椰子の木の歌
 
「椰子の実」は、島崎藤村(しまざきとうそん)が一九〇〇年(明治三三年)に発表した詩に、大中寅二(おおなかとらじ)が一九三六年(昭和十一年)に曲をつけてできた歌。日本の歌百選に選ばれた歌の一つ。
 
この歌詞の作成には民俗学者の柳田國男(やなぎだくにお)が関係している。柳田國男が愛知県の渥美半島先端にある伊良湖岬(いらごみさき)を旅したとき、近くにある恋路ヶ浜(こいじがはま)に椰子の実が流れ着くという話を聞いてそのことを藤村に話し、その又聞きの話を元に藤村が書いたのが「椰子の実」である。だから藤村自身は恋路ヶ浜に行ったことはないという。

  椰子の実

名も知らぬ遠き島より、流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて、汝(なれ)はそも波に幾月

旧(もと)の樹きは生(お)いや茂れる、枝はなお影をやなせる
われもまた渚(なぎさ)を枕、孤身(ひとりみ)の浮寝の旅ぞ

実をとりて胸にあつれば、新(あらた)なり流離(りゅうり)の憂(うれい)
海の日の沈むを見れば、激(たぎ)り落つ異郷の涙

思いやる八重の汐々(しおじお)、いずれの日にか国に帰らん

調べてみたら日本に自生するヤシ科の植物はシュロのみ、そのシュロにも中国原産説があるというから、日本にヤシ科の植物は自生していなかったのかもしれない。ということで、恋路ヶ浜の椰子の実は沖縄あたりから流れてきたと思ったのだが、沖縄にもヤシの木は自生しておらず、そのため日本の植物図鑑にヤシは載っていない。
 
ならばどこからかというと、黒潮に乗って来るのだから、台湾かフィリピンかさらには遠くインドネシア、さらには太平洋を循環する流れに乗って南太平洋の島々から、ということになるのだろうか。海流図で太平洋の潮の流れを見ていると何となくその道筋が推測でき、まさに「思いやる八重の汐々」である。なお汐は夕方のしお、潮は朝方のしおを意味する。
 
ヤシ科の植物には二二〇属二五〇〇種が含まれるということで、流れ着くのはその中の一種ココヤシの実である。伊良湖岬を旅したとき、恋路ヶ浜で拾われたという椰子の実が展示されているのを見たことがある。それらはみなココヤシの実で、ほとんどは大きく傷ついて中身がなくなっていた。
 
ココヤシの木は高さが最大で三十メートルになり、その一番高いところに人の頭ほどの大きな実をつける。この実はきわめて有用な実であるが、いつ落ちてくるか分からないきわめて危険な爆弾でもある。毎年百五十人もの人が直撃を受けて死ぬという世界中に広まっている話、私もインドネシアを旅したときに聞いたことのある話は、あまりに誇張された話であるが、実際に死者が出ているのも確かなことなので、ホテルの庭などの木からは実が取りのぞかれている。
 
なお「枝はなお影をやなせる」は「枝はなお影をや、なせる」のように読む。また椰子の木は直立した幹の先端部から直接、大きな葉を放射状に出す。つまり椰子の木に枝は存在しない。

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