恐怖心の話
 
若いときの修行の目的は、心の中に新たな世界を開くことであった。修行すれば心の中に広々とした世界、静けさに満ちた世界が開けてくる。それがおもしろかった。
 
ところが年をとり死が目のまえに迫ってくると、恐怖心から自分を解放することが修行の目的になってきた。そしてそこから眺めてみると、仏道修行の第一目的は恐怖心からの解放ではないかと思うようになってきた。ならば恐怖心は煩悩の一つなのかと思い調べてみると、仏教で説く煩悩の中に恐怖心は含まれていない。とすると恐怖心はどこに位置づけられるものなのだろう。
 
仏教の基本を思い出してみると、仏教の第一目的は苦を解決することである。そのため、これが苦であるとまず人生の苦を提示し、それから、これが苦の生じる原因である、これが苦を解決する方法である、これが苦の解決にいたる道である、と苦を解決するための四つの段取りを説いている。そして苦の代表として生老病死の四苦を挙げている。
 
恐怖心はその四苦の中身なのであろう。つまり生老病死の苦の核心には恐怖心があるということで、四苦とは、この苦しみに満ちた世界に生まれることに対する恐怖、年をとることに対する恐怖、病気になることに対する恐怖、死ぬことに対する恐怖、を核心とする苦しみだということである。仏教はその恐怖を解決する道、恐怖心をなくす方法を説いているのである。
 
たとえ悟りを開いても、歳をとり、病気になり、死んでいくことは変わらない。しかし恐怖心をなくすことはできる。私たちが恐れるべきは、解決しなければならない相手は、生老病死そのものではなく、それらに対する恐怖心なのである。
 
そのため仏教は無我を説く。自分に属するは何もない。体も心も命もすべて自分のものではない。自分というものはどこにも存在しない。だから自分に対する執着を捨てよ。そうすれば恐怖心はなくなる。と執拗に説いているのである。しかし本当のところは理屈で分かっても恐怖心は完全にはなくならない。恐怖心をなくすにはそのための実践的な修行が必要なのである。

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