バルカン半島の旅
 
二〇二五年四月にバルカン半島を旅してきた。といってもこの半島がどこにあるのか知らない人も多いと思うが、この半島があるのは、イタリアの東、トルコの西、いわゆる中欧と呼ばれている地域である。この半島の南端にはギリシアがあると書くと分かりやすいかもしれない、
 
三十年ほど前までこの半島にユーゴスラビアという国があって、その国が分裂して最終的に七つの国になった。その七か国のうちの、北マケドニア、コソボ、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアの五か国に、隣接するアルバニアを加えた六か国が今回の訪問国であり、十一日間で六か国訪問という、現地に到着してからは毎日のように国境を越える忙しい旅であった。なお北マケドニアは二〇一九年までマケドニアという国名であった。
 
人口は、モンテネグロが六二万、コソボが一八三万、北マケドニアが二〇八万、アルバニアが二八七万、ボスニア・ヘルツェゴビナが三五〇万、セルビアが七〇〇万ほどである。宗教はイスラム教、カトリック、セルビア正教、マケドニア正教、アルバニア正教などであるが、ガイドブックのアルバニアの項には、この国は社会主義国だったとき宗教活動が一切禁止されていたので特定の宗教を持たない人が多いという説明があった。
 
時差は六か国ともマイナス八時間であるが、旅行したときは夏時間のためマイナス七時間。通貨はまちまちで、コソボとモンテネグロは欧州連合に加盟していないのにユーロを通貨にしていた。六二万人や一八三万人という人口では自国通貨の発行まで手が回らないのだろう。毎日のように通貨が変わる旅行で、それぞれの国の通貨を用意するのは現実的ではなく、ユーロとカードを持っていれば何とかなるというのが結論であった。
 
この旅行の参加者十一人のうちの十人は七十歳代、残りの一人は六十歳代という高齢者ツァーであったが、あまり一般的ではない国のせいか旅慣れた人が多く、これで九十か国という人もいた。

   
ヨーロッパの火薬庫
 
今回の旅の目玉は、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボにあるラテン橋だったと思う。この橋は第一次世界大戦の原因になったサラエボ事件の起こった場所である。
 
一九四一年六月二十八日、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がここでセルビア人青年に暗殺され、それが原因でオーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告、こうしてヨーロッパの火薬庫と呼ばれたバルカン半島から火の手が上がり、第一次大戦へと拡大したのであった。そしてこの戦争に負けたオーストリア・ハンガリー帝国やそれに味方したオスマン帝国は崩壊し、この地にはセルビア人主体のユーゴスラビア王国が作られた。
 
第二次大戦中はチトー(後のユーゴスラビア大統領)が共産主義パルチザンを率いてナチスドイツに対抗し、戦後の一九四五年にはユーゴスラビア連邦人民共和国を建国、一九六三年にはユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称した。ところが一九八〇年にチトー大統領が亡くなると、求心力を失ったユーゴスラビアは全域が破壊と殺し合いの泥沼の紛争へと突入した。
 
そしてスロベニアが十日間戦争をへて一九九一年六月に独立、クロアチアがクロアチア紛争をへて一九九一年六月に独立、北マケドニアが一九九一年九月に独立、ボスニア・ヘルツェゴビナがボスニア紛争をへて一九九二年四月に独立、モンテネグロが二〇〇六年六月に独立、最後にコソボがコソボ紛争をへて二〇〇八年六月に独立、残ったのはユーゴスラビアの中心国セルビアのみであった。
 
今は旧ユーゴスラビア全域で紛争は終息し、軍関係の車両もほとんど見かけず、外国人観光客が安全に旅行できる状態になっているが、紛争の生々しい傷あとがまだ至るところに残っていた。

   
旅での気づき
 
五十五年ほど前に北海道を旅行したとき、ユーゴスラビアから来た人と道連れになったことがあった。その人の住む場所が今どの国になっているかは知るよしもないが、そんな昔の思い出も今回の旅の動機の一つになっていた。
 
もう一つの動機は、この旅行の六か国を加えると訪問国数が五十か国を超えることであったが、そういう不純な動機で旅行するべきではないとつくづく思った。旅は、見たくてたまらないものがあるとか、行きたくてたまらないという国へ行くべきで、仏教に関係する遺跡や建物であれば目を輝かせて見学するが、イスラム教やキリスト教の遺跡や建物を見ても目は輝いてくれないのである。興味のない国をいくら旅しても、時間とお金の浪費、飛行機の排ガスで地球環境を悪化させるだけである。
 
そして結局は旅もいいがやはり住みなれた家が一番、となって帰ってくることになる。最近はそれを確認するために旅をしているような気もしてきたが、不思議なことに、どんな旅行であっても、喉元過ぎれば熱さを忘れるで、時間が経つといい思い出に変化してくるものなので、どんな旅行であっても機会があれば積極的に参加した方がいいという考えもある。
 
今回の旅では、イスラム教のモスクに付きもののミナレットという尖塔に登れる所があったので挑戦してみた。以前から一度登ってみたいと思っていた塔であるが、ほかの人は誰ひとり興味を示さなかった。塔の中は予想した通り、コンクリートのらせん階段があるだけだったが、予想したよりも狭くて急な階段で、ところどころに明かり取りの縦長の隙間が開けてあることが発見であった。よく見ると他のミナレットにも同じような隙間が開いていた。いちばん上は展望台になっていて尖塔を一周できた。
 
セルビアの首都ベオグラードでドナウ川を初めて見た。この川はヨーロッパではボルガ川の次に長い川、ドイツ国内にある「黒い森」から流れ出し、黒海に注いで終わっている。ドナウ川というと「美しき青きドナウ」という言葉を思い出すが、それは上流のドイツかオーストリアあたりの話のようで、ここで見るドナウは青くも美しくもなかった。なおベオグラードではチトー大統領の墓にお参りした。
 
アルバニアには、マザーテレサ空港とかマザーテレサ大通りがあるという。ノーベル平和賞を受賞したマザーテレサは、北マケドニアの生まれで、北マケドニアでは生地の近くにあるマザーテレサ記念館を見学したが、彼女は人種的にはアルバニア人だという。
 
この地域の人はみんな体がでかい。バスケットボールの選手かと思うような人が多い。そういう人を見ていると日本人もまだまだでかくならないといけないとも思うが、地球上で人間だけがでかくなったり増えたりすることが、本当にいいことなのかという疑問もある。
 
観光地ではどこも二十メートルおきぐらいにゴミ箱が設置されていた。これは世界標準の当たり前のことである。町なかには落書きが多く、道路に落ちているゴミも多く、これらは標準以下の悪さであった。歩行者用信号の青の時間もきわめて短かかったがこれも世界標準である。
 
日本ではゴミを出すのにゴミ袋を使っているが、日本以外でゴミ袋を使っている国をこれまで見たことがない。ゴミを出すためにゴミ袋という新たなゴミを作り出しているのであり、日本全体ではたいへんな量になる。便利な方法ではあるが問題があるようにも思う。
 
今回まわった国には道の駅などという便利なものはなく、高速道路にも完備した休憩所はなく、車で移動しているときのトイレはガソリンスタンドや食堂で借りねばならなかった。そのため添乗員がトイレ探しで走り回っていた。
 
コソヴォとか、ボスニア・ヘルツェゴヴィナとか、サラエヴォとか、旅行案内書にまで「ヴ」の字が使われるようになってきた。日本語を混乱させるだけのこんなバカなことはやめるべきだ。日本語にヴの発音など存在しない。

   
旅の終わり
 
今回の旅行でまたカゼを引いてしまった。出発する前からきざしがあり、旅行中にそれを本格的に引き込んでしまい、食欲がなく水ばかり飲んでいたら、帰りの乗り継ぎのイスタンブール空港で、ついにフラフラとへたばってしまった。トイレに行くために歩いていたら、世界がグルグルと回り始めたのである。というよりも体が強烈にふらついていたらしい。血糖値の低下が原因かもしれない。それを見た空港の職員が椅子に座らせてくれて、すぐに医療チームが駆けつけてきた。
 
「大丈夫か」
 
「大丈夫。もう問題ない」
 
「本当に大丈夫か」
 
「大丈夫でなくても大丈夫だから、パスポートと搭乗券返してよ。飛行機に乗り遅れる」
 
ツァーの仲間のところにもどると、
 
「ものすごく顔色悪いですよ。大丈夫ですか」
 
「こんなに気分が悪いんだから、顔色だけいいはずがないですよ」
 
どうやら私の旅行人生もそろそろ終わりの段階に入ってきたらしい。

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