霊性交流の話

第三回東西霊性交流(れいせいこうりゅう)に参加してヨーロッパの修道院に滞在したのは、昭和六十二年の八月から九月にかけてのことだった。この交流は四年に一度、カトリックが中心になっておこなっている宗教間の交流であるが、単なる対話ではなく相互に訪問して修道生活を共にすることを目的としているため、日本の仏教では修道生活の伝統をのこす禅宗三派だけがこの交流に加わっている。そしてこのときは日本側がカトリックの修道院を訪問する番に当たっていたので、「祈りと労働。沈黙と服従」を旨とする修道院生活を私もひと月ほど体験したのであった。

修道院の内部には、カトリックの信者といえど一般の人は入ることはできない。どんな生活をしているかと、中をのぞいてみたいと思う人は多いと思うが、修道院の建物は修道士と一般の人が接触できないようにうまく作られており、一般の人が入れるのは礼拝をおこなう聖堂までである。そこに全くの異教徒である日本の禅僧が入りこみ一緒に生活したのである。

私たち一行二十八人は、まずオランダのアムステルダムへ飛び、そこから数カ国の修道院に分散した。私が滞在したのはスペインのモンセラート修道院であり、それからローマで再び集合して、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世に会い、そして最後の行事としてイタリア北部の修道院で接心(せっしん。坐禅会)をおこなった。臨済、曹洞、黄檗の三派が交替で接心を指導し、もちろん修道士も参加した。禅宗三派による合同接心は私にとっても初めての経験だった。

     
モンセラート

私が滞在したモンセラート修道院は、地中海に面したスペイン第二の都市バルセロナから、車で一時間ほど内陸に入ったところにある。バルセロナは多くの芸術家が活躍したことで有名な町であり、バルセロナ・オリンピック開催の地でもある。修道院は標高千二百メートルのモンセラート山の中腹七百メートルのところに建っており、夏でも涼しく虫もほとんどおらず景色も良く環境にはきわめて恵まれている。

モンセラート山は無数の亀裂が縦横に走る、けわしい岩場と岩峰からなる巨大な岩の置物といった感じの名山であり、この山が日本にあったならまちがいなく修験道の霊山になっている。千年ほど前この山で修行していた人たちによって修道院の基礎が作られたというが、おそらく山の霊気が多くの人を集めたのだろう。今日でもカタルニア地方最大の聖地として年間百数十万人が訪れるとかで、私が到着した八月はまだ夏休み中ということもあってかなり騒がしかった。

モンセラートには、博物館、旅館、食堂、ケーブルカー、ロープウェイなどの観光施設が調っており、観光が修道院の経済基盤になっているのは確かである。そのため参拝者に対する教化活動が修道士の仕事の一つになっており、宿泊して宗教的生活を体験することなども行われているが、山上にあるため他の多くの修道院が行っている農業や牧畜などはしていない。

私が滞在したとき修道士の数は九十名であったが、多いときには二百名をこえたという。他に五十名の少年聖歌隊があり、十歳から十四歳ぐらいの少年が付属の全寮制の学校に住んでいる。最年長の修道士は九十三歳、少年聖歌隊で入ったまま八十三年間ここに住んでいるとかで、修道士であることにたいへんな誇りを持っていた。最近では修道士の高齢化が問題になっているというが、モンセラートはそれほど高齢化していないようである。仕事が少なく読書や研究の時間を多くとれることが、若い修道士の多い理由だと思う。

修道院の建物は、山腹に石を積んで作った棚のような土台の上に建っており、地震でもあったら大惨事になりかねない。ところが日本人には信じられないことだが地震はないという。地震で建物が壊れた記録はないのかときくと、そんな話はきいたことがないという。大聖堂の外壁の厚さは五メートルにも達するが、こうした石の文化はゆるぎない岩盤の上に築かれているのである。

モンセラートはスペイン最大の修道院であり、広大な建物と洗練された設備を持っている。私が泊まっていた部屋は食堂まで歩いて四分という所にあったので、食事の合図が五分前に鳴ると、すぐに部屋を出て早足で歩かないと間に合わなかったが、そのとき歩くのはすべて建物の中、しかもそれでも修道院の端から端まで歩くわけではないのである。また霊的読書の時間に修道士たちが本を片手に散歩する広い庭もあった。

修道院の図書館のすごさは話で聞いていたが、モンセラートも三十万冊の蔵書を誇る豪華な作りの図書館を備えている。蔵書には貴重な古書も多くふくまれており、雑誌や新聞も過去のものまで揃っているという。「本のない修道院は、武器を持たない軍隊のようなものだ」という言葉があるとかで、外へ出ることなく調べものができるようになっているのである。

     
修道院の生活

朝は五時三十五分に起床の合図、この合図は五分間隔で三回鳴らしてくれる。そして六時から最初の祈りがはじまり、午前と午後は労働の時間、日曜日には労働がない。夜は夕食後の八時四十五分から談話室で共同の集いがある。前半は雑談、途中から修院長を中心に一日の報告や人物紹介など。それから最後の祈りがあって、九時半ごろ就寝となる。

修道生活の中心となる祈りは一日に六回あるが、言葉がまったく分からないため正直なところ聖歌中心の晩課(ばんか)以外は退屈だった。しかも祈りのあいだ中、立ったり座ったりと忙しく居眠りなどしている暇はない。鼻をかんだりあくびをしたりと、必ずしも敬虔な修道士ばかりとはいえないようである。

六回の祈りのうち、朝課、昼のミサ、晩課、の三回は一般の参拝者とともに五百人以上収容できる大聖堂でおこなわれ、あとの三回は小さな礼拝所を使い修道士のみでおこなわれた。一日の祈りの総時間は三時間弱だが、規則的におこなわれる祈りは一日の生活を律していくのに有効である。

聖歌を中心に構成された晩課は、一日のうちでいちばん楽しい音楽会のような祈りである。指揮とパイプオルガンの演奏も修道士がおこない、途中から少年聖歌隊も加わって、参拝者と一緒に聖歌を合唱する。歌で全員の心が一つになっており、参拝者も信仰を新たにするだろうと思った。日本人でも名前を知っている超一流の作曲家の曲ばかりなので当然であるが、曲もすばらしく、音楽による教化が仏教とはけた違いに発達している。参拝者がキリスト教徒としての作法をわきまえていることにも感心した。

モンセラートは全員が個室である。個室が良くないとされるのは、ベネディクトの戒律が大部屋で寝ることを義務づけていることからも分かるが、現在はほとんどの修道院が個室になっているらしい。そのため皆で一緒に祈ることと、一人で神に対峙することは、ともに修道生活に必要なこと、というように規範も変化したらしい。私も修道生活に個室は良くないと思っていたが、今回の滞在でその考えが変わった。人間に孤独は必要なものだと思うようになったからであり、一生の生活の場となる修道院では人間関係の上からも個室は必要だと思う。欠点はもちろん放逸におちいり易いことである。

滞在中の午前中は、この修道院最古の礼拝堂で希望する修道士と共に坐禅をおこない、多いときには十数名の参加者があった。最後の夜の祈りのときには、仏教の祈りをして欲しいと言われて、般若心経を読んでキリストとブッダに回向した。大聖堂に響き渡るお経はモンセラート初のことだったろう。

     
食事

朝食は給仕なしの軽い食事、昼食と夕食は給仕と朗読(おそらく聖書)がつく正式の食事である。食事はおいしく栄養価も高く量も適度で、満腹すぎることも空腹で困ることもなかった。夕食は八時十五分から始まるが、九時半が就寝時間なのでかなり遅い夕食である。これが修道士の肥満の原因かも知れない。食事の作法は沈黙を守ることと、台車で運ばれてきた料理を取り回しにするぐらいのことなので、落ちついて食べることができたし、給仕にも負担がかからず、ある程度高齢の修道士も当番を務めていた。

昼食と夕食にはよく冷えた白ぶどう酒が出た。飲む者も飲まない者もいるが、限られた時間であるし酔うまで飲むことはない。ベネディクトの戒律も酒に関しては厳しいことを言っていない。毎日肉や魚を食べ、ぶどう酒が飲めるとあれば、申し分のない生活とも言えるが、すべての修道院がこんなに恵まれていた訳ではない。ぶどう酒どころか肉も魚も出ない修道院もあり、農業や牧畜をおこなっている所は仕事もきつかったという。

三度の食事のほかに、午後の労働のときお茶がでた。食堂に飲み物と軽食が用意されていて、飲みたい人は各自で飲みに行く。この四回を除くと飲み物も食べ物もまったく出ない。就寝前の談話室での集いもお茶なしである。茶礼(されい)を重視する禅仏教とのちがいを感じたが手間がかからなくていいと思った。

朝食と午後のお茶は自分で用意することになっており、修院長さんも自分で運んできて自分で片づけていた。誰か手伝うかと見ていたがそのようなことはなく、上下関係はまったく感じられなかった。ここでは全員が同じ物を同じ場所で食べ、同じ服を着てみんな一緒にお祈りをしているのである。

     
隠修士訪問

モンセラート山は全体が修道院の境内になっているらしく、山中にかなりの数の礼拝所や小屋が点在しており、そこで孤独な修道生活をする人もある。そういう人を隠修士(いんしゅうし)といい、私が滞在したときは一人しかいなかったが、多い時には十数人いたという。

その隠修士が住む小屋に案内してくれた。まずケーブルカーでモンセラート山へ登る。山上には食事のできる休憩所があり、遠くに地中海が見えた。そこからは歩きで、今は使われていない礼拝所などを見学しながら、隠修士の住む小屋をめざした。

小屋は岩が庇のようにせり出した自然の洞窟を利用して作られており、石の壁でかこって小屋に仕上げてある。小さいながらも頑丈で日当たりのよい魅力的な小屋で、私も住んでみたいと思ったほどである。水は天水を貯めており、食料は週に一度運ばれてくるという。

隠修士さんは在院四十二年、この小屋に来てから十年という六十二歳の神父であった。以前は聖書の研究をしていたが、今はもっと根源的なものを求めるべく禅やヨガに接近しているとかで、日本の禅宗のこともよく知っていた。瞑想が好きで隠修士になったという感じのその隠修士さんは、坐禅用の布団を用意して待っていた。到着してまず線香一本の坐禅、それから食事をしながら二時間ほど歓談し、最後にまたしばらく坐禅、それから近くにある別の小屋を訪ねた。

こちらの小屋は、岩の上のくぼみに屋根を架けた鳥の巣型の小屋であり、ここでは泊まりに来ていた修道士にお茶をごちそうになった。驚いたことにこれら二つの小屋には水洗トイレが設置されていた。帰りは崖に作られた急な階段をくだると、十分ほどで修道院の中庭に着いた。山にこもって修行する話はインドや中国や日本にも数多くある。宗教は違っても修行者には山ごもりを好む人が多いようである。

初めに訪問した方の小屋には、以前たいへん有名な神父が住んでいた。ところがその徳を慕って、年間一万人もの人が小屋に押しかけたため、孤独を旨とする隠修士の生活ができなくなり、彼はついにモンセラートを逃げ出したという。そして何と今は広島県の山の中にいるというので、帰国後たずねてみたら、古い農家を改造した小さな家に手伝いのシスターと住んでいた。まったくふつうの家なので見つけるのにずいぶん苦労した。

住み始めたとき近くの寺に挨拶まわりし、それからは一度も外出していないということで、たずねて来る人も少ないと思うし、日本語も英語もできず布教活動もしていないようであるが、私は彼らの存在が周囲に大きな影響を及ぼしていることを感じた。「徳のある人の香りは風に逆らっても薫る」という釈尊の言葉を思い出し、このような宗教生活もあるのかと納得した。

     
バチカン訪問

バチカンにローマ法王をたずねたとき、巨大建造物のサン・ピエトロ寺院を初めて見た。車を降りた時はそれほど大きいとは感じなかったが、近づくにつれてしだいにその大きさが分かってきた。大きいだけでなく背も高く天井まで五十メートルはある。大屋根の上にさらにドーム形の塔がそびえており、そこの展望台は百三十メートルの高さがあるという。

一般の人は入れないその展望台へ修道士さんが案内してくれた。大屋根までエレベーターでのぼり、塔の部分は階段を登る。階段は登るにつれて狭く低くなっていくため、前かがみで体を横にかたむけて登った。おそらくこの階段は下から見えているドームの天井部分の裏側に作られているのだろう。ドームが崩れたら真っ逆さまである。こんなものを信長や秀吉の時代に作り、それがそのまま残っているのだから驚きであり、展望台からの眺めはもちろん良かった。

聖堂まえの広場にみやげ物の押し売りがいた。「これはイタリアの金貨だ。みやげにひとつ買わないか」。買ってすぐに金貨ではないと気がついた。一人で海外旅行をしたときの記憶がふと蘇ってきたからであり、簡単にだまされたことが自分でもおかしかった。親切で人のいい修道士たちとつき合ってきたため、人がうそをつくとは思わなかったのである。

バチカン宗教省でアリンゼ枢機卿などと会談したとき、カトリック側が宗教間の対話における四つの方法を説明していた。

一、一緒に生活をする。

二、協力して社会奉仕をする。

三、互いに学びあう。

四、宗教体験を共にする。

霊性交流は第四の宗教体験を共にすることを目的としており、この四つの中でもっとも実りのある交流だと言っていた。

「対話の精神は友情であり奉仕である」

「理屈では理解できない互いの宗教の根本を、理解できないながらも尊敬しあい、一緒に歩いていくことは可能だと思う」

「我々を結びつけているのは『絶対』にたどり着こうとする努力である」

これらの発言は討論会におけるカトリック側のものである。この交流の土台となるのは真理を目ざして努力する互いの真摯な修道生活なのである。

     
四方サンガ

モンセラートで神戸の修道院から来たという日本人の修道女に出会い驚かされた。東南アジアの修道院から休暇で来ている修道士にも会った。帰国後の私を、東京で活動しているモンセラートの在家信者の組織の人がたずねてきたこともあった。さすがに信者数が十億、世界最大の組織といわれるカトリックだけに人の交流は豊かである。

しかしそうした交流は、個室と食事を提供する設備さえあれば仏教でも可能なことであり、また仏教にも過去にはそうした伝統があった。仏教教団のことをインドではサンガと呼んでおり、これを中国では僧伽(そうぎゃ)と書きあらわした。お坊さんのことを僧と呼ぶのはこの僧伽から来ている。そしてサンガには現前(げんぜん)サンガと四方(しほう)サンガがある。

現前サンガはサンガの支部組織のことで、四人以上の修行者が集まり、場所を特定するための結界(けっかい)を定めれば、現前サンガを組織できる。この現前サンガによって実際的な教団の活動がなされ、信者さんが布施した物のうち食べ物とか身の回りのものは、現前サンガに布施されたものとしてその内部で分配される。

四方サンガはサンガ全体を指す言葉であり、土地や建物といった不動産関係の布施は四方サンガに対する布施とされ、全サンガの共有財産になる。だから初めての土地を遊行したときでも、そこにサンガが成立していれば、その施設を利用することができた。食べ物は托鉢によって得るのが原則であるから、雨露をしのげればいいのである。世界中の仏教徒が四方サンガの理念を共有して交流をおこない、さらには他宗教との交流もおこなうようになればいいと思う。

     
霊性交流を終えて

「人と人との間に架ける橋はない」という言葉があるが、この交流に参加した人たちは、国と宗教の違いを越えて互いに理解しあい、小さな橋を架けることができたと思う。

私たちは丁重に温かく迎え入れられ快適な修道生活を送ることができた。振り返ってみると、彼らができる限りの気配りと計画を用意して受け入れてくれたことがよく分かる。また修道士たちの奢ることのない思いやりにあふれた態度には、感謝と敬愛の念を禁じ得ない。今でも彼らの眼差しやふるまいを懐かしく思い出すほどである。

修道院に滞在して暫くの間、修道士というのは何と親切な人たちだろうと思っていた。しかしあるとき気づいたのだが、彼らは単に親切なのではなく謙虚なのである。私は一人の修道士のあまりに謙虚な態度に唖然としたことがある。ベネディクトの戒律には、「神の御目に、他にまさってよみせられる理由があるとすれば、それは善業と謙遜において、他の人より勝れる所があるためである」と記されており、この他にも謙遜についてはかなりの紙数を割いている。謙遜の根本は神の前に立っての自己反省ということだろう。

イタリアのアッシジの修道院へ行ったとき、日本人の修道士がいて案内してくれた。そのとき彼は、人に踏まれる床に作られた墓を指さし、そこに墓が作ってある理由を説明していた。「一度人の心につけてしまった傷は、たとえすぐに謝っても完全には癒されることはない。この墓は人に踏まれることで、死後にも生前の罪を懺悔するために作られたものである」。そして彼自身その墓を踏んで通った。

衰えたとはいえヨーロッパでは宗教が、このようにして親切とか謙虚とか反省とか懺悔といった教えを明示して人々を導いている。日本の仏教はそうした生活の規範になる教えが弱いように思う。

次に物足りなく感じた点であるが、修道院に滞在してみて坐禅のありがたさをつくづくと感じた。坐禅には充実した緊張感と喜びがある。私は修道院の生活から、そうした緊張感や喜びを感じたことはなかった。修道院が坐禅の澄みきった緊張感を取り入れることができれば、彼らの修道生活は飛躍的に向上すると思う。もちろんそれは易しいことではないが。

この交流から得た結論のひとつは、日本の仏教にも修道院のような道場が欲しいということだった。禅宗が修道生活の伝統を残しているとはいっても、今の禅道場は専門学校のようになっており、道場で基本的な修行をしたあと、寺の住職として布教活動に専念するという流れになっている。もちろんそれは勝れた方法であり、そうした制度も必要であるが、それとは別に生涯にわたって修道生活を続けられる道場も必要だと思う。日本の仏教は今はすべて在家仏教になりつつあるが、出家という言葉本来の生活ができる道場があってもいいと思うのである。

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