静けさの中で暮らしたい
平成十二年の夏に東北地方を旅行し、日本三大鍾乳洞の一つとされる岩手県の龍泉洞(りゅうせんどう)と、その近くにある戦後に発見された安家洞(あっかどう)を見学した。奥行きでは日本一という安家洞に入るのは初めてだったので、この洞の見学はとくに楽しみにしていた。
ところがこの洞には大きな欠点があった。この洞は入口部分の天井が低く、そのためヘルメットを着用しなければならなかったのだが、それよりもさらに大きな欠点は、洞内に音楽が響きわたっていたことである。鍾乳石をバロック建築に見立てたらしく、バロック音楽を洞内に流していたのであり、音楽の聞こえない場所がどこにも無いのである。洞窟の良さは恐ろしくなるほどの静けさと、そこにひびいてくる水滴の音なのに、である。これにはまったく腹が立ち、帰りに受付の女性に文句を言ったら、「ときどき苦情を言う人があります。社長にお伝えします」と彼女も私に同感のようだった。
龍泉洞の方は音楽は流していないが大音量でくり返される解説が耳ざわりだった。これではせっかくの神秘の大地底湖が台なしである。団体さんが来たときには有効かもしれないが、せめて聞きたい人がボタンを押す方式にして欲しかった。たまたま立ち寄った宮古の浄土ヶ浜は、予想以上にすばらしい海岸だったのでゆっくり散策したかったが、売店が流す音楽があまりにすさまじくすぐに逃げ出した。
日本は騒音に満ちた、やかましの国である。そうした騒音の中でも親切心に満ちたお為ごかしの騒音はとくにやっかいである。バスに乗ると停留所に着くたびに「危険物の持ち込みはお止めください」とおそろしげな放送が流される。エスカレーターでは休みなく「よい子のみなさん」に注意を呼びかけている。
駅のホームでは電車が入ってくるたびに、神経を逆なでする警告音が流される。とくに大都市の駅の放送は、利用者虐待というべきやかましさである。あんなにうるさくては、周囲の音が聞こえずかえって危険だと思う。費用と手間ひまかけて、こうした悲惨な音環境を作り出している国は日本以外にはない。
列車に乗れば長々と到着時刻の放送がつづく。これなども分からなければ車掌が通った時きけばよいのである。あまりに親切に放送しすぎるためか、人にものをきけない人が増えており、海外留学した学生が意思表示ができずに問題を起こすことさえあるという。これは言葉ができないのが原因ではなく、分からなければきくという当たり前のことができずに問題を起こすというのである。
商売のための騒音も多い。せっかくの日曜日に、飛行機が低空飛行で宣伝文句を爆弾のようにばらまいていく。みかんや焼きいもを売る車が大声で走りまわる。最悪なのは立候補者の名前をわめき立てる選挙の車で、これは暴走族よりもたちが悪い。日本の将来を担おうという政治家が人の迷惑を全く考えていないのだから、さぞ立派な政治家になるだろうと言いたくなる。
買い物に行ってもほとんどの店で音楽を流している。それも客は中高年が多いのに、なぜか若者向けのにぎやかな音楽ばかりである。バック・グラウンド・ミュージックは作業能率を上げるというので広まったように記憶しているが、今やまったく野放しの化け物になってしまった。こうした劣悪な音環境の最大の被害者は、その中で仕事をしている店員さんや駅員さんであろう。たとえ本人が自覚していなくとも大きな負担になっているはずであり、しかも彼らは逃げることも文句を言うこともできないのである。
音楽は家でくつろいだとき好きな曲を楽しめばいいのである。万人が好む音楽など存在しないのであり、聞きたくもない音楽を流すのは、大きなお世話どころか、はなはだしい侮辱である。とりとめのない雑音のような音楽が人生を豊かにするだろうか。雑多で悪趣味な読書が、思考力と記憶力を弱めときには人格を卑しくするように、雑音のような音楽は精神に悪影響を及ぼすと思う。
先日テレビのニュースで、医療事故の原因として看護婦さんが働く部屋の雑音が指摘されていた。医療器械の出す音が過失を誘発することがあるから、薬の調合などの仕事は静かな部屋でするべきだというのである。これは当然のことで、うるさい場所は知的作業には向かないのである。
この問題は単にうるさいとか、やかましいという事だけではすまない。騒音に慣れすぎて静けさに耐えられないようなことになると、自分の心と対峙することも、集中してものを考えることもできなくなってしまう。人間には静謐な環境が必要なのであり、複雑化した現代社会だからこそ、静かな環境を守っていかなければならないのである。
人の心は環境に大きく左右される。環境から心を引き離すのは不可能である。というよりも環境は私たちの心の一部分である。だから貧しい音環境は、私たちの心の内容が貧しいことを意味している。
また雨や風の音と違って、人の出す音は耳ざわりなものである。カラスやカエルの声は聞き流せても、人の声や鼻をすする音は耳につく。おそらく作為を感じるからであろう。そのため坐禅の道場では、他の修行をさまたげないように、とくに接心中は音や声をいっさい出さないことになっている。
また曹洞宗の坐禅堂では、静けさを守るために合掌した手をこする合図がよく使われる。合掌した手を軽くこすると、さらさらと音が出る。その小さな音で五十人からの人に合図が行き渡るのである。不要な声や音を出すことは自らの徳を損ずることであり、坐禅修行の場でなくても、不要な音を出さないようにすることは、社会生活をする人間の当然の義務である。
もどる