心を一つにする

禅の道場では接心(せっしん)と呼ばれる修行を年に七〜八回おこなっている。これは早朝から深夜までひたすら坐禅に打ちこむ一週間の修行であり、その期間中は自由な時間がなく慣れないうちはかなり辛い。そのため接心が終わったらあれをしたいこれをしたいと、坐禅をしながらよそ見をする。そして接心がはやく終わればいいなどと思ったりすると、いたたまれなくなってくる。心を分裂させて自分で自分を苦しめているのである。

心が二つになる、という言葉がある。ある一つのことをしながら別のことを考えていると心が二つになる。つまり心の分裂状態をこういうのであり、車を運転しているときには事故を起こしかねない。同時に二つの仕事をするなということではなく、たくさん仕事があっても目前の一つに心を集中せよということである。

雲水修行をはじめたとき先輩から、「雲水に雑用はない」と言われたことがあった。ちょっと掃除をするのでも、心を一つにして行えばそこに生きた仏さまが現れてくるが、雑用だと思っていやいやしていると、仏さまもその時間も死んでしまう。はやく終わらせて休憩しようとか、はやく自分の好きなことをしたい、などとよそ見をせず、何ごとであれ心を一つにして打ちこんでいくことが修行の要なのである。「心ちらさにゃ、それこそ浄土、勢至観音脇立に」。これは白隠禅師の言葉である。

忙しく働いている時に心を調えるのは難しい。体が動けば心も動き、心が動けばまた体も動く。そして動き方にそれぞれのくせが出てくる。しかし難しいだけに動中の修行は効果が大きい。「動中の工夫は、靜中にまさること百千万億倍す」。これも白隠禅師の言葉である。

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