袈裟の話
読経するときには衣の上に袈裟(けさ)を着用することになっている。曹洞宗では坐禅のときにも袈裟を着用するが、この仏弟子の象徴というべき袈裟は、何に由来するものなのだろうか。
原始仏教と呼ばれる最初期のインドの仏教では、修行者は人が捨てた不浄な布をつづり合わせて作った長方形の布を身にまとっていた。これが袈裟の原初の形であり、そのため袈裟は糞掃衣(ふんぞうえ)とも呼ばれていた。法句経(ほっくきょう)の三九五番に、「糞掃衣をまとい、やせて血管があらわれ、ひとり林の中にあって瞑想する人、かれを我はバラモンと呼ぶ」とある。これが修行者の理想の姿だったのである。
袈裟の語源は古代インドのサンスクリット語の「カシャーヤ」であり、それを漢字で音写したのが袈裟である。カシャーヤは間色(かんじき)とか壊色(えじき)と訳されるように、地味で目立たない色を意味しているが、もともとは柿渋色を意味する言葉だったといわれ、現在でも南方仏教の修行者は柿渋色の袈裟を使用している。
今でもインドへ行くと、袈裟ぐらいの大きさの長方形の布を身にまとって歩いている人をよく見かける。私もインドを旅行したとき、そうした布を防寒に使用したことがあり、単純なものほど利用範囲が広いものなので何かと便利な布であった。またインド女性が身に着けているサリーも長方形の布で、着用法も袈裟と似ているから、四角い布はインドの民族服といっていいのかもしれない。ただし四角い布をまとって歩いているのはインド人だけではない。
袈裟を作るには、たとえ大きな布が手に入ったとしても一度小さな布片に切り分け、それをまた縫い合わせて作る。小片に切って価値を損ずることで、布にたいする執着を捨て、盗難を防ぎ、そして皆で分けることも可能になるのである。袈裟は小片を縫いあわせた形が、山上から見おろした田んぼに似ていることから福田衣(ふくでんえ)とも呼ばれ、功徳に満ちた衣ということで功徳衣(くどくえ)とも呼ばれる。
葬儀などで導師が着用する高価な金襴の袈裟は、執着を捨てるために質素なものを身につけるという袈裟本来の精神を忘れているように見えるが、今の日本では、みすぼらしい袈裟を着けて導師はできないのである。妙心寺派管長の山田無文老師は、南方仏教の袈裟の色をした木綿の布で、日本式の袈裟を作って着用していた。これは良い方法だと思ったが無文老師だからこそできることである。
三衣一鉢(さんねいっぱつ)の言葉のように、インドの修行者が身に付けていたのは大小あわせて三枚の袈裟のみであり、寝る時もその三枚で寒さをしのいでいた。そのため一番大きな袈裟は、夜具としても使えるように幾重にも布を重ねて作られており、高齢の修行者だと持ち運びに苦労するほど重くかさばるものだった。
暑いインドといっても、釈尊が住んでいたインド北部は冬はかなり寒くなるが、それでも雪が降ったり氷が張ったりすることはなく、三枚の袈裟で冬を過ごすことができた。ところが寒さのきびしい中国では、袈裟だけで冬を過ごすことができなかったので、中国服の上に袈裟を着用するようになり、その装束が日本に伝わったのである。
袈裟は身につけるか、身辺に置くかして、必ず持っていなければならないという戒がある。仏道修行者の証しというべきものであるから、常に携行しなければならなかったのであるが、袈裟を着けているととにかく動きにくい。そのため中国で絡子(らくす)という小型の袈裟が誕生し、さらに小さな輪袈裟(わげさ)というものも作られた。
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