桂の木の歌
映画「愛染(あいぜん)かつら」の主題歌である「旅の夜風」は、一九三八年(昭和十三年)にレコードが発売されるや、当時としては驚異的な八十万枚を超える売りあげを記録した歌。作詞は西條八十(さいじょうやそ)、作曲は万城目正(まんじょうめただし)、歌は霧島昇(きりしまのぼる)とミス・コロムビアであった。
旅の夜風
花も嵐も踏み越えて、行くが男の生きる道
泣いてくれるなほろほろ鳥よ、月の比叡(ひえい)を独り行く
優しかの君ただ独り、発たせまつりし旅の空
可愛い子供は女の生命(いのち)、なぜに淋しい子守唄
加茂(かも)の河原に秋長(た)けて、肌に夜風が沁みわたる
男柳(おとこやなぎ)がなに泣くものか、風に揺れるは影ばかり
愛の山河(やまかわ)雲幾重(くもいくえ)、心ごころを隔てても
待てば来る来る愛染かつら、やがて芽をふく春が来る
桂の木はカツラ科カツラ属の落葉高木。樹高が最大で三十メートルに達する、株立ち樹形になりやすい、丸くかわいらしい葉をもつ、山地の川ぞいでよく見かける木。ただし個体数は多くはない。私の住む小浜市では上根来(かみねごり)集落のすこし先、おにゅう峠へ行く林道にある「上根来水源の森」という看板付近の川ぞいに、五・六本かたまって生えている。
それでは愛染かつらとは何かというと、川口松太郎氏が書いた恋愛小説の重要な小道具になっている、愛染明王をまつるお堂の前に生えている桂の木ということになる。私はこの小説を読んでいないし、映画も見ていないのであるが、ネット上の情報によると、菩提寺の愛染堂の前にある愛染かつらと呼ばれる木の下で愛を誓うことが、この物語の流れを方向づけているのであり、小説の題名の愛染かつらは二人の愛の象徴であるその木に由来するものである。
ならば愛染かつらという木は実在するのかと調べてみたら、三本、現存しているらしい。
その一本は長野県上田市にある別所(べっしょ)温泉の、北向(きたむき)観音の境内にある桂の大樹。小説家の川口松太郎氏がこの温泉に滞在したとき、この木とそばに建つ愛染明王堂に着想を得て、愛染かつらという題名の恋愛小説を書きあげ、その小説と映画が大ヒットしたことで、この木は愛染かつらと呼ばれるようになったという。だとすると愛染かつらという言葉は川口松太郎氏の造語なのかもしれない。
ならば愛染明王はどんな明王かというと、目が三つ、腕が六本、全身が真っ赤、という不動明王によく似た忿怒像(ふんぬぞう)の明王である。ところが愛染という言葉は、愛欲に染まること、愛欲に執着することを意味するから、それをそのまま肯定したのでは仏教にならない。だからこの明王は人間を滅びへと導く煩悩の力を、仏道修行に精進する力に変えてくれる明王ではないかと思う。
ところが近世になると、愛染明王は恋愛の守り本尊、縁結びの神さまのような存在と考えられるようになり、それにつれて愛染堂にお参りする愛染参りも盛んになり、とくに四天王寺勝鬘院(しょうまんいん)の愛染堂が愛染参りで有名になったとある。どうやらこのあたりの状況も愛染かつらという題名の背景になっているように思う。その勝鬘院に二本目の愛染かつらと呼ばれる木がある。
男体山(なんたいさん)登山で日光に行ったとき、中禅寺湖の湖畔に建つ中禅寺の境内に愛染堂と桂の木があって、その木の前に、ここで映画「愛染かつら」の撮影が行われたという説明書きがあった。だから桂の木が出てくる場面はここで撮影されたようであるが、その木は落雷のために枯れ、今あるのは二代目の木だという。これが三本目の愛染かつらである。
愛染かつらという言葉は、以上のような説明がないとよく理解できない言葉である。またこの歌には「男柳」とか、「風に揺れるは影ばかり」とか、意味のよく分からない言葉がほかにも出てくる。名歌になるための条件は意味不明の言葉を二つ三つ入れることだと言いたげにである。
それにしても、「花も嵐も踏み越えて」とか、「加茂の河原に秋長けて、肌に夜風が沁みわたる」とか、「愛の山河雲幾重、心ごころを隔てても」とか、魅力的な歌詞だと思う。
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