愛別離苦の話

愛するものとの別離の苦しみを意味する愛別離苦(あいべつりく)は、八苦の一つに数えられる苦しみであり、これには失恋などの生き別れの苦しみも含まれるだろうが、やはり死別の苦しみがその中心になると思う。とくに大切な人を若くしてなくしたときには、残された遺族の苦しみは耐えがたいものになる。

とはいえ今では、葬儀のほとんどが高齢者を送るものとなり、親が子を送る逆縁の葬儀も少なくなり、老少不定(ろうしょうふじょう)という言葉も耳にしなくなった。葬儀の場で遺族のなげき悲しむ姿をほとんど目にしなくなったのは、医学の進歩と恵まれた食生活のおかげである。

しかし突然の事故で大切な人を若くしてなくすことも時にはある。一九八五年八月十二日午後六時五十六分、日航一二三便のジャンボ機が群馬県上野村の御巣鷹(おすたか)の尾根に激突し、五百二十名が死亡するという大惨事が発生した。生存者はわずか四名であった。

精神科医で作家の野田正彰(まさあき)氏は、この事故の二年後から三年後にかけて、遺族を訪ねて聞きとり調査をおこない、「喪(も)の途上にて」という本を書いた。これを読むと愛別離苦がどのようなものであるかが痛いほどよく分かる。ここではその内容を抜粋してご紹介したい。

     
あれは人間とちがう

まず事故で四人娘のうちの三人を亡くした父親からの聞き取りである。これを読むと事故直後の状況がよく分かる。

「十三日の午後に着いて、一日おいた十五日、遺体確認のため、一家族につき遺族二名が体育館に入れることになった。弟と三人で入ったが、第一日目は手掛かりはなかった。

その日、体育館を出た途端、妻が叫び声を上げた。実際に遺体を目にするまで、妻は娘たちの死を信じていなかった。ズラーッと並んだ柩を一つ一つ見て回ったが、それは遺体と呼べるものではなかった。外へ出た途端に緊張が張り裂けたのだと思う。妻は大声で叫び、日航の職員におしぼりを投げつけて食ってかかった。

『あれは違う。うちの娘と違う。あれは人間と違う』

多くの女性が倒れ、失神した人々の介抱に看護婦が走り回っていた。

それから毎日、駆けつけた二人の弟も加わって探し歩いた。二日おいた十八日、見覚えのある衣類の切れ端をみつけた。しかし、歯形が違うとのことで渡してもらえない。かかりつけの歯医者と電話で話し合ってもらって、やっと三女の遺体が確認できたのは夜中だった。

長女の歯形は図面化されていなかった。歯医者の処置記録を図面化してもらって、検視の記録と照らし合わせた。それで、長女の柩を見つけることができた。男女二体が同じ柩に収められていた。

四女がずっと見付からなかった。九日の昼過ぎ、一旦ホテルに戻ったところへ、弟から『水玉模様の服がある』と連絡が入った。その遺体は十四日に既に収容されていた。姉が覆い被さっていたため、服に焼け残りがあり特徴がはっきりしている遺体ということで、別の場所に安置してあった。雨にもあわなかったし、腐敗もしていなかった。一目で弟はわかったらしい。三人とも最後まで火の手があがっていた所で、焼け方がひどく、頭部は失われていた。

検死官の説明に、妻はまた食ってかかった。『手も足もない。そんなはずはありませんよ。全部付いているはずですよ』。よほど、受け入れ難かったのであろう。

若い娘だからと弟が頼んで、三人ともきれいに洗って形を作ってもらった。弟たちが見ただけで、私たち親子三人は遺体を見ていない。戻っても、柩を開けないと一家で約束した。私が見れば妻も見る。心を鬼にしてみなかった。娘を亡くしたという悲しみだけで充分だろうと思った。

私はといえば、悲しいどころではなかった。早く見つけて連れて帰ろう、それだけで必死だった。涙ひとつ流さなかった。その場の作業で頭が一杯だった。

二十日に連れて帰って二十二日に葬式をすませた。最後のお別れの時、妻が、娘一人一人に振り袖を掛けてやった。

最近になって、やっと落ち着いてきたが、この三年間というもの、妻から片時も目が離せなかった。家事は勿論、食事もしないし、夜も眠らない。ずっと娘たちの帰りを待っている。朝、仏壇に灯明とご飯をお供えして、そのままじーと座って泣いている。晩になって下げようとすると、『食べてくれない』と言って、自分も夕食をとらない。

家のベランダに上がると、上空を通る飛行機がよく見える。私には分からないが、妻には日航のジャンボ機のエンジンの音が分かるらしい。他の会社のジェット機よりも音が高いという。娘たちが乗った時刻の少し前から酒を持ってベランダに上がり、最終便が見えなくなるまで、飛行機を見ながら飲んでいる。『あれ、鶴(日航の商標)や。あれに姉ちゃん(長女)乗って帰ってくる』

浴びるほど酒を飲んで眠るが、朝早く眼を醒ます。『わぁ、勿体ない。寝ている間に姉ちゃんが帰ってきたらかわいそう』とあわてて起きる。娘達が外出した時は、妻はいつも眠らずに帰りを待っていた。いつ帰ってくるか、そればかりを考えて」

野田正彰氏によると、遺族が夫婦の場合、一方が激しい感情表現をとれば、他方は心を凍結して実務的な態度で事態を処理する、といった組み合わせになることが多いという。また遺体を自分の眼で確認しなかったことが、母親が長期にわたって現実感をとり戻せなかった原因だろう、とも言っている。

     
悲しみの心の段階

次はその妻の話である。

「いま、思うと、この三年間、どうやって過ごしてきたのか。思い出そうとしても、思い出せない。藤岡の体育館に並んだ遺体を見て叫んだ後、一年半の記憶が全くない。とにかく、普通でいたくなかった。お酒で頭をぼやっとさせていたかった。はっきり、現実に戻りたくなかったと思う。飲めないお酒を飲んで、胃も痛いし、頭もガンガンした。

初めは、戒名にも腹が立った。『誰が、こんな名前に変えたの』って。仏壇に向かってお姉ちゃんの名前ばかり呼んでいた。

そんな時、主人に無理矢理、遺族会につれていかれた。そこで、たまたまあなた(野田正彰氏)の話を聞いて、『ああ、そうだったのか』と思えた。あなたが説明してくれた『悲しみの心の段階』は、私が辿ってきた、その通りだった。『ああ、私はこうだったのか。今はここにいるのか。次はこうなって、こういう辿り方をするのだな』と分かった。それで、すごく救われた気持ちだった。

最終荼毘の後、部分遺骨の一部(身元不明)を分けてもらえた。それが、たまたま頭蓋骨の部分だった。娘三人とも頭がない。『これで三人の頭がそろった』と、ほっとした。その晩、久しぶりに夢を見た。倉庫みたいな所に二段ベッドがある。そこで、三人の娘が楽しそうに遊んでいる夢」

野田正彰氏は言う。死は死者の問題であろうか、のこされた生者の問題であろうか。死は死者の問題である以上にのこされた者の問題である、と。

     
夫を取りもどす戦い

次は、夫を亡くした女性からの聞き取りである。

「八月十六日、遺体の身元確認のため遺族の代表一人が入れることになった。一人というのには遺族が反対し、結局二人が入れることになった。

翌十七日、息子と主人の弟が確認のため中に入った。私も入りたかったが、ひっくり返るのを心配して止められた。日頃から私は、死んだものが恐く、小さな虫の死骸にもさわれなかった。

二人の話では、後頭部だけの部分遺体ながら、主人と似たものが一つ見つかった。それ以外は何の手掛かりもない、という。それで、私も確認に入ってみることにした。

主人は昔、柔道をしていたため、首が太い。その部分遺体は、首の形も髪のはえ際も似ているけれど、白髪が混じっていた。主人は白髪が一本もない。それで、違うと思わざるを得なかった。

それからは、必死になって探し回った。『あんなに家が好きだった主人を、こんな所に置いておけない。早く返してあげたい』の一心で泣きながら見て回った。

たまたま開けた女性のお棺に、似ている右手があった。右腕の肘から下の部分。縮んで小さくなっているけど、主人の右腕に似ている。そのお棺の傍で番をしながら、指紋の照合を待った。以前交通違反でつかまった時の指紋が、家の近くの警察にあった。やはり、主人の右手だった。(中略)

まだ足が地に着いていない。心と体が別々に動いているよう。主人はフッと、また帰ってくるような気がする。遺体を探しながらも、ふと空を見ると、主人の顔がチラチラしている。主人が傍にいるようで、心の中で話しかけてくる。現実には冷静に行動しているんだけど、おかしな感じ。

一生懸命やっているのに、どこか他人事みたいで、現実のようでない。右手が出てきたときは、真から嬉しかった。本当は喜ぶことでないのに。バラバラになった遺体を一つでも多く見付けることで、主人を取り戻そうとしていた。

でも、一番大切な顔が見付かっていない。『見付からなくってご免なさい』とお参りしながら、何かはっきりとしない。主人の死を認めていないのかもしれない。いつか、もし本当に認めたら、その時、自分がどうなってしまうのか、恐い。(中略)

事故直後は、よく自分の泣き声で眼を覚ました。しばらくはそうだった。しかし、このところ夢を見ていない。

このあいだ、久しぶりに自分の泣き声で目が覚めた。新たに発見された部分遺骨を集めて荼毘に付した。いまでも雨が降るたびに、埋もれていた骨の一部がでてくる。百人ほどの遺族と参列して送ってきた後、泣き声で眼を覚ます夜が一週間ほど続いた。何の夢を見ていたのか、覚えていないが。

今でも、現地の遺体の状態がありありと頭に残っている。遺体番号を思い出すと、足がどうなって、これがこうなってと、遺体の有様が浮かんでくる。番号と遺体の姿が頭のなかで繋がっている。それを、どうやって消すことができるだろうか」

彼女は自らの体験をもとに幾つかの提言をしている。それは、遺体はできるだけ遺族に返す、いかに破壊がひどくとも遺体を遺族に見せる、遺族が納得するまでは日常の時間感覚で事態を処理しない、などのことである。悲惨な事故をさらに悲惨にするのも、立ち直らせるのも、人間なのである。

   
誰かひとりでも生き残ってくれたら

次は、妻と子ども二人を亡くした男性からの聞き取りである。彼は同じ年の三月に父、四月に母を亡くし、その葬儀のあと休養のつもりで一家そろってディズニーランドで遊び、一足さきに帰ったことで彼だけが生き残った。わずかの間に五人の家族を亡くし独りぼっちになってしまったのである。

「葬式、四十九日と過ぎても、家族がいなくなったことは少しも薄れない。だんだん大きくなるばかり。食べなければと思っても、食事がのどを通らない。夜も眠れない。仕事もする気になれず、店は閉めたまま。閉業というのではなく、品物もすべてそのままになっている。姉や妹のしてくれる世話も断って、一人で部屋に閉じこもっていた。いつ死のうか、そんなことばかり考えていた。

昼間は絶対、外へ出なかった。人の多い場所には行けなかった。デパートとか公園とかは、家族連れが眼にはいる。夜、こっそりとコンビニで買い物をすませた。

夜になると毎晩出歩いていた。車で海へ行く。大阪湾、南紀伊、琵琶湖、須磨、考え事をするのに夜の海はいい。妻と行った思い出の場所を、車で回る。初めて出合った滋賀の石山駅、妻が通っていた工場の前、近江八幡宮・・・。ほとんど一晩中、うろうろしていた。

あの時、本当なら一家全滅していたはずだ。死に遅れたと思う。それで、自分の体がどれくらい耐えられるか試してやろうという気もあって、医者や薬には頼らない。眠れなくとも酒や薬を飲もうとは思わない。胃が痛くって夜中に眼が醒めることもある。寝込んでも誰も助けてくれない。でも、何もしたくない。

家の中のものは何ひとつ動かしていない。人は一切家に入れていない。娘の残した猫と金魚の世話、仏壇のお水やり、どれも一人でやっている。

毎月、命日には墓参りを欠かさない。上野村の行事には全て参加している。行かないと悔いが残ると思う。天国の家族に何か悪いことがおきそうな気がする。上野村に行くたびに、タクシーの窓の外に、つい妻の姿を探してしまう。もしかしたら、妻はこの辺で今も生きているのではないか、と思う。

死ぬ方も辛いけど、生きている方も辛い。誰かひとりでも生き残ってくれていたら、違ったと思う。いつまでもひとりだと、やりきれない。しかし再婚する気はない。僕の人生はあの時点で終わったと思っている」

中高年の悲しみは深い絶望を内に秘めている。もはや家族を失った後に、人生のやり直しはあり得ないことを知っている。彼は家族と一緒に墜落して死ぬ夢をよく見るという。そして夢の中で何度も何度も家族と一緒に死んでいる。夢の中で一緒に死ぬという願いがかなえられれば、時間が逆転して、事故前のディズニーランドでの楽しい一日の想い出にもどるという。

遺族は日常の時間と、非日常の時間とを往復する。非日常の時間とは、死者とともに過ごす時間、あるいは死者と共にありたいと願う時間である。見るもの聞くもの全てが死者への追想を刺激する。何げなく通り過ぎるような出来事や風景を、事故後の遺族は多くの追想とともに乗り越えて行かねばならないのである。

     
死者とともに生きる

次は、次男夫婦とその子供二人の、次男一家全員をなくした七十六歳の父親の話である。

「妻は夜も寝ないで、死ぬ、死ぬとばかり言っていた。何十回、『息子のところへ一緒にいこう』と、切羽詰まって誘われたかわからん。心配なんてもんじゃなかった。いつ、妻が死ぬんでないか。少しうとうとして夜中に眼を醒ますと、妻がいないのではないか、と思って。わしは耳が不自由だが、妻がおかしくなってから、わしがしっかりしなくてはと頑張ってきた」

その妻の話である。

「四人も亡くして、悲しいな、と人はいうが、四人亡くしたから四倍悲しいのではないですよ。一人であっても、悲しみは筒一杯。一人でも、四人でも、悲しみは同じだと思います。ただ、思い出が四人分絶えずあるということだけで・・・。

一ヶ月して、高木社長が謝りにきたけど、なんぼ謝ってもらっても、戻ってくるわけではない。社長に言いましたよ。『四人だけ殺したと思ったら、大間違いよ!私らも死ぬかも分からんよ。生き抜く自信がないから』と。野蛮なようやけど、夜、横になっていて、社長の奥さんと子供を殺しに行こうか、と思いましたよ。そうしたら、私らの気持ちわかるだろう、と。(中略)

嫁の足はちぎれ、靴もねじれ、踵もとれて、時計も歪むくらいだから、生きていたとは思わんが・・・、それでも、照明弾でも何でもして、夜の内に救助したら助かった人がいたのと違うだろうか。

私らにはこれ以上考えられない。勝手なようだけど、ただ四人のことだけ。自分とこでお祭りして、それだけしかできません」

老いた親に許されるのは、「わしらが祭らなくって、誰がこの一家を守ってくれるだろう」と考えながら、ともかく生き続けて一日でも長く息子たち一家に語りかけることだけだという。そしてそれが自分たちの務めでもあるというのである。

     
豊穣の喪

死別の悲しみは年齢によって異なり、若い人は正常な喪の過程をたどれば再生の力が強い。つぎは結婚して一年十ヶ月で夫を亡くした女性からの聞き取りである。彼女は事故後に生まれてくる父親を知らない子供に読ませるため、事故や夫のことを日記に付けていた。その日記をたどりながらの聞き取りであった。

「ビルの体育館で、遺体と対面した。それまでは、やっと逢えると思うと、どこか気持ちがはやるところがあった。話ができないなら、彼に手紙を書こうと思って前夜に、二人で泊まったホテルの便箋一杯に、楽しかったふたりの想い出、ありがとうの言葉、『私がTちゃんを愛する以上に、Tちゃんは私を愛してくれました。いつまでも私はTちゃんと一緒だよ』こんな言葉を書き、ふたりでお互いにお守りにしていた私の分身も入れて、封をして持っていった。

彼はお棺の三分の一もなかった。鼻の部分だけ見せてもらった。Tちゃんだと分かったけれど、黒くなっていて、あの日の朝、出かけていった時とまるで違う。本当にそうなのか、と不安と不信が混じりあった。

彼が好きだったタバコ、バレーボール、練習衣、前夜に書いたお別れの手紙、ティーバッグとお砂糖、そして花束を入れた。

斎場に向かう車中はずっと棺を抱いていた。降りるとき、棺に最後のキスをしたが、木の堅い感じしか返ってこない。火葬の時も、あの中に入ってしまったら本当にお別れ、『行かないで』と叫びたい気持ちだった。

遺骨は少ししかなかった。虚しく熱い骨を抱いて、『こんなに小さくなっちゃった。でも大丈夫。ちゃんと抱いてあげるからね。どこにも行かないからね』と語りかけていた」

帰宅後のことを次のように日記に書いている。

「Tちゃん、やっと返ってきたヨ。やっとふたりの家に帰ってきたよ。永い間、ひとりにさせて御免ネ。いつもの部屋だヨ。

でも、何も言ってくれません。ただ、写真のTちゃんが笑っているだけ。

あの日以来、やっとTちゃんの横に寝ました。でも、手をつないで寝ることはできませんでした」

社葬の日の日記。

「嫁入りに持ってきた喪服を着た。初めて喪服を着るのが夫のためだなんて、何のためにこんなもの持ってきたのか。

正面にデンと戒名があって、横に俗名TOと書いた札が立ててある。それが、ひどく腹立たしかった。私の中では、ちゃんと生きているのに、なんで戒名で呼ばれなければいけないのか。

弔辞、みんな彼のことを思い出させることばかり言っていた。『よかったね。Tちゃんの今までのこと、皆分かってくれたんだよ。人のために何かしてきたんだね』と話しかけた。

でも、人に惜しまれても、もう戻ってこない。遺体が確認されるまでも、何度も死にたいと思った。私の人生もここで終わった。一緒に楽しんでくれる人がいないなら、生きていても仕方がない。とにかく彼の所に行きたい。

でも、そんなことできないんだね。ひとりになったって、生きていかなくちゃ。子供とふたりで頑張らなくちゃ。Tちゃん、いつも見ていてよ。そして、『ガンバレー』って声をかけてよ。(中略)

短すぎる。知り合って三年、結婚して一年十ヶ月なんて、あまりに短すぎる。これからの方が、ずっと長いのに、どうして、ひとりで先に行っちゃうの。どうして、私だけひとりにするの。ずるいよ。死ぬ時は一緒に死にたいと言ってたのに。

この子、いらないから、引き替えてもいいから、かわりに帰ってきてほしい、と思った。

私ね、子供生んで、育てて、子供が三十歳、つまりTちゃんと私と同じ歳になった時、その時にTちゃんのところに行きたい。だから後三十年、今まで私が生きてきたと同じ年月だけ頑張るネ。それまで待っててネ。でも、いつも一緒だヨ」

合同慰霊祭の夜、夢を見た。

「彼に会えたので抱きついた。しっかりと抱きしめてもらった。頬をさわったり、手をつないだり、くっついてばかりいた。彼は温かかった。

そうしたら、彼が『分かってるやろ』って言う。はっきりとした声で。時間になれば帰ってしまう、そういう立場にいるということ、つまり気持ちの区切りを持っておかなくってはいけないと言っているみたい。

でも会えたんだからいいんだ、と私は思う。白いバラが雨のように降ってきて夢から醒めそうになった時、涙が出て止まらなかった」

事故から五ヶ月後に、彼女は出産した。

「男の子が産まれたのは嬉しかった。彼の生まれ替わりだと思った。

看護婦さんに、出身地や、主人のこと、色々聞かれる。ワーッと泣き出してしまう。若い看護婦さんが、枕元の彼の写真を見て、『ワー、こんな所まで写真を持ってきて、アツアツね』とひやかした。後で事情を知って、謝りにきた。医師と婦長と担当の看護婦さんしか、事情を知らない。

夕方の、父親たちが面会にくる時間が一番辛かった。退院してからも、一ヶ月検診とか、母親学級とかある。その度に、自分だけ喜んでくれる人がいない、特別だと感じる。でも、『何も悪いことをしたわけではない。私ひとりだけど、頑張るもん』と、自分に言いきかせてきた。

育児に追われ、時がたち、子供が意思表示をし始めたときに気が付いた。この子は私の持ち物ではない。『お父さんのいない、かわいそうな子』と私が思っても、子供には関係ない。『僕は僕で生きていくよ』と主張しているようだ。いつか子供に父親のことを聞かれた時に、どう答えていいのか、困っている」

野田正彰氏はこの章に「豊穣の喪」と題をつけ、次のような感想を書いている。

「死はいつも、遺された者にとって裏切りに思える。悲しみの中には、死者への非難も含まれている。

これは彼女が、愛するただひとりの人に語りかけたものである。誰もそれを聞くことは許されていない。ただ、彼女は自分の体験の過程を、これから体験する人のために、夫の死に意味を取り戻すために、話してくれた。私はそれを少し整理して、伝えているだけだ。(中略)

悲哀にも、美しい悲哀と、病的な悲哀がある。人はいつでも自分の喪の体験を病的な悲哀に変えてしまう危険な橋を渡りながら、なおそれを美しい悲哀に完成させる作業をしている。私は彼女の喪の作業を美しいと思う。

彼女は日記や夢の中で、あるいは絶えず心の中で、夫と対話し交流している。温かい追想は死者の好むものであり、遺族にとっても大きな癒しとなる。

喪の作業は夢の中でも進められていく。夢の中で彼女はいつも静かに泣いている。夢の中の涙は、夢を見る人の涙であり、また死者の涙である。共に泣くことによって、夢は覚醒時以上に喪の作業をしている。夢で泣くことの癒しの力は大きい。このような夢を重ねながら、徐々に夫と別れていくのである」

     
遺体確認へのこだわり

次は、夫の遺体を直接確認しなかった女性の言葉である。

「もっと真剣に遺体を確認すべきだった。どんなむごい遺体でも、一寸角でもいいから、主人の肌にじかに触れてあげるべきだった。周囲に遠慮したり、良い方に解釈したり、皆が見させまいとするのに言いなりになってしまった。

なぜ『確認しなさい』と勇気づけてくれなかったのか。たとえ貧血をおこし、失神してでも、そうすべきだった。この悔いを、私は一生背負っていかねばならない。

今も、箪笥を開け、主人の和服を手にして、『主人には何も着せてあげられなかった』と後悔する」

次も、夫を亡くした女性である。

「葬式の後の空虚さは、いま思い出しても、あの空虚さに耐えられたら、他に何も怖いものはないと思うくらい。暮れかかる夕闇が怖かった。勤め帰りの人で町は一杯になる。ふと、その中に混じって主人がいるのではないかと思ってしまう。だから買い物に出るのが嫌だった。

主人の夢を見たのは、百ヶ日を過ぎてから。三、四回みた。何も喋らないでニコニコして傍らにいる。目が覚めて、ああ夢だったのか、やはり主人はいないんだと言いきかす。

一年くらいして、落ち着いてから,自分の眼で夫の遺体を確かめなかったことが、わだかまりとなっていった。

主人は『消えた』だけで、『死んだ』と思えない。どんなにつらくとも自分も子供たちも現実を見ておくべきだった。弟はきれいだったと言ってくれたが、私を慰めるための嘘だったのではないか。苦しみぬいて死んだのではないか、頭にいろいろなことが浮かんでくる」

次も、夫を亡くした女性である。

「十五日の昼に、遺体確認の呼び出しがあった。激突地点で発見され、バラバラだったと聞かされた。頭部と胸部以外はなく、歯形で確認されたという。包帯でぐるぐる巻きにされていたようだが、義弟や夫の会社の人に、『見ない方がよい』と押し出されてしまった。その時は私への心遣いだと思ったし、振り払う気力もなかった。(中略)

事故から一年間は、夢のように過ぎてしまった。事務的なことや法事がつらなって、追われるようにこなしてきた。一周忌が終わってから、色々なことを考えるようになった。

特に、部分遺体の確認を早くあきらめたこと。何度も現地に行って、遺体を探し続けていた遺族がいるのに、残念だ。

あの時は、早く確認できて連れて帰れてよかったとしか思わなかったけれど、連れて帰れたのはほんの一部分だけで、遺体のほとんどは見つかっていない。確認も他人まかせで、私は見ていない。あれから、私がひとつひとつ探していたら、爪の形や何かで分かったことも多かったのに。他の遺族と比較して、『私は不十分だ。なぜもっと頑張らなかったのか。私は情が薄かった』という思いが強くなった。

この頃、よく夢を見た。『見届ければよかった。もっと確認すればよかった』というような夢。主人の姿がすーっと現れて、目が覚めると涙が流れていたり。一度だけ、夢の中で主人の声を聞いた。大声で何か叫んでいる。何を言っているのだろうと思って、目が醒めた。駅の雑踏や街角のような所に、ふっと主人が現れて、『あれ、生きているのかな』と思った途端、目が醒めてしまう。

『やはり主人はいないんだ』と、振り返るようになったのは、三回忌をすぎてから。三回忌にやっとお墓ができた。仕事が趣味という人ではなかったのに、何の楽しみもなく、働いて働いて急に死んでしまった。かわいそう。少しは好きなことをして、のんびりさせてあげたかった」

野田正彰氏は、「遺体未確認への執拗な自己非難は、夫を亡くした妻に特有のものと思える」と書いている。女性であるが故に壊れた遺体との対面をとめられたのだが、逆に妻なればこそ夫の遺体を見つめ、最後に触れる者でなければならなかった、と後悔するのである。充分な看護をした上での死別は、遺族の自責感は少ない。それに対して突然の死別は、私はあの人に何をしてあげただろうか、と自分を責めることにつながりやすいという。

     
死者を死なせる

検死にあたった医師の多くは、「もし自分の家族であれば、見るに耐えないものであった。あのような無惨な遺体は遺族に見せるべきでない」と述べている。また遺体確認にあたった警察も、数少ない五体の整った遺体をのぞいては積極的に見せようとはせず、妻や母親に対してはむしろ見せないようにし、また彼女たちが対面をあきらめるように親族に指導してきた。

しかし実際には、逆に家族であればこそ、遺体と対面しその死を確認しなければならなかったのである。たとえ他人には見るに耐えない体の破片であっても、それは限りなく大切な人の肉体の一部なのであり、また遺体確認は死別を受けいれて現実感を取り戻すためにも必要なことであった。

遺体を確認していないと、亡くなった人を死者にすることができない。死者を死なせることができなければ、死の否定や現実感の喪失が永続することになる。そのことは遺体の多くを取り戻した家族が、亡くなった人はお墓、あるいは仏壇にいると思えるのに対して、わずかの遺体しか見つからない遺族の場合、死者は御巣鷹に眠るという思いが強いということにも表れている。

     
喪の作業

事故でかけがえのない人を失った遺族の心理を整理すると、次の五段階に要約できるという。

第一段階は「衝撃状態」。事故を知ったあとの混乱状態である。このとき取り乱さずに異常な平静さを装う人も少なくないが、内面は衝撃状態にあると考えて十二分な配慮が必要な段階であり、事務的なことは周囲が代行し、色々な決定を求めてはならない。事故後の遺族の度を過ぎた気丈夫や勤勉には、自己破壊の衝動が隠されている。自分を痛めつけることによって、死者とその苦しみを共有しようとしたり、自分を置いて死んでいった死者の注意を呼び起こそうとしているのである。

第二段階は「否認」。死という事実を客観的には知りながら、主観的には否定する状態である。周囲の者は無理な励ましや嘘の期待を言ったりせず、相づちを打ちながら話を聞いてあげるのがよい。

第三段階は「怒り」。加害者や理不尽な運命に対する怒りが湧き上がってくる段階である。この段階の遺族に対しては、周囲の者はあえて怒られ役になって、怒りを外に導き出すようにするべきである。怒りが表出されないと自己破壊に向かいやすいからである。

第四段階は「長い回想と抑うつ状態」。感情も意欲も湧いてこない状態が続く段階であり、これも必要な喪の作業である。死にゆく時間が短かすぎたために、死後に死の過程をたどらなければならないのであり、死にゆく時間を死者と共有できなかったかわりに、自らの感情や意欲を凍結させることでその過程を共有しているのである。こうした抑うつ状態に対しては、周囲の励ましは無用である。じっと見守るという心構えでもって、多くの時間をひとりにしておくか、黙って横に居てあげるのがよい。補償交渉などはこの第四期を過ぎてからすべきだという。

そして第五段階は「死別の受容」。ただしこうしたことは手引き書にして画一的に対応すべきことではないという。

過酷な喪失体験を克服するには時間が必要であり、その時間のことを野田正彰氏は日薬(ひぐすり)と呼んでいる。愛別離苦に特効薬はなく、日薬で治療するしかないのである。そして悲しみの長さは喪の作業の成否にかかっているが、喪の作業の大きな障害になるのが、悲しみの激しい苦痛を避けようとすることと、悲しみの感情の表出を避けようとすることの二つであり、この障害のために悲しみが病的悲哀になって精神障害が発生することもある。

私たちは毎日の生活の中で、些細なものの喪失から、家族の死、さらには自分自身の病気や死といったことにいたるまで、たえず喪失の体験に遭遇している。だから喪失体験を克服するための時間学は、誰もが知っていなければならない精神衛生上の基本知識である。

野田氏は言う。「忘れてならないことは、悲哀も人生において無くてはならない感情であるということだ。私は悲哀を軽減するために、この文章を書いているのではない。悲しみを充分に、しかも病的にならないように体験し、起こってしまった悲劇の向こうに再び次の人生を見つけださんがためである。(中略)

人はそれぞれに充分な悲しみを背負うことが許されている。悲しみとは愛の別のことばに他ならない。愛がないところに悲しみはない。遺族は日常の仕事に多くの時間を奪われる。それらが悲しみを紛らわすのは確かであるが、貧しい悲しみの紛らわし方にすぎない。悲哀は、日常の流れを断ち切って、すべての時間をしばし止めてこそ深く体験される。悲しみによって人は成長し、他人の悲しみを理解できるようになる」

参考文献「喪の途上にて」野田正彰 1992年 岩波書店

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