかしの心、へつらいの心、おごり高ぶりの心、の五つ。いかりの心を根元とするものは、激しいいかりの心、うらみの心、いらだち悩む心、他を害する心、ねたみの心、の五つ。愚痴の心を根元とするものは、罪をかくす心、たぶらかしの心、へつらいの心、の三つ。

     
中随煩悩

悪い心の底に共通してはたらく煩悩が中随煩悩(ちゅうずいぼんのう)。二種ある。

一、無慚(むざん)。恥知らずな心。「自分と真理」に対して恥じることなく、善根をかるく見て罪をつくる心。

二、無愧(むき)。恥知らずな心。「世間」に対して恥じることなく罪をつくる心。

無慚と無愧はともに厚顔無恥の心であるが、自らの心に恥じるか、世間に恥じるかの違いがある。「慚恥の服はもろもろの荘厳において最も第一となす・・・。慚恥を離すれば則ちもろもろの功徳を失す。有愧の人は則ち善法あり。無愧の者はもろもろの禽獣に相違すること無けん。遺教経」。「慚愧のない者は名付けて人となさず。涅槃経」

     
大随煩悩

働く範囲の大きな煩悩が大随煩悩(だいずいぼんのう)。悪心だけでなく悪心とも善心ともいえない境界線上でも働いて聖道を妨げる煩悩。八種ある。

一、掉挙(じょうこ)。落ち着きのない心。高ぶって動きさわぐ心。

二、昏沈(こんちん)。沈みこんだ心。無気力で沈滞した心。境遇に負けて悲観的になったり無力感をいだいたりする心。

三、不信(ふしん)。不信心な心。有り難いこと、めでたいことを見聞しても、感動することのない汚れた心。どんなにすばらしい教えを聞いても、自分とは関係のない絵空事だとする心。自他ともに汚す。

四、懈怠(けたい)。怠惰な心。もろもろの善事に対して、横着で、ものうく、前進することのない心。

五、放逸(ほういつ)。善悪にだらしない心。罪を防いだり善を修したりすることなく、ほしいままに罪を作る心。「汝ら、放逸なることなかれ」は釈尊の臨終の言葉として有名。

六、失念(しつねん)。誓願を忘れる心。気分が散漫で教えをはっきりと記憶できず、真理への志を保持することができない心。

七、散乱(さんらん)。散乱する心。落ち着きがなく定まらない心。一番目の掉挙(じょうこ)は考えがまとまらないこと、散乱は対象への移り気。

八、不正知(ふしょうち)。真理を誤解する心。知らねばならない事をまちがって理解すること。

     
不定(ふじょう)

善悪が確定しておらず、時と場合によって悪にも善にもなる心。四種ある。

一、悪作(おさ)。後悔する心。よろずのことを悔やむ心。

二、睡眠(すいみん)。眠たい心。心をくらくし体を自在にさせない心。睡魔という言葉があるように眠いのも煩悩のうち。心の働きとしての煩悩を分析しているのだから、これは体の睡眠のことではない。

三、尋(じん)。推しはかる心。

四、伺(し)。推しはかる心。尋と伺はともにいろいろと推測する心。浅い推測が尋、深いのが伺。

だから後悔することも、眠いことも、物事をあれこれ推しはかることも、煩悩の中に含まれる。つまり場合によっては修行の邪魔になる。成唯識論では煩悩を以上の三十四に分類している。

     
百八煩悩(ひゃくはちぼんのう)

人間には百八つの煩悩があるといわれ、除夜の鐘を百八回つくのは百八煩悩を破るためともいう。ところが百八煩悩とは何かときかれると説明はなかなか難しい。

百八煩悩には三つの説があり、その中で分かりやすい説を一つあげると、六根(ろっこん。眼耳鼻舌身意。五感と意識を合わせた六つ)のそれぞれに苦・楽・捨(しゃ。苦でも楽でもない)の三つがあるとして、六の三倍で十八。また六根それぞれに好き・嫌い・平(好きでも嫌いでもない)があるとして十八。

この二つを合わせると三十六になり、それを過去・現在・未来の三世に当てはめて三倍すると百八という計算である。だから百八煩悩は煩悩を百八ならべ立てたものではない。

参考文献
「凡夫が凡夫に呼びかける唯識」 太田久紀 昭和六十年大法輪閣
「唯識三十頌要講」 太田久紀 平成十二年 中山書房仏書林

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