杉の木の歌
「お山の杉の子」は、太平洋戦争末期の昭和十九年に作られた、吉田テフ子(ちょうこ)作詞、サトウハチロー補作詩、佐々木すぐる作曲の歌。
ネットの百科事典によると、一九四四年(昭和十九年)八月に少国民文化協会が学童疎開中の子供を歌で元気づけようと、励ましの歌の歌詞懸賞募集をおこなった。ところが入選作がなかったので、選者の一人のサトウハチロー氏が、吉田テフ子の歌詞に戦時色を強める補作を施して第一席とし、佐々木すぐる作曲、安西愛子の歌でもって、同年十二月にラジオで発表、翌十九年には日本音盤協会の音盤文化賞を受賞した。それが「お山の杉の子」である。
戦後は戦意高揚の歌として封印されたが、一九四六年にサトウハチロー氏が今度は戦後日本の国土復興に対する意欲高揚の歌に書きかえて復活させたという。
以上の説明からすると、この歌には少なくとも三つの歌詞が存在することになり、以下の歌詞はその最終形ではないかと思う。なお主に改訂されたのは四番以降のようである。
お山の杉の子
むかしむかし、そのむかし、椎(しい)の木林の、すぐそばに
小さなお山が、あったとさ、あったとさ
丸々坊主の禿山は、いつでもみんなの笑いもの
これこれ杉の子、起きなさい
お日さまニコニコ、声かけた、声かけた
一(ひい)、二(ふう)、三(みい)、四(よう)、五(いい)、六(むう)、七(な)
八日(ようか)、九日(ここのか)、十日(とうか)たち
ニョッキリ芽が出る、山の上、山の上
小さな杉の子、顔出して、はいはいお日さま、今日は
これを眺めた、椎の木は
アッハハのアッハハと、大笑い、大笑い
こんなちび助、何になる、びっくり仰天、杉の子は
おもわずお首を、ひっこめた、ひっこめた
ひっこめながらも考えた、なんの負けるか、今に見ろ
大きくなって皆のため
お役に立って、みせまする、みせまする
ラジオ体操、ほがらかに、子供は元気に、のびてゆく
昔むかしの、禿山は、禿山は
今では立派な杉山だ、誰でも感心するような
強く大きく逞しく
椎の木見下ろす、大杉だ、大杉だ
大きな杉は、何になる、お舟の帆柱、梯子段(はしごだん)
とんとん大工さん、たてる家、たてる家
本箱、お机、下駄(げだ)、足駄(あしだ)、おいしい弁当、食べる箸
鉛筆、筆入、そのほかに
たのしや、まだまだ、役に立つ、役に立つ
さあさ負けるな、杉の木に、すくすく伸びろよ、みな伸びろ
スポーツわすれず、頑張って、頑張って
すべてに立派な、人となり、正しい生活、ひとすじに
明るい楽しい、このお国
わが日本(にっぽん)を、作りましょう、作りましょう
スギはヒノキ科スギ属の常緑高木であるが、以前はスギ科に分類されていた。スギの木は本州以南ならどこにでも生えている、大量に植林もされている木なので、知らない人は少ないと思う。スギの変種にはおもに太平洋側に生えるオモテスギと、日本海側の多雪地帯に生えるウラスギ(アシウスギ)があり、ウラスギの特徴は雪折れしないように枝が垂れること。ほかにも林業用や園芸用の品種が多数ある。
現在、日本一の高木とされる木は京都市左京区にある花脊(はなせ)の三本杉。この三本かたまって生えている杉が一位と二位と五位を独占しており、一位の高さは六二・三メートル、二位は六〇・七メートル、五位は五七・二メートルとある。この木以外でも背くらべに登場する木はスギの木ばかり、世界的に見ても高木や巨木はスギの近縁種ばかりである。
この歌には椎の木も出てくる。椎の木には、スダジイ、ツブラジイ、マテバシイ、の三種があり、この歌に出てくる椎の木がどのシイなのかはこの歌詞では分からないが、一般的にはシイといえばスダジイを指し、私の住む地域でも一番多いのはスダジイ、私の寺の裏山にはスダジイの純林もある。スダジイのドングリはあく抜きなしでおいしく食べられるので、飢饉のときの貴重な食料になったと思う。
歌詞を書いた吉田テフ子氏は徳島県の南端に位置する宍喰町(ししくいちょう)の人。この町は太平洋に面した九割以上が森林という温暖多雨の町、現在は合併して海陽町(かいようちょう)の一部になっている。この町に生えているのはどの椎の木なのだろうか。
杉の木の歌をもう一つ。
別れの一本杉
泣けた、泣けた、こらえ切れずに、泣けたっけ
あの娘(こ)と別れた、哀(かな)しさに
山の懸巣(かけす)も、啼(な)いていた
一本杉の、石の地蔵さんのヨー、村はずれ
遠い、遠い、思い出しても、遠い空
必ず東京へ、着いたなら
便りおくれと、いった娘(ひと)
リンゴのような、赤いほっぺたのヨー、あの涙
呼んで、呼んで、そっと月夜にゃ、呼んでみた
嫁にも行(ゆ)かずに、この俺の
帰りひたすら、待っている
あの娘(こ)はいくつ、とうに二十(はたち)はヨー、過ぎたろに
この歌は、高野公男(たかのきみお)作詞、船村徹(ふなむらとおる)作曲、春日八郎(かすがはちろう)の歌でもって、一九五五年(昭和三〇年)にレコードが発売され、五十万枚を売り上げたという名歌。春日八郎の代表曲の一つであり、この歌で三人とも売れっ子になったが、作詞の高野公夫氏はこの歌がヒットした翌年に結核のため二十六才の若さで亡くなったという。
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