丹田呼吸の話

丹(たん)というのは道教の神仙薬、飲めば不老長寿の仙人になれるという薬のことである。丹の原料としては丹沙(たんしゃ。水銀の原石?)や金や銀がよく用いられ、薬による不老長寿法は外丹(がいたん)の法と呼ばれていた。ところがそうした薬を服用することで、仙人になるどころかかえって寿命を縮める人が多かったため外丹の法はすたれ、体内で気をめぐらせて丹を作る内丹(ないたん)の法がその主流になった。

内丹の法によって丹を作る場所を丹田(たんでん)といい、へそ下三寸(約十センチ)にあるとされる。丹田で丹をこしらえるには原料も道具も必要なく、丹田呼吸で丹田に力を加えていけば自ずとできてくる。日本の養生法の多くは丹田呼吸を基礎にしており、妙心寺の管長をされた山田無文老師も、若いとき医者に見はなされるほどの重症の結核におかされたが、丹田呼吸による養生法でしりぞけている。

呼吸を大別すると、胸をつかう胸呼吸、横隔膜をつかう腹式呼吸、横隔膜を押しさげながら腹筋を収縮させて下腹部に力をかける丹田呼吸、の三種に分けられる。また丹田呼吸は、吸うときと吐くときに分けて考えることができ、吸うときには下腹部に力がかかっても、吐くときにはかかないのではないかと思いたくなるが、実際には吐くときの方が強い力をかけられる。これは横隔膜と腹筋と胸縮筋群が協力して収縮するからであり、そのため息を吐きながらの丹田呼吸がいちばん効果がある。

丹田に圧力をかけることは簡単にできる。鼻からゆっくり息を吐きながら、下腹部に空気を押し込めるように力を加えていけばいいのであり、充分に吐けば吸う息は自然に入ってくる。吐き終わっても肺の中に二分ぐらいは空気が残っているが、それは無理に吐きつくさない。なお腹圧をかけるとき呼吸を止めてはいけない。呼吸を止めてりきむと胸に力がかかって心臓を圧迫することになり、血圧が上がって脳内出血につながる危険もある。

横隔膜は慣れてくると十センチ以上も押し下げることができるといわれ、押し下げた圧力が腹の底にまで達するので、丹田まで空気が入るわけではないが入ったように感じる。腹の底から笑うことが健康によいのは、息を吐きながらの丹田呼吸であることも理由の一つである。

それでは坐禅は丹田呼吸なのか、それとも腹式呼吸なのかというと、丹田呼吸だという人もあれば、腹式呼吸だという人もあれば、この二つを区別していない人もある。そこで試しに坐禅しながら下腹に触ってみたら、丹田に強い力がかかっているから、坐禅は丹田呼吸と考えていいようである。

私は坐禅をするときには、丹田に力を加える深呼吸を最初に何回かおこなっている。こうすると坐禅に入りやすくなるからであるが、その後は意識して腹に力を入れるとか、呼吸を調整するなどのことはしていない。それでも坐り慣れてくると丹田に自然に力が入るようになり、吐くときも吸うときも力が抜けなくなる。接心で一週間、坐り通せるのは丹田呼吸のお陰である。

私は毎日数時間、坐禅をしているが、内臓の調子がよくなり、体が軽くなり、寒い時でもポカポカとしてきて、頭もさえてくる。いい考えが浮かぶことも多く、そのため小さな手帳をたもとに入れている。問題を抱えているときなど、もつれた糸がほどけてきて最善の道が見つかることもある。

丹田呼吸の原理と効果は以下のようなことだという。

丹田呼吸をおこなうと、強い圧力によって内臓の静脈血が心臓の方に押しあげられ、そこへ新たな動脈血が流れこむ。この繰りかえしにより内臓の働きが活発になる。

横隔膜を下げると、胸の体積が増えて心臓が動きやすくなる。また心臓が血液を吸いあげるためにも胸部の圧力は低いほうがよい。つまり丹田呼吸には心臓の働きを補助する効果がある。

腹部には自律神経の叢(そう。かたまり)がいくつか存在する。丹田呼吸は横隔膜の下にある太陽神経叢(たいようしんけいそう)に刺激をあたえて自律神経の働きを活発にし、内臓の働きをととのえてくれる。自律神経の中枢は間脳(かんのう)にあるが、間脳は感情の動きに左右されやすい場所に位置しているため、自律神経の中枢部は恐怖や怒りといった感情の影響を受けやすい。ところが中枢部が感情の影響を受けても太陽神経叢がしっかり働いていれば、自律神経の働きを調えることができる。

つまり丹田呼吸は精神安定剤としての効果も持っているのであり、幽霊の出そうな所へ行くときでも、丹田呼吸をしていると不思議と恐怖心が出てこない。そのため昔の剣客は腹の鍛錬を重視した。恐怖心に取りつかれると、正しい判断ができなくなる上に、体も動かなくなってしまうからである。またやりたくない仕事をするときなど、丹田呼吸で腹をすえてから取りかかると、心の抵抗が減って着手しやすくなる。仕事は手をつけるまでが面倒なのである。

丹田呼吸は歩いていても、寝ていても、仕事をしても実行できる。忙しいからあわてるのではなく、あわてるから忙しくなるのだから、急ぐときほど腹をすえてゆっくりと呼吸したい。頭よりも腹が大事である。深呼吸を一つするだけでも心はかなり落ち着く。白隠禅師いわく「動中の工夫は静中にまさること百千万億倍す」

     
内観の法

白隠禅師の夜船閑話(やせんかんな)に、内観(ないかん)の法と軟酥(なんそ)の法という養生法がのっている。禅師は若い時あまりに根をつめて修行したため、ひどい禅病にかかり修行が続けられなくなったという。禅病というのは自律神経の失調症のことらしい。そして治療法をたずね回ったあげく、京都の北白川の山中に住む白幽(はくゆう)仙人に教えられた内観の法で治すことができた。

白幽仙人が住んでいた洞窟の跡は、白川通りから小さな流れを三十分ほど遡上した瓜生山(うりゅうさん)の中腹に、今も残っている。ただし洞窟というよりも岩に囲まれた小さな窪地というべきものであり、そこに屋根を掛けて住んでいたのだろうが、今は窪地の中に明治時代の画家、富岡鉄斎居士が立てた「白幽子岩居之蹟」という石碑が立っているだけである。鉄斎居士は禅の熱心な修行者だったので、二人の出会いに強く興味をそそられたようであり、「白隠訪白幽子」という出会いを描いた絵も残している。

窪地の横には「白幽子岩居之蹟。夜船閑話発祥之地」という解説板も立っていた。「ここは白川の隠士、松風窟白幽子が岩居した蹟である。白幽子は、名は慈俊、石川丈山の弟子となり、兄の克とともに丈山につかえ、丈山の死に水を取り、晩年ここに隠棲した。又ここは白幽子が内観の法を白隠に伝授した夜船閑話発祥の地である(後略)」とある。

内観の法は夜船閑話によると次のようなものである。

「長く両脚を伸ばして強く踏みそろえ、一身の元気をして臍輪気海(せいりんきかい。これは丹田より上のヘソのあたりにあるとされるが、ここでは丹田と同じと考えてよい)、丹田腰脚(たんでんようきゃく。丹田と腰と足)、足心(そくしん。土踏まず)の間に充たしめ、時々にこの観をなすべし。

一、我がこの気海丹田腰脚足心、総(そう)に是れ本来の面目(めんもく)、面目何の鼻孔(びくう)かある。

二、我がこの気海丹田、総にこれ本分の家郷(かきょう)、家郷何の消息かある。

三、我がこの気海丹田、総に是れ唯心(ゆいしん)の浄土、浄土何の荘厳かある。

四、我がこの気海丹田、総に是れ己身(こしん)の弥陀(みだ。阿弥陀如来)、弥陀何の法をか説く。

と打ちかえし打ちかえし常にかくの如く観想すべし。観想の功果つもらば、一身の元気いつしか腰脚足心の間に充足して、臍下瓠然(せいかこぜん。へそから下がヒョウタンのようになり)たること、いまだ篠打(しのう)ちせざる鞠(まり)のごとけん」

篠打ちせざる鞠というのは、使用状態にするまえの蹴鞠(けまり)の鞠のことで、非常に堅いものだという。つまり下腹が元気に満ちあふれて、ヒョウタンのように丸く堅くなるというのであり、このヒョウタンのような「ひさご腹」が、実は不老長寿の薬、丹の正体である。

「長く両脚を伸ばして」とあるから、ここでは仰向けに寝た姿勢を想定しているが、座っていても立っていてもできる。要は気を下半身に充たすことが大切であり、「この内観の法を真剣に実行しても、気の滞りや神経衰弱の諸症、底をはらって平癒せずんば老僧が頭を切りもち去れ」と白隠禅師は言っている。

ただし「もしこの秘要を修せんと欲せば、しばらく工夫を放下し話頭(わとう。公案)を拈放(ねんほう。止める)して、まずすべからく熟睡一覚すべし」とも書いているから、内観の法は坐禅を助けてくれるものであるが、あくまで養生法なのである。

私も内観の法のお世話になったことがある。坐禅修行を初めて間もないころ、坐禅をすると胃のあたりがこり固まって痛くなり、坐禅ができなくなったことがある。おそらく胃のあたりに力が入ることが原因で発症した神経性の胃炎だったと思う。そこで坐り初めに内観の法をおこなったのである。

息を吐きながら、気海丹田、腰、脚、足心、と心の中で唱えながら、順番に丹田に力を入れ、次は腰に力を移し(肛門を締める)、それから膝のあたりに力を入れ、最後は足の裏を丸めるようにして足心に力をいれるのであり、こうすると足先まで気が通って足で呼吸をしているような感じになり、胸のつかえを取ることができた。荘子(そうじ)に「真人の息は踵(かかと)を以てする」と書いてあるのはこのことかと思った。

     
軟酥の法

「虚弱の人によろし。心気の疲労を救うことはなはだ妙なり。上昇を引き下げ、腰脚を暖め、胃腸を調和し、眼を明らかにし、真智を増長し、一切の邪智を除く」というのが軟酥の法である。

これは観想法の一種であり、夜船閑話よりも遠羅天釜(おらてがま)に詳しく載っている。酥(そ)というのはヨーグルトのような乳製品のことで、転じてお酒も意味するが、ここでは想像上の霊薬のことである。まず背筋を伸ばして座り、目を閉じ、体を少しゆすって心身を落ち着かせる。そして「おおよそ生を保つの要(かなめ)、気を養うにしかず、気尽くる時は身死す。民衰うる時は国亡ぶるが如しと」、という言葉を心の中で三回くり返し、それから次の観想を行う。

「美しい色と清浄な香りに満ちた、鴨(かも)の卵の大きさの軟酥を頭頂(とうちょう)に安置する。すると体温で軟酥が溶けてゆっくりと流れ下る。頭からしだいに、眼、鼻、口、あご、を潤し、両肩から両腕、胸から肺、胃腸から肝臓、背骨から尾てい骨、と気持ちよく暖めながら流れくだる。全身の凝りや痛みも一緒に洗い流されていく。さらに両足をぽかぽかと暖め足心でとまる」

実際にはもっと細かく観想するのであるが、これを何回かくり返していると、体全体が快く調えられ、鼻にはよい香りがし、下半身は温泉につかっているように暖かくなってくる。この文を読んでいるだけでも、無駄な力が抜けて体がゆったりとしてくるのを感じないだろうか。流れ下るとき「歴々として声あり」と書いてあるが、慣れてくると本当に体の中で音がするという。

軟酥の原料と作り方も禅師は書いている。これを読んでいると、書いているときの禅師の楽しげな顔が目に浮かんでくる。「軟酥丸一錠、諸法実相一斤、我法二空各一両、寂滅現前三両、無欲二両、動静不二三両、へちまの皮一分五厘、放下着一斤、これらを七味忍辱(しちみにんにく)の汁に浸すこと一夜、陰干しにして粉末にする。般若波羅蜜を以て調練し、鴨の卵の大きさの如くならしめて、頂上に安着す」

便利ではあるが気ぜわしい世となり、眼や心気を酷使して心がうわずったり頭に血が上ったりすることが多くなった。コンピュータの仕事はその最たるものである。そういうときこそ肩の力をぬいて重心を落とし、上半身はすがすがしく、下半身は暖かく保つことが大切である。

     
チャクラ

中国の道教では丹田を三つとすることがある。眉間から三寸入ったところにある上丹田、心臓の下のあたりにある中丹田、へそ下二寸あるいは三寸にある下丹田、の三つである。

ヨガでは人体にチャクラという生命力のつぼが六つから八つあるとする。八つの場合は、会陰部に二つ、へそのあたりに一つ、そのすぐ上に一つ、心臓のあたりに一つ、のどに一つ、眉間に一つ、頭頂部に一つである。

そして一番下のチャクラには、クンダリーニと呼ばれるとぐろを巻いた蛇の形の生命力が収まっており、チャクラが浄化されて開かれるとクンダリーニが目覚めて上昇をはじめ、それが頭頂部のチャクラにまで到達すると、宇宙の根本原理と一つになり解脱を達成するという。

私はチャクラも上丹田や中丹田も自覚したことはないが、坐禅でも腹の底から頭のてっぺんまでスッと気を通さないとうまく坐れない。そのため坐相を重視するのであるが、その気の通る道にそってチャクラがあるらしい。ただし本で調べた限りでは、チャクラを実感できる人はほとんどいないということで、そのためかチャクラの数や位置は一定していない。それに対して丹田は初心の人でもはっきりと自覚でき、それを利用した呼吸法や養生法の効果も大きい。

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