お地蔵さまの話  

私たちが住むこの世界を仏教では娑婆(しゃば)世界と呼んでおり、娑婆世界の教主はお釈迦さまであったが、すでに二千四百年ほど前に亡くなられた。次の教主は弥勒仏(みろくぶつ)と決まっているが、出現するのは五十六億七千万年後とされるから、今この世界は無仏の時代である。その無仏の時代に人々を救うのが地蔵菩薩とされる。

地蔵菩薩は刀利天(とうりてん)でお釈迦さまから次のように後を任された。「未だ三界を出でずして、火宅の中にある者を、汝に付属(ふしょく)す。この諸々の衆生をして、一日一夜たりとも、悪趣(あくしゅ。苦しみの世界)の中に堕せしむることなかれ」

こうして衆生済度を任された地蔵菩薩は、自分が成仏することも忘れて人々を救うために走り回っている。仏になる資格は充分にありながらも、決して仏の座に坐ることなく、いつも道ばたに立ち続けているのがお地蔵さまである。

むかし読んだ忍者漫画のなかに分身の術というのが出てきた。その分身の術をお地蔵さまは心得ていて、あらゆる時、あらゆる場所に、無数の身をあらわし、あらゆる人々を救って下さる。それを具体的な形にしたのが千体地蔵であり、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天、の六つの迷いの世界を一つずつ受け持っているのが六地蔵である。賽(さい)の河原で子供たちを救うお地蔵さまの話はとくによく知られている。

お地蔵さまの功徳は無量広大であり、たとえ指を鳴らすほどの短い時間であっても信心すれば救われるが、地蔵菩薩といえど救えない人がある。こんな話が伝わっている。昔、小野篁(おののたかむら)が重い病気にかかったとき、夢うつつの状態で地獄に迷いこんでしまい、そこで地獄に落ちた人々を救済してまわる地蔵菩薩に出会った。

そのとき彼はお地蔵さまから、「私は毎日もろもろの地獄に入って衆生済度をしているが、私の力でも救えない人たちがいる。それは縁なき衆生である。たとえ一度だけであっても私の姿を拝んだり、私の名を唱えれば必ず救われるのだから、そのことと地獄の恐ろしさを人々に告げて、私に帰依することを勧めてほしい」、と頼まれたという話である。つまり「縁なき衆生は度し難し」なのであり、地蔵菩薩の大悲の心に感激した小野篁は、末世の人々に地蔵菩薩に対する信心を広めるべく、桜の大木で六体の地蔵尊像を刻み、伏見六地蔵の地に安置したという。(六地蔵縁起。大善寺所蔵)

地蔵菩薩本願経によると、地蔵菩薩の像をつくり信心供養すれば、十の御利益(ごりやく)があるという。

一、地蔵菩薩を祀ると実り豊かな土地になる。地の蔵と書くように、お地蔵さまはもとは豊作をもたらす仏さまだったといわれる。

二、家が末永く安泰である。

三、すでに亡くなった先祖は天に生まれ変わる。

四、生きている人は長生きする。

五、願い事がかなう。

六、水害や火事などの災いがない。

七、健康に恵まれ、年をとっても達者に暮らせる。

八、悪い夢をみることがない。

九、常に守護神の加護を受ける。

十、仏道修行する上でよい因縁に恵まれる。

また次のようなことも書いてある。「寺を造る、経を読む、布施をする、といった功徳を、自分や自分の先祖のために回向すれば三つの生涯に楽を得る。しかしその功徳を、すべての人々、すべての生き物、世界すべてに回向するならば、百千の生涯に上妙の楽を受けることができる。だから一を捨てて万報を得るようにせよ」

先祖を供養するにしても、自分の先祖だけよかれということでは功徳は少ない。生きとし生けるものすべてに回向する心が大切だというのである。

「一つの仏壇に複数の家の位牌を置いてもいいのだろうか。そんなことをしたら仏壇の中で先祖どうしが喧嘩するのではないか」と質問されたことがある。最近は小子化ということで夫婦両方の先祖を一つの家で供養することがよくある。仏壇が二つある家もそれほど珍しくはない。そうした場合一つにまとめてもいいのかという質問である。

たしかに「よその家の位牌を仏壇に入れてはいけない」ということは聞いたことはあるが、それは根拠のない狭量な考えで、仏教はそうした分けへだてを一番嫌うのであり、本願経の教えからしても、ひとつの家の先祖だけ供養するよりも、有縁無縁一切の人々を供養する方が、万倍の功徳があるはずである。法華経に出てくる普回向文(ふえこうぶん)にもこうある。

「願わくはこの功徳をもってあまねく一切に及ぼし、我ら衆生みなともに仏道を成ぜんことを」

もどる