四法印の話
四法印(しほういん)は仏教の旗印というべき仏教を特徴づける根本の教えであり、四法印に反するものは仏説ではないとされ、仏の真説かどうかを判断する基準とされてきた。諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)、一切皆苦(いっさいかいく)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)、の四つが四法印であり、一切皆苦を除いた三つを三法印(さんぼういん)という。
諸行無常
諸行無常の諸行は、認識できるすべてのもの、縁によって生起したあらゆる現象、を意味しており、すべての現象はたえず変化していて一瞬たりとも同一ではない、というのが諸行無常の教えるところである。
諸行がたとえ一瞬であっても変化せず同一であれば、変化は永遠に起きないことになる。なぜなら一瞬であっても変化せず同一であるなら、次の一瞬も変化せず同一でなければならない。それでなければ同一とはいえないからであり、するとどこまで行っても変化は起きないことになる。今日の科学でも、すべての物質は常に変化しているエネルギーであり、固定不変なものは存在しない、ということが明らかになっている。
しかし諸行無常はそうした証明を必要としない日常的な事実でもある。いつまでも若く美しく元気に生きていたい、と誰しも願っているが、時の流れはそんな願いをたちまち押し流してしまうのであり、そのため誰しも日常的に諸行無常によって生じる苦しみを感じているからである。
遺教経(ゆいきょうぎょう)のなかで釈尊は、目前にせまった釈尊の死を嘆く弟子たちに最後の説法をしている。「世はみな無常なり。会うものは必ず離るることあり。憂悩(うのう)を懐くことなかれ。世相かくの如し、まさに勤めて精進して早く解脱を求めよ」
たとえ百年生きたとしても、人生は電光のごとく過ぎ去るものであるが、諸行無常は悪いことばかりではない。子供が誕生し成長するのも、作物が成長して実りの秋を迎えるのも、願いごとが成就していくのも、諸行無常だからこそである。
諸行無常と聞くと、「祇園精舎(きおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)のことわりを表す」という平家物語の言葉を思い出す。祇園精舎の無常堂(病僧のための建物)の四隅に置かれた鐘は、病僧の臨終のとき自然に鳴りだして、諸行無常、是生滅法(ぜしょうめっぽう)、生滅滅已(しょうめつめつい)、寂滅為楽(じゃくめついらく)、という諸行無常偈を説き、病僧はそれを聞きながら安らかに死んでいったといわれ、平家物語の冒頭のことばはこの言い伝えに由来している。この偈をインド語の原文から訳すとこうなるという。「諸行は無常であり、生と滅の法であり、生じおわっては滅する。それらの寂滅を楽となす」
また四門出遊(しもんしゅつゆう)という話がある。若き日の釈尊が、野山で一日遊ぼうとカピラ城の東門を出たとき、そこで老人に会い、やがて自分も年をとることを痛感し遊山をとりやめて引き返した。南門を出たときは病気の人に会い、やがて自分も病に苦しむことを痛感して引き返し、西の門を出た時は死んだ人を見て、自分にもやがて死が訪れることを痛感して引き返し、北門を出たときは出家修行している人に会い、その安らかで落ち着いた姿に感銘をうけ、自分も出家したいと願うようになった、という話である。
このときの釈尊のように無常観から出家した人は、まじめに修行をする人が多いといわれ、そのため無常観は仏教に入るための正門といわれる。無常観は自己反省をうながし、慢心と執着を捨てさせ、謙虚さと思いやりのある心を育て、真理を求めて精進する力を与えてくれるのである。なお無常を観ずるのだから無常観であり、過去を懐かしんで感傷にふけったりするのは無常感である。日本人は無常感の傾向が強いといわれる。
諸法無我
「認識できるすべての存在は我ではない」ということが第二の法印、諸法無我である。諸法は諸行と同じことを意味しており、諸行が無常だから、諸法は無我である、つまり変化する世界には変化しない我は存在しないということである。
我という言葉はインドでは、不滅の霊魂のごとき永遠不滅の我を意味するが、仏教は形而上学的な我に関しては無記の態度、つまり問題として取りあげないという態度をとっているので、ここでいう無我は、認識できる存在の中には我は見つからないということを意味していることになる。
諸法無我も日常的に経験している事実である。生れたものは必ず滅し、これが自分だと思って執着している大事な体も、焼けば灰、埋めれば土となり、やがて跡形もなくなってしまう。また体の中のどこを探しても、これこそが自分だというものは存在しないのである。
しかし無我と聞いて悲しむのは大まちがいである。我に執着するために苦が生じるのだから、無我は大安楽の悟りの境地であり、そして無我であれば全てが我れである。心の中が無になれば宇宙全部が自分であることに気がつくのである。
体の面から言っても、私たちは皮一枚を境として、中は自分、外は自分以外のものと思っているが、実際にはそのような境界は存在せず、世界と自分は一つのものである。大地が育てた米や野菜を食べ、川などの水を飲み、大気を吸いこんで、私たちは生きている。目の前の空気の中にはさきほどまで体の一部であった物質が、呼吸によって吐き出されて漂っている。体の中身はたえず外の世界と入れ替わっているのであり、自分と世界が一つであるからこそ生きていけるのである。
ただし二義的にはこの体が自分であるのはまちがいのないことなので、病気にならないように、悪いことをしないように、精進するように、きちんと管理しなければならないのは当然である。
二匹の鬼の話で諸法無我を説明しているお経がある。一人の男が広い原野を旅していたら、人家のない所で日が暮れてしまい、たまたま見つけたあばら屋にもぐり込んで寝ていた。ところが夜中に一匹の鬼が死体をかついで入ってきた。ここで食事をするつもりらしく、これは大変なことになったと旅人は小屋のすみに小さくなって隠れていた。
するとそこにもう一匹の鬼があらわれ、二匹で死体の取り合いをはじめた。互いにこれは俺のものだと主張してゆずらない。そこで死体をかついで来た方の鬼が、隠れていた旅人を引きずり出し、「俺がこの死体を担いできたのを見ただろう」と問いつめた。するともう一匹の鬼が、「そんなことはない。俺が持ってきたのだ。うそをつくと承知せんぞ」とおどしにかかった。
困りはてた旅人が仕方なく見たままを話すと、案の定、立場の悪くなった鬼が腹を立てて旅人の右腕を引きちぎった。ところがもう一匹の鬼が、転がっていた死体の右腕をちぎって旅人の体にくっつけてくれた。すると別の鬼はさらに腹を立て、こんどは左腕から両足、頭、胴体というようにつぎつぎと引きちぎり、それを別の鬼が死体を使ってつぎつぎと元通りにした。結局、二匹の鬼はそこらに転がっていた旅人の体を食べ尽くし、口を拭って立ち去った。残された旅人は体のすべてが死体と入れ替わってしまったため、自分が自分であるのか自分でないのか分からなくなってしまった、という話である。
これは極端なたとえ話であるが、言っていることは真実である。これこそが自分だというものが存在しないからこそ、臓器移植といったことも可能なのであり、脳でさえ人工頭脳で代用できる日が来るかも知れないのである。
一切皆苦
認識できるすべての存在は苦である、というのが第三の法印である。諸行は無常であり、諸法は無我であるから、一切皆苦であると続くのである。常住なる存在であれば生老病死の苦しみは起こらないが、無常なる存在であるからそうした苦しみに付きまとわれる。また人生には楽しいこともたくさんあると思いたくなるが、迷いの生活は一切が苦であると仏教はいう。煩悩があるためにすべてが苦しみになるというのである。
ただし一切皆苦は迷いの凡夫にとってのことであって、悟りの聖者には一切の現象は苦とならない。また苦は慈悲のたねでもある。みんな苦しみの世界に生きている仲間であると、苦を見つめることで思いやりの心が生まれてくるからである。
涅槃寂静
「涅槃は寂静にして無苦安穏(むくあんのん)なる理想の境地である」が第四の法印である。涅槃は「吹き消すこと」あるいは「吹き消された状態」を意味し、吹き消すべきものは苦の原因となる煩悩の炎である。むさぼりの炎、いかりの炎、愚痴の炎、それらがとこしなえに消えた状態を涅槃寂静というのであり、そこに真の楽があるということから寂滅為楽(じゃくめついらく)ともいう。ここが仏教の目的地である。
煩悩の炎は我に執着することで燃え上がる。我に執着する心を我執(がしゅう)とか自我の迷執(めいしゅう)といい、これが迷いと苦しみの根っこなのである。自分の車の中はきれいにするがゴミは外に放り出す、というのも自我の迷執である。
無常であり無我であるのにその道理を知らず、一時の借り物でしかない心身を、これこそが自分であると執着することから苦が生じる。その執着する我は存在しないのだから、執着を捨てて煩悩の炎を消しなさい、そうすれば本当の安らぎを得ることができる、というのが涅槃寂静の教えである。悟りを開いても生老病死を避けることはできないが、苦も楽も心が作り出しているのだから、心しだいで安らぎを得ることはできる。迷いをはなれた人にとって、この世は苦に満ちた世界ではないのである。
なお大乗仏教では、「大智の故に生死に住せず、大悲の故に涅槃に住せず」という無住処涅槃(むじゅうしょねはん)が理想の涅槃とされる。智恵によって迷いの世界を脱し、しかも大慈大悲のゆえに悟りの世界に安住せず衆生済度に走り回る、というのが理想とされるのである。
参考文献「仏教用語の基礎知識」水野弘元1972年春秋社
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