合掌と数珠の話
仏さまを拝んだり先祖を供養するとき、いちばん基本になる作法が合掌である。合掌した手の右手は仏、左手は衆生を表すとされ、この二つを合わせることで仏と衆生が一つになった成仏の印ができる。そのため合掌は普供養(ふくよう)の印とか、供養中の大供養といわれる。
両手を合わせて一つにするのは、余念をまじえず心を一つにすることであり、背筋を伸ばし、あごを引き、しっかりと合せた手を、鼻の高さに持ってくると、ぴたっと決まる一点がある。そこが仏と衆生が出会う場所である。だから十指はすき間ができないようにまっすぐ伸ばし、手の平もすき間ができないようにしっかりと合わせる。
脇の下に空間を作って、ひじを少し持ち上げるようにすると手の平がぴたっと合うが、いいかげんに手を合わせるとすき間ができ、すき間ができるのは慢心のある証拠といわれる。両手をぴったり合わせるには少しの努力が必要であり、その努力を惜しむ心を慢心というのである。
合掌には十二通りのやり方があるとされ、それぞれ名前も付いていて、その中には虚心(こしん)合掌という手の平の間に空間をつくる合掌もあるが、ここで説明したのは最も一般的な堅実心(けんじつしん)合掌である。なお合掌しておじぎをすると手も一緒に下がるが、そのとき指先が下を向かないように気をつけてほしい。また合掌した手を口や鼻につけると、アクビをこらえているように見えて見苦しく、合掌した手は数珠を鳴らすとき以外はこすらない。
合掌はインドで古くから行われてきた礼法であり、インドや南方の仏教国では今でも日常的に合掌が挨拶に用いられている。
「みぎ仏ひだり衆生と合わす手の、中にゆかしき南無の一声」
数珠(じゅず)
数珠という言葉は数を記す珠(たま)を意味しており、日数を調べるために使われた紐でつながれた玉が数珠の起源とされ、読経や念仏の回数を数えることに使うようになってから一般に広まったという。ロザリオと呼ばれるキリスト教の数珠も、当初は祈りの回数を確認するために用いられたということで、ロザリオは仏教の数珠に由来するという。早朝にとろんとした頭でお経を読んでいると、読経の回数が分からなくなることがあるが、事情はキリスト教でも同じらしい。
数珠の玉数は百八を基本とし、その二分の一、三分の一、四分の一、六分の一、その他、となっており、百八がいちばん功徳が大きいとされる。なお玉数が一〇八〇の数珠もあるという。
仏説木ケン子経(ぶっせつ・もくけんしきょう。ケンは木の右に患)という数珠の起源を記したお経があって、それには数珠の作り方、使い方、功徳が次のように説かれている。「まず木ケン子を一百八顆(か)つらねて、行住坐臥つねに念持し、至心に仏法僧の三宝の御名をとなえては一過し、これを十遍し、二十遍し、百ないし百千万遍したならば、現世には煩悩障、報障を消滅し、当来には天上の楽果を得。更に念誦して怠らなかったならば、百八の煩悩を断除し、無上の果徳を証することができる」
「木ケン子」というのはモクゲンジという植物の実を意味しているらしく、植物図鑑によるとモクゲンジは「本州の日本海側、朝鮮、中国に分布する落葉高木。種子は黒色で固く数珠玉にする。寺院によく植えられる」とある。ところがモクゲンジの数珠は見たことがなく、ネットで探してもこの数珠を売っている珠数屋は見つからなかったが、さらに検索すると、モクゲンジの種子は小さくて数珠には向かないという記述が見つかった。
数珠は左手の人差し指と親指のあいだに掛け、母珠(ぼしゅ。親玉)を上にして外側に出す。長い数珠は二重にし、合掌するときは右手を数珠に入れず両手で数珠をはさむようにする。ただし合掌と数珠の作法は宗派によって違いがある。
数珠は「百八の煩悩を断じ、無上の果徳を証する」という功徳に満ちたものなので、畳の上にじかに置いたり、埃まみれで放置したりせず大切に扱ってほしい。
「手を合わせ仏を祈り祖に誓い、ふみしめて行け法の細道」
参考文献 「合掌と念珠の話」伊藤古鑑 昭和55年 大法輪閣
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