涅槃図の話
 
日本では二月十五日が釈尊の命日とされていて、この日はお寺で涅槃会(ねはんえ)の法要が行われている。そしてそのときに登場するのが釈尊の臨終の場面を描いた涅槃図(ねはんず)、法要のときこれを本堂の正面に掛けることになっている。そのため多くの寺院が所持していて、仏画の中でいちばん数の多いのが涅槃図である。
 
なお涅槃という言葉は悟りを開くことを意味し、悟った人が肉体を捨てて最終的な悟りの世界に入ることを般涅槃(はつねはん)という。だから涅槃図は正確には般涅槃図と呼ぶべきものである。
 
図説仏教語大辞典に、パキスタンのガンダーラ地方で二・三世紀ごろに作られた、石の浮き彫りの涅槃像の写真が載っている。この涅槃像の構図は、二千年ちかくも前のものでありながら、現在の日本の涅槃図とよく似ている。
 
釈尊が右腕を枕にして、頭北面西右脇臥(ずほく・めんさい・うきょうが)の獅子臥(ししが)の姿勢、すなわち北枕で右脇を下にして顔を西に向けて横たわる姿も、横たわる宝台(ほうだい)の描き方も、周囲をとりかこむ人々の姿もそっくりである。ただし沙羅(さら)の木は二本のみ、摩耶夫人(まやぶにん)らしき人もおらず、動物も描かれていない。摩耶夫人やさまざまな動物を描くのは、いつ、どこで、始まったのだろうか。
 
日本最古の涅槃図とされるのは、一〇八六年に描かれた高野山・金剛峯寺(こんごうぶじ)の国宝の涅槃図、この図に登場する動物は獅子が一頭だけというから、この時代にはまだ動物をたくさん描くことはなかったのかもしれない。
 
日本と中国には涅槃像と涅槃図の両方が存在するが、インドに涅槃図なるものが存在するかどうかは確認できない。とはいえ涅槃図の構図がインド伝来のものであることは、ガンダーラの涅槃像を見れば明らかである。
 
涅槃像や涅槃図は、釈尊の安らかにして偉大なる死を、広く人々に知ってもらいたいという願いから生まれたものであろう。この願いは仏教徒に共通のものだと思う。そしてそれらが表現する釈尊の死は、やがて訪れる自身の死の手本となるものである。

   
時と場所
 
釈尊の生存年代は確定していないが、前五六〇年から前四八〇年の生存説にしたがえば、涅槃図の舞台は、西紀前四八〇年のインド北部のクシナガラの地である。命日も不明であるが、満月の日であったと伝えられていることから、日本では二月十五日を命日としている。二月とした理由はよく分からないが、十五日とした理由は月の満ち欠けを基準とする太陰暦では十五日が満月の日だからである。なお東南アジアの仏教国では、誕生と成道と涅槃はすべて太陰暦六月の満月の日であったとされているという。
 
そのため涅槃図のいちばん上に満月が描かれていて、その高さを見れば大体の時間が分かる。満月の日には日没と同時に月が出て、いちばん高く昇るのは夜中の十二時ごろであり、経典にも亡くなったのは深更とある。享年八十歳であった。
 
亡くなった場所をもう少し詳しく説明すると、釈尊最後の旅は、現在のラージギルの町の郊外にある霊鷲山(りょうじゅせん)という山を出発し、ガンジス川を渡って、生まれ故郷を目ざして北西に旅を続け、クシナガラを流れる跋提河(ばつだいが)を渡り、その西岸から遠からぬ沙羅の木の林の中で、獅子臥で禅定に入って亡くなられたのである。
 
だから涅槃図に描かれているのは、禅定に入っている姿と考えられるが、生前の姿とすべきか死後の姿とすべきかは判断が難しい。これは仏像での話であるが、スリランカでは横臥している仏像の足がぴったり重なっていれば入滅前、少しずれていれば入滅後とされているという。また東南アジアの仏教国では、横たわっている仏像は必ずしも涅槃像とは限らず、休息のために目をぱっちりと開けて横たわる巨大な仏像も存在する。
 
北枕で横たわる理由については、インド北方に位置する神々が住むとされるヒマラヤの山々に、足を向けないためというのがいちばん納得できる説、この習慣は今でもインドに残っていると聞いたことがある。つまり釈尊はいつも北枕で寝ていたのかもしれない。
 
獅子臥の姿勢に関しては、インドではこの姿勢が修行者の理想の休み方とされていて、釈尊はいつもこの姿勢で寝ていたようである。ただし試してみると分かるが、短時間ならともかく長時間この姿勢で横たわることは普通の人には難しく、へたをすると寝ちがえてしまう。なお腕枕ではなく蓮の花を枕にする涅槃図もある。
 
釈尊が横たわっている寝台を宝台(ほうだい)とか宝床(ほうしょう)と呼ぶ。実際は旅の途中に行き倒れて亡くなったのだから、地面に布を敷いて横たわっていたはずで、経典にもそう記されているが、それでは余りに畏れ多いと宝台を描くようになったのだと思う。このことは先に書いた二千年近く前のガンダーラの浮き彫りでもすでにそうなっている。なお宝台の右の側面が見えている涅槃図と、左の側面が見えている涅槃図があって、右側が見えているのが古い形式だという。

   
クシナガラの今
 
現在、釈尊涅槃の地はミャンマー寺院の境内地になっていて、亡くなったとされる場所に建つ涅槃堂には、釈尊の涅槃像が安置されている。この像は一八七六年にイギリス人考古学者のカニンガムが、ヒラニヤバティー川(跋提河)の川床から発掘したというもの、台座の銘板から五世紀の作とされている。金箔が貼られて金色に輝いているのは、ミャンマーではお寺参りした人が仏像や仏塔に金箔を貼る習慣があるからだろう。
 
そしてそこから一・五キロほど東へ行った所に、ラマバル塚と呼ばれる古い塔が建っている。このお椀を伏せた形のインド式の塔の建つところが、釈尊の遺体を荼毘(だび)に付したところとされ、そのすぐ横を流れる乾期には流れを跳び越えることもできる小さな川が跋提河、涅槃図の奥の方に描かれている水の流れはこの川の流れである。この川のすぐ横に火葬塚があるのは、この川の河原で荼毘に付したことを意味するのではないかと思う。この川は昔は大河であったと伝えられている。
 
沙羅の木の数はインドや東南アジアでは二本とされるが、日本では東西南北に二本ずつの八本とされている。ただし涅槃図には、釈尊の顔が正面から見えるように西側から見た場景が描かれているので、西側の木は邪魔にならないように横に寄せて描かれることが多い。
 
五十年ほど前にクシナガラを旅したときには、涅槃の地に建つミャンマー寺院に泊めてもらい、若い比丘(びく。僧)に境内を案内してもらった。そのときその比丘が、二本並んで生えている沙羅の木を指さして、これが沙羅双樹だと教えてくれたことを覚えている。
 
ところが十年ほど前にクシナガラを訪ねたときには、涅槃の地は至るところ沙羅の木だらけの状態になっていた。植樹により釈尊の涅槃時を思わせるような沙羅の林になっていたのであり、五十年前に見た二本の沙羅の木もかなり大きくなっていた。この樹種は大樹になるという。
 
なお沙羅の木は南方の植物なので日本では温室の中でしか育たず、温室の中でも花が咲くのは稀だという。そのため日本では、ツバキ科のナツツバキ(夏椿)を沙羅の木と呼んでその白い花を愛でているが、花期が梅雨ごろなので涅槃会には間に合わない。

   
二つの涅槃経
 
釈尊の臨終を主題とする涅槃経と呼ばれるお経には、大乗の涅槃経と、スリランカや東南アジアなどの南方仏教国に伝わる南伝の涅槃経の二種があって、正式な経名はともに大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)であるが、内容はまったく異なっている。なお大般涅槃経は偉大なる般涅槃(はつねはん)に関するお経という意味の経典であり、般涅槃は先に書いたように、悟った人が肉体を捨てて最終的な悟りの世界に入ることを意味する。
 
南伝の涅槃経は漢訳仏典では、阿含(あごん)経典に属する遊行経や仏般泥オン経(ぶつはつないおんぎょう)や般泥オン経に相当するお経であり、これらの経は釈尊の最後の旅の様子や、その時になされた説法、般涅槃の状況、などを詳しく伝えている。
 
それに対して大乗の涅槃経は、端的に言ってしまえば、如来常住無有変易(にょらいじょうじゅう・むうへんやく)、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょう・しつうぶっしょう)、の二つの教えを説くことを目的とするお経である。つまり釈尊の臨終の場を借りて、如来は不滅の存在であること、一切の衆生はことごとく仏性を持っていること、を説いているのである。その漢訳には中国北部に広まった北本と、中国南部に広まった南本があるが、内容に大差はない。

   
跋提河と沙羅双樹
 
涅槃図に描かれる場景は、基本的には大乗の涅槃経やそれに関係する文献の記述がもとになっている。日本の涅槃図に沙羅の木が八本描かれるのもそのためであろう。
 
大乗の涅槃経には跋提河は阿夷羅跋提河(あいらばつだいが)の名で出てくる。跋提河はその略称である。この川は南伝の涅槃経ではヒラニヤバティーの名で出てきて、現在もインドではこの名で呼ばれているという。なおこの川は熙連河(きれんが)の訳名で漢訳仏典に出てくることもあり、釈尊が最後に沐浴したのはカクッター川であったという記述もある。
 
最後の旅の同行者の数を大乗の涅槃経は、そのとき世尊は大比丘八十億百千人と倶にありと記している。百千人の意味はよく分からないが、八十億人以上の大人数で旅をしていたというのであり、そこにさらに五十余衆に属する無量の天人や神々が、最後の供養を捧げようと集まってきたとある。
 
南伝の経には同行者の数は記されていないが、阿難(あなん)尊者を初めとする数人の比丘を供を連れて旅をしていたようである。ただし南伝の経にも、最後の別れをするために無量の天人や神々が集まって来たとある。
 
また大乗の涅槃経には、「そのとき拘尸那城(くしなじょう。クシナガラ)の沙羅樹林、その林、変じて白きこと猶し白鶴の如し」とあり、これが涅槃の地を鶴林(かくりん)と呼ぶ由来である。
 
その同じ場面の様子を、北本の涅槃経の成立後にこの経を補完するために追加編集された二巻の経典、大般涅槃経後分(ごぶん)の應盡環源分は、
 
「沙羅樹林は四双の八本にして、西方の一双は如来の前にあり。東方の一双は如来の後ろにあり。北方の一双は仏の首にあり。南方の一双は仏の足にあり。その時世尊は、沙羅樹下の宝床に臥し、その中夜において第四禅に入りて寂然として声なし。この時の頃において便ち般涅槃す。
 
大覚世尊、涅槃には入りおわるに、その沙羅林の東西の二双は合して一樹となり、南北の二双は合して一樹となり、宝床を垂覆して如来をおおう。その樹、即時に惨然として白に変じ、なお白鶴のごとし。枝葉花果皮幹、ことごとくみな爆裂堕落し、漸漸に枯悴し摧折して余なし」、と記しており、ここにも白鶴という言葉が出てくる。
 
また北本の涅槃経の解釈本である大般涅槃経疏(しょ)全三十三巻の第一巻には、「沙羅双樹は堅固と訳す。一方に二株、四方に八株あり。ことごとく高さは五丈あり。四は枯れ、四は栄え、下根は相(あい)連なりて、上枝は相合す。その葉豊かに盛んにして、花は車輪のごとく、果の大きさ水がめの如く、その甘きこと蜜の如く、色香味具われり。ここによりて八樹通じて一林と名づけ、もって堅固となす」、とある。そしてさらに、東の二株は涅槃の四徳である常楽我浄の常を表し、南の二株は楽、西は我、北は浄、を表すなどと記されている。
 
涅槃図の沙羅の木はこうした記述を元に描かれることが多く、この記述に由来する四枯四栄(しこしえい)という言葉も涅槃図の解説によく出てくる。だから沙羅の木の本数は本来は二本であったが、大般涅槃経後分や大般涅槃経疏の記述から日本では八本になったのだ思う。ならば、なぜこれらの文献では八本になったのかという問題が出てくるが、それは不明である。
 
一方の南伝の涅槃経には、「そのとき沙羅双樹は、時ならざるに花開いて満開になり、如来供養のために如来の体に降りそそいだ。天の曼陀羅華(まんだらけ)も虚空から如来供養のために降りそそいだ。天の栴檀香(せんだんこう)も虚空から如来の体に降りそそいだ」とある。
 
平家物語の「沙羅双樹の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰の理(ことわり)をあらわす」の一節は、以上のような記述が元になっている。

   
登場人物
 
涅槃図には多彩な人物が宝台をかこむように描かれている。その内訳は、出家の弟子たち、在家の信者たち、菩薩衆、天界の住人、そして仏教の守護神などであるが、登場人物の選定や配置は決まっておらず、その描き方も一定していない。個別に見ていくと、
 
まず目につくのが釈尊の生母の摩耶夫人(まやぶにん)。図の右上(左上や中央もある)に、数人の天女を従えて、雲に乗って天上から下りてくる姿で描かれる。摩耶夫人は釈尊を出産した七日後に亡くなり、トウ利天(とうりてん)に生まれ変わったとされるから天界に住む天人である。それが地上に下りずに空中にとどまっている理由かとも思ったが、それだと天界に住む神々も地上に下りないはずなので、やはり飛翔中の姿ということなのだろう。
 
摩耶夫人を先導しているのは阿那律(あなりつ)尊者、釈尊が涅槃に入ることを知らせに行き、クシナガラまで案内してきたところである。天眼(てんげん)第一とされる阿那律尊者は、アヌルッダ尊者とも表記される釈尊の十大弟子のひとり。釈尊の最期を看取った人と伝えられ、泣き伏す阿難尊者を介抱する姿でも描かれている。つまり涅槃図に二度出演している。なお天眼とは天眼通(てんげんつう)のこと、前生や未来生を見通す力を意味し、千里眼のように遠くのものを見る力を含むこともある。
 
摩耶夫人が投げた薬袋(くすりぶくろ)とされるものが木の枝に掛かっているが、これは衣鉢袋(えはつぶくろ)が正解であろう。暖かいインドとはいえ、心にかかる何ものもない心中無一物の釈尊とはいえ、何も持たずに旅をしていた訳ではないのであり、同じ木に錫杖(しゃくじょう)も立てかけてある。
 
つぎは阿難(あなん)尊者。多聞(たもん)第一とされる釈尊の侍者は、泣き伏す姿で宝台の手前中央に描かれる。美男子として有名な人なので、それを手がかりに探せば見つかる。
 
スバッダ。死の直前に釈尊が出家させた釈尊最後の弟子。釈尊の足を拝する姿で描かれる。
 
純陀(じゅんだ。ちゅんだ)。釈尊に最後の食事を供養した人。その食事の内容は、きのこ料理と豚肉料理の二説がある。在家者の身なりで宝台近くで泣き伏す姿や、食べ物を捧げもつ姿で描かれる。
 
百才の老女ウパーシカ。香華を供養し仏足を拝したと大般涅槃経にあるという。釈尊の足に触れている。
 
迦葉(かしょう)童子。涅槃経を後世に伝えることを託された能問第一の童子。童子姿で描かれる。この童子も大乗の涅槃経に出てくるというから、涅槃図のことを知るには大乗の涅槃経を詳しく読む必要があるらしい。
 
耆婆(ぎば)。釈尊の主治医であるが、本当は釈尊よりも先に亡くなっていたようである。昔の医者らしい姿で描かれる。
 
維摩居士(ゆいまこじ)。維摩経の主人公。頭から布をかぶった姿で描かれる。
 
弥勒菩薩(みろくぼさつ)。釈尊の後継者。五十六億七千万年後に弥勒仏となってこの娑婆(しゃば)世界に現われて人々をみちびく未来仏。今はトウ利天に住む。菩薩らしい姿で描かれる。
 
地蔵菩薩。やはり釈尊の後継者。弥勒仏が出現するまでの間、娑婆世界の衆生の救済を託された菩薩。見慣れたお地蔵さんの姿で描かれる。
 
観音菩薩。いかにも観音さまという姿で描かれる。
 その他の菩薩がたが登場する図もあり、新しい涅槃図ほど登場人物が多くなる傾向がある。

   
八部衆
 
八部衆(はちぶしゅう)は仏教の守護神である八つの種族のこと。法華経では天、龍、夜叉(やしゃ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩ゴ羅伽(まごらが)、の八衆となっている。個別に見ていくと、
 
帝釈天(たいしゃくてん)。天衆に属するインド最高位の神。冠や閻魔帽(えんまぼう)をかぶった姿で描かれ、女性像もある。
 
大梵天(だいぼんてん)。インドの天地創造の神、梵天さま。帝釈天と並んで描かれることが多いが見わけにくい。
 
韋駄天(いだてん)。禅寺の庫裏(くり)に祀られる護法神。足の速いことで知られる。鎧(よろい)兜(かぶと)の武人姿で描かれる。
 
金剛力士。仁王とも呼ばれる二人の天衆、上半身、裸のたくましい体で泣いているからすぐに分かる。
 
多聞天(たもんてん)。毘沙門天(びしゃもんてん)とも呼ばれる四天王の一人。北方を守護する神。釈尊の枕元に描かれるのは釈尊が北枕で横たわっていることを表す。仏の道場を守ってつねに法を聞くがゆえに、あるいは福徳の名声が遠く十方に聞こえるがゆえに多聞天と呼ばれる、という護法と施福を兼ねそなえた神。日本では七福神の一人になっていて、鎧、兜を身につけた姿で描かれる。なお南方増長天、東方持国天、西方広目天は描かれないこともある。
 
難陀(なんだ)龍王と跋難陀(ばつなんだ)龍王。大海の底の竜宮城に住む竜衆の兄弟。難陀は歓喜、跋難陀は善歓喜の意味とされ、釈尊誕生のときには天から産湯を降りそそいだとされる。竜を背負う姿で描かれる。
 
善女竜女(ぜんにょりゅうじょ)。法華経に登場する八才の竜女。女人成仏(にょにんじょうぶつ)の象徴。人身竜尾の姿、釈尊に捧げる供物を両手で持つ姿、また男神(おがみ。おとこがみ)の姿で描かれることもある。
 
速疾鬼(そくしつき)。夜叉の一種。鬼の姿で描かれる。
 
乾闥婆(けんだつば)。香りを食べるという天界の音楽神ガンダルバ。緊那羅(きんなら)とともに帝釈天に仕えて音楽を奏するともいう。獅子の冠をかぶる姿で描かれる。
 
阿修羅(あしゅら)。日食、月食を起こすインドの戦いの神。三面六臂、全身赤色、怒髪天をつくという姿で、赤い太陽と白い月を手にして描かれる。小さな日と月を手に持つのは、これらを支配していることを表すのだろう。
 
迦楼羅(かるら)。インド神話に登場する鳥の姿の神ガルダ。金色の翼を持つことから金翅鳥(こんじちょう)と訳され、翼を広げると三三六万里、羽ばたいて海水を吹き飛ばし、海中に住む竜を捕らえて食べるという。ガルーダ・インドネシア航空のガルーダはこの神のこと。鳥頭人身あるいは鳥の冠をかぶる姿で描かれる。
 
緊那羅(きんなら)。天界の音楽神。白象の冠をかぶる姿で描かれる。
 
摩ゴ羅伽(まごらが)。人身蛇頭の大蛇の神。足を持たず腹で移動する地龍ともいわれ、とぐろを巻く蛇の冠や、竜の冠をかぶる姿で描かれる。
 
迦陵頻伽(かりょうびんが)。極楽浄土に住む鳥。人頭鳥身の花を持つ姿で動物たちの中に描かれる。空中を飛翔しながら散華する姿の図もある。

   
登場動物
 
大般涅槃経によると五十二類の鳥獣が集まったとされ、舞台はインドであるからまずよく目につくのは、象、虎、牛、孔雀、などのインドを代表する動物たち。獅子(しし)もよく登場し、ライオンはアフリカの動物だと思いたくなるが、今でも少数がインドに棲息している。
 
そのほかネズミや蛇やゲジゲジなどの嫌われものから、さまざまな鳥や虫、海に棲む魚やイカやタコに至るまで、何でもありの多種多様な生き物が登場する。ひっくり返って泣く馬を描いたものもある。ちなみにクシナガラの地は海から七百キロほど離れた所に位置している。
 
涅槃図には猫を描かないといわれるが、室町時代の一四〇八年に描かれた東福寺の明兆(みんちょう)作の大涅槃図(縦約十五メートル。横八メートル)は、猫が登場するとして有名。ただし猫が登場する図はそれほど珍しくないという。猫を描かないことの理由にはいくつかの俗説があるが、猫は死者に悪さをすると信じられていたことが本当の理由のように思う。
 
なお東福寺の図には摩耶夫人、純陀、釈尊の足にすがる老婆、などは描かれておらず、涅槃図の構成が現在の形に定まったのは江戸時代のこととされる。
 
涅槃図は大乗仏教の教えを一枚の絵の中に目に見える形で表現したものである。一切の衆生は仏心を持っているとか、草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)とか、一切衆生が成仏しないうちは菩薩は涅槃に入らないというのが、大乗仏教の教えであり精神であるから、人間だけでなく一切の生きとし生けるものが釈尊の死を悲しむのである。禽獣から草木にいたるまで声をあげて泣くのである。沙羅の木も悲しみ嘆く姿で描かれるのである。

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