三大阿僧祇劫の話
 
白隠禅師の言葉とされるものに、「勇猛(ゆみょう。ゆうもう)の衆生は成仏、一念にあり。懈怠(けたい)の衆生は涅槃、三祇(さんぎ)にわたる」というものがある。修行をするときにいちばん大切なのは勇猛心であり、それが欠けていると修行は永遠に成就しない、という意味のいかにも白隠禅師が言いそうな策励の言葉である。
 
ここに出てくる三祇という言葉は、三大阿僧祇劫(さんだい・あそうぎ・ごう)の略語、三大阿僧祇劫は、三大、阿僧祇、劫、という三つの言葉からなっている。
 
この中の劫(ごう。こう)からまず説明すると、これはきわめて長い時間をあらわす言葉、インドでいちばん大きな時間の単位だという。その長大な時間はいくつかの比喩でもって説明されており、その比喩の一つは、縦と横と高さが四十里という巨石を百年に一度やわらかな衣でさっと払い、それによって石がすり減り消滅してしまっても劫はまだ尽きないとするものである。
 
また、やはり一辺が四十里の大きな城に芥子粒を満たし、百年に一つずつ取り除いていってすべてがなくなってしまっても、一劫はまだ尽きないとする比喩もある。インド人はこの無限ともいうべきとてつもなく長い時間を、時間の単位の一つにしているのである。
 
つぎの阿僧祇はきわめて大きな数を意味する言葉。中村元仏教語大辞典には、どこから導き出したのか分からないが十の五十九乗、つまり一にゼロが五十九個ついた数字とする説が載っている。したがって阿僧祇劫は、一劫に十の五十九乗をかけた時間ということになる。
 
最後の三大は、菩薩が仏に成るには三つの阿僧祇劫の修行をしなければならないことを意味しており、五十の段階からなる菩薩の修行段階の、第一から第四十までの段階の修行に第一阿僧祇劫、第四十一から第四十七までの修行に第二阿僧祇劫、第四十八から第五十までの修行に第三阿僧祇劫が費やされるとある。
 
だから三大阿僧祇劫の全体が意味する時間は、劫というとてつもなく長い時間に、十の五十九乗をかけて、それをさらに三倍した時間、ということになる。
 
こうした長い時間などとてもあり得ないように思えるが、宇宙が無限の過去から無限の未来まで存続するものなら、過去には無限の数の三大阿僧祇劫が存在し、未来にも無限の数の三大阿僧祇劫が存在することになる。無限という言葉を味方にすれば、どんな大きな数でももて遊ぶことができるのである。
 
そしてこういう大きな時間が視野に入ってくると、自分の人生というものが極めて小さなものに感じられてくる。ほとんど無に等しいものに思えてくる。そして自分が小さく感じられればられるほど、人生の苦しみも小さく感じられるようになる。
 
それでは三大阿僧祇劫はどういうときに使われる時間かというと、これは菩薩が発心してから悟りを開いて仏に成るのに要する時間とされる。衆生が成仏するにはそれだけ長い修行が必要とされるのである。
 
ところが白隠禅師の言葉には「懈怠の衆生は涅槃、三祇のわたる」とあるから、禅師は三祇という言葉をむだに長い時間というような意味で使っているのであるが、三大阿僧祇劫は本当は仏を讃嘆するための言葉なのである。
 
仏は一切の衆生を救うために、三大阿僧祇劫もの長いあいだ修行を積んで仏になられた。原因があって結果があるというのが因果の法則であり、原因が大きければ大きいほど結果も大きいのだから、仏が無量無辺の修行をして仏に成ったのなら、その修行によって得られた仏の智慧、慈悲心、禅定力、神通力、人格の偉大さも無量無辺でなければならない。だから仏さまを信頼し、すべてをおまかせして、御名を唱えなさい。そしてすべての心配を捨てなさい、というのである。

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