お葬式の話
アメリカのある葬儀屋さんの話である。父親が亡くなったとき、彼は腕によりをかけて長年の経験を生かした葬儀をとりおこない、自分でも満足できる葬儀にすることができた。すべてを自分で決定し、自分で実行することで、自らのつとめを果たし終えた充実感と安らぎを感じたのであった。
ところがそれとともに後悔の念もわき上がってきた。それまで彼は遺族の意見を聞くことなく、進行のほとんどを決定し代行してきたのであるが、そのことで遺族は単なる傍観者になってしまい、最後のつとめを果たすことができなかった、ということに気付いたからである。そのため彼はそれ以後、助言者の立場に徹するように心がけ、できるだけ家族や友人の希望を聞き、式の進行にも積極的に参加してもらうようにした。するとそうしたことを望んでいる人は予想以上に多く、そのやり方はたいへん好評であった。
あるとき彼は池で溺死した二歳の子供の葬儀をおこなった。若い両親は子供の死が信じられず放心状態になっており、とても話のできる状態ではなかった。そこで彼は両親に短い質問をした。「亡くなった坊やの服を、自分で着がえさせたいとお考えなら、おっしゃってください。今でなくてもいいのです。よく考えて決心したら連絡してください」
数時間後、子供の服を持ってやって来た両親としばらく話をし、心構えをしてもらってから着がえに取りかかった。そして着がえが終えるまでに二時間以上も費やしたが、涙と苦痛にみちたその間に両親は子供の死を受けいれ、次の段階に進むことができた。
以上はキューブラー・ロス博士の「続死ぬ瞬間」にあった話である。こうしたとき悲しんでいる人を煩わせないようにと、まわりの人がすべてをやってしまうことがある。ところがそれは親切なことかもしれないが、必ずしも良いことではないという。目をそむけて通過したとしても、経験しなければならないことは、いつか経験しなければならないのであり、また時間をかければ悲しみが小出しになる訳でもないからである。
禅宗の葬儀
仏教の葬儀は、分からないお経を読み、分からない儀式をおこなう退屈なもの、と一般には思われているようである。やり方を再検討するべき時期に来ているのかもしれないが、葬儀のとき何をしているのか、どんな意味があるのか、といった質問はこれまで一度もされたことがない。
葬儀の方法や目的は宗派によって違いはあるが、禅宗でおこなわれている葬儀は、出家のときにおこなう得度式(とくどしき)に似た内容になっている。つまり亡くなった人を出家させ、仏弟子としてお送りするのが禅宗の葬儀である。この世では仏縁に恵まれなかったけど、次の世では仏弟子となって修行を積み、悟りを開き成仏してほしい、と願ってこうした葬儀を行っているのであり、戒名を授けるのはそのためである。これを死後に出家させるということで没後作僧(もつごさそう)と呼んでいる。
平安時代あたりの歴史書や、今昔物語などを読んでいると、身分の高い人が亡くなるとき、死の直前に出家の儀式を執りおこなうといった記述が出てくる。これも同じ趣旨である。
葬儀は家族を亡くした人が越えなければならない峠である。大切な人の死を確認して受け容れていく場であり、また遺体を処理するための場でもあり、これが終わらないと新しい生活は始まらないのである。無宗教で行うとか、内輪でひっそりおこなう人はあっても、葬儀を全くおこなわない人がいないのは、葬儀が省略することのできない役割を持っているからである。
葬儀から学ぶことは多い。死ねば自分も死体になることを納得できるし、死後どのような事が行われるのかもよく分かる。人間存在の足元が見えてきて、一生の単位で人生を見渡せるようになる。だから子供もできるだけ参加させる方がいいと思う。
最後に蛇足をひと言。弔電の披露はできるだけ短い方がよいと思う。弔電で済ませた人の名前を長々と読み上げるのは、わざわざ参列してくれた人に対して失礼だと思う。また弔辞は多くても三人までとし、ひとり三分以内を原則としてほしい。葬儀に参列するのはお年寄りが多く、長時間の葬儀は大きな負担になるからである。
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