宇宙の果ての話

宇宙の果ては一体どうなっているのだろう、と子供のころよく考えたものだった。果てがあるなら、果ての向こうはどうなっているのか。果てが無いならば、果てが無いとはどういうことなのか。果ての無いものが存在する筈がない。かといって果てが有るというのもおかしい。こんなことを考えていると、不安になって居たたまれなくなってくる。こんなことも分からずに、この宇宙に生きていていいのかと思えてくる。

時間に関しても同じである。宇宙に始まりが有るというなら、始まる前はどうなっていたのか。始まりが無いというなら、無限の過去から存在するというのはどういうことなのか。未来永劫に宇宙は存在するのだろうか。始まりや終わりが有るといってもおかしいし、無いといってもおかしい。こんな事を考えていると、頭の中がグルグルしてくる。

極小と極大に関しても同じである。極小の世界にどこまでも入っていくとどうなるのだろう。そこには無限の宇宙が存在するのではないか。反対に極大の眼で見れば、この宇宙は埃よりも小さくなってしまうのではないか。人間は極小と極大の中間に存在していると単純に思いこんでいるのはおかしいのではないか、などと考えていると、不可解だと叫んで華厳の滝に飛びこみたくなる。

     
十無記(じゅうむき)

こうした問題に頭を悩ませてきたのは私だけではない。特にインド人はこうした問題を考えることが好きだったようで、大昔から様々な答えを出してきたのだが、釈尊はこうした問題には一切答えなかったとされる。これらの問題は、仏教では十に分類されて十無記と呼ばれており、仏教は以下の十の問題には答えないことを基本の態度としてきた。無記とは判断を停止すること、答えを出さないことを意味している。

まず(一)世界は常住であるか、(二)世界は無常であるか、の問題である。ここでいう世界とは大宇宙とでも呼ぶべき世界のことである。仏教は諸行無常を説いているが、諸行は人間に認識できる世界のでき事を指しており、大宇宙に関することではない。つまり諸行は無常であるが、広大な宇宙にも始まりと終わりが有るのか、それとも始まりも終わりもなく永遠に存続するのかという問題である。

次は、(三)宇宙には限界があるのか、(四)限界がないのか、という宇宙の果てに関する問題である。

次は、(五)霊魂と肉体は同じであるのか、(六)霊魂と肉体は同じでないのか、という霊魂と肉体に関する問題である。

あとの四つは、(七)死後に精神は存続するのか、(八)死後に精神は存続しないのか、(九)死後に精神は存続し、また存続しないのか、(十)死後に精神は存続することもなく、存続しないこともないのか、という問題である。この四つは分かりにくいが、これらは四句分別(しくふんべつ)と呼ばれるインド人特有の存在に関する分類法であり、要するに死後に私たちの精神はどうなるのかということである。

     
毒矢のたとえ

十無記は「毒矢のたとえ」と呼ばれる話の中に出てくる。ある修行者が釈尊に十無記の問題を質問したが、何度たずねても釈尊はその質問には答えようとしなかった。そのためその修行者は、どうしても答えてくれないなら修行をやめようと決意して、また同じ質問をした。すると釈尊は質問に答えるかわりに以下の毒矢のたとえを説いた。

「例えば、ある人が毒矢で射られたとしよう。すると家族や友人が医者を迎えに行き、手当をしようとするだろう。しかし矢に当たった人が矢を抜くことを拒否したらどうなるだろう。

矢を射た者は、バラモンか王族か庶民か奴隷か、背は高いか低いか、肌の色は何色か。弓はどういう弓か、弦(つる)や矢の材料は何か。そういったことが分からぬうちは矢を抜き取ってはならぬ、と言ったらどうなるだろう。その人は手遅れになって死んでしまうだろう。

それと同じように、私はそうした質問に答えるつもりはないから、その問題に執着するなら、そなたは修行することなく死ぬことになるだろう。その質問のような偏見をいだいているかぎり、迷いや苦悩はなくならない。私はその苦悩を脱却する道を説いているのである。だから私によって説かれないことは説かれないままに受けいれよ。私によって説かれたことは説かれたままに受けいれよ。それらの問題を私が説かないのはなぜか。それはたとえ説いたとしても、それが道理と正義をもたらさず、修行の基礎にならず、益するところがないからである」

この毒矢のたとえを聞いた修行者は、歓喜して釈尊の教えを信受したという。

真理を探求することは大切であるが、いたずらに心を遠くへ放り投げてしまうと、自らを不安におとしいれることにもなる。即今目前を踏み外したとき人間の不安と苦しみが始まる。死に対する恐れも宇宙の果てを考えて不安になるのと同じで、「今ここ」からよそ見をして、自ら迷い自ら恐れているのである。

     
法華経の宇宙

経中の王といわれる法華経(ほけきょう)は、空間的にも時間的にも無限というべき世界を説いている。この経の舞台は想像もできないほど広大な宇宙であり、時間的にも気が遠くなるような過去から未来までが対象になっている。これだけ広大無辺な内容の本は他にはなく、法華経の舞台は大きすぎてほとんど十無記の枠からはみ出している。この経を繰りかえし読んで感じることは、この経の作者は経中に宇宙を収めたかった、ということである。宇宙は一巻の法華経であり、法華経は一つの宇宙なのである。

しかも法華経の主題のひとつは法華経自身であり、法華経の中に法華経がしばしば登場する。つまり法華経の中に広大な宇宙が収まっており、その宇宙の中にまた法華経が存在し、その法華経の中にまた宇宙がある、というように極小に向かっても極大に向かっても無限の「いれこ構造」になっている。だから空間的、時間的、そして極小から極大までの尺度的、の三つの面における無限の宇宙観を集大成したのが法華経なのだと思う。

そして法華経が説く無限の宇宙というのは、実は私たちの心である。始めなきの過去も、終わりなきの未来も、宇宙の果ても、極小あるいは極大の世界も、すべて即今の一念に収まっている。時間が「今」の連続であるように、空間は「ここ」の連続であり、すべては「今ここ」の一念に収まっている。時間があり空間があると思っているが、本当は分けられるものではない。存在するのは即今の一念の事実だけである。

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