お彼岸の話

「今日彼岸、ぼだいの種を蒔く日かな」芭蕉

菩提の種まきをするための仏教週間というべき彼岸は、年に二回あって、春分の日と秋分の日を中心とする一週間ずつとなっている。彼岸という言葉は川の向こう岸を意味しており、川のこちら側は此岸(しがん)という。そして彼岸は悟りと安らぎの仏さまの世界、此岸は迷いと苦しみに満ちた衆生の世界、をあらわしており、此岸から彼岸へ渡るのが仏道修行の目的であるから、春秋の仏教週間を彼岸と呼ぶのは適切な命名だと思う。

彼岸の行事は日本仏教に特有のもので、仏教のふる里のインドでも、日本が仏教を輸入した中国でも、春分や秋分の日に特別の行事をおこなうことはなかった。日本では平安時代初期から朝廷で彼岸会の行事がおこなわれており、それが江戸時代になって一般化したとされ、おそらく一般化するなかで彼岸会がお彼岸と呼ばれるようになったのだろう。

彼岸は盆とともに重要な仏教行事になっているが、その重要さの割には両方とも起源がはっきりとはしていない。彼岸会の起源には幾つかの説があり、その中でいちばん有力なのが、観無量寿経に説かれる日想観(にっそうかん)起源説である。

日想観は沈む太陽に心を集中しながら、夕日のかなたにある西方(さいほう)極楽浄土を心に思いうかべる修行である。これを修行して極楽浄土に強いあこがれを抱くようになると、そのぶん現世に対する執着が小さくなり、同時に現世の不満や老病死の苦しみも小さくなるのである。そしてその修行は、太陽がま東から昇り、極楽浄土のあるま西に沈む、彼岸の中日が最適の修行日とされた。また一週間という期間は、観無量寿経の「七日間一心に修行すれば極楽浄土を見ることができる」からきたとされる。

大阪の四天王寺は日想観の修行場所として有名だったという。今は海から遠く離れた町中に建っているので信じられないことだが、昔は四天王寺のすぐ下まで海がきていて、その西門は大阪湾にしずむ夕日を見るのに最適の場所だったという。しかもその西門は極楽の東門に当たるといわれていたので、春秋の彼岸にはとくにたくさんの人が集まってきて、極楽往生を求める人の中には、袂(たもと)に砂を入れて念仏を称えながら、夕日に向かって海に入る人もあったという。

この日想観を起源とする説に従えば、彼岸は浄土教から発生した行事ということになる。そして初めは集中して念仏修行をする期間であったものが、一般化するうちに極楽往生した人をしのぶ墓参や追善供養の方に重点が移り、今日のようなお彼岸になったのではないかと思う。

今では明るい照明のため日が沈んでも気づかないことが多く、夕日を見ることも少なくなったが、ときには夕日を拝みながら極楽浄土に思いをはせてみてはいかがだろうか。

「九つや、ここで逢わなきゃどこで逢う、極楽浄土のまん中で」

参考文献 大法輪平成8年3月号156ページ。金治勇。「日想観」

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