良寛さんの話
 
二〇二三年十月、良寛さんのお墓参りをするべく新潟県を旅してきた。これまでにも良寛さんの生まれた場所や、隠棲した庵を訪ねたことは何度かあったが、お墓参りはまだしていなかった。
 
良寛さんに関係する場所はそのほとんどが生誕の地、新潟県出雲崎町(いずもざきまち)周辺に集中している。それ以外の場所は雲水修行をした岡山県倉敷市玉島の円通寺ぐらいしかなく、円通寺での修行をおえてから全国を行脚して回ったとされるが、それに関しては四国で良寛さんらしき僧に会ったという話が伝わっているだけである。
 
今回の旅では良寛さん人気の大きさに驚かされた。県を挙げての応援という感じで、どこへ行っても良寛さんだらけある。一般の人に人気のあるお坊さんといえば良寛さんと一休さんであるが、今は良寛さん人気の方が圧倒的に大きいように思う。なにしろ良寛記念館、良寛の里美術館、燕(つばめ)市分水良寛資料館、良寛詩歌公園、良寛と夕日の丘公園、道の駅「良寛の里わしま」、など良寛の名のつく施設はたくさんあるが、一休記念館のたぐいは名前を聞いたこともない。
 
そのため関係した場所を回っていたら大量の良寛関係の小冊子が手に入り、その中に新潟県が発行している「良寛たずね道。八十八か所巡り」という、良寛関係の地八十八か所を紹介する小冊子があった。これはよくできた冊子で、これを参考にしていたらもっと効率よく手落ちなく回れたと思ったが、読んだのは帰宅してからであった(ネット閲覧可)。
 
この冊子は良寛さんに関係する地を、生誕の地として出雲崎(いずもざき)、仮住まいの地として寺泊(てらどまり)、定住の地として分水(ぶんすい)、父親の生誕の地として与板(よいた)、遷化(せんげ。僧侶の死を意味する)の地として和島(わしま)、の五つに分けて紹介している。これらの地は隣接したひとまとまりの地域の中にある。

   
良寛五か所
 
生誕の地である出雲崎の現在の住所表記は、新潟県三島郡(さんとうぐん)出雲崎町(いずもざきまち)。ここには、生家のあった場所に建つ良寛堂を初めとして、良寛記念館、良寛と夕日の丘公園、出家した光照寺(こうしょうじ)、それから芭蕉の奥の細道に関係する芭蕉園、道の駅「越後出雲崎、天領の里」、などがある。
 
仮住まいの地である寺泊の現在の住所は新潟県長岡市寺泊。ここは良寛さんが修行の旅から帰ってきて最初に落ち着いたところ。数か所の仮住まいをした場所、むらという名の妹の墓、学問の師大森子陽(おおもりしよう)の墓、みやげ物屋のさかな屋が立ちならぶ「魚の市場通り」、などがある。
 
定住の地である分水は現在、新潟県燕市の一部になっている地域。庵居した五合(ごごう)庵や乙子(おとご)神社草庵はここにある。それら以外にも、数か所の仮住まいの地、五合庵が属する国上寺(こくじょうじ)という寺、親交のあった人の家、燕市分水良寛資料館、信濃川大河津(しなのがわおおこうづ)資料館、道の駅国上(くがみ)、などがある。
 
分水という地名は大河津分水路(おおこうづぶんすいろ)から来ている。日本最長の川、信濃川が増水したとき、滞留した水を日本海へ直行して逃がすための巨大な分水路がここを通っているのであり、分水路開鑿によって広大な土地が消滅したことで村々の区割りを新しくしたとき、分水町(ぶんすいまち)も作られたが、この町は合併により燕市に編入されて消滅、分水の名は学校名などに残るのみ。ただし全長十キロメートルの巨大分水路が作られたのは良寛さんが亡くなったかなりあとのこと、明治から大正にかけてのことである。また大河津の名はここにあった大河津村から来ている。
 
父親の生誕の地である与板の現在の住所は長岡市与板町(よいたまち)。ここには、父親の生家のあと、弟由之(ゆうし)の隠棲地のあと、親戚や交流のあった人たちの家、良寛詩歌公園、まちの駅よいた、などがある。
 
終焉の地である和島(わしま)の現在の住所は長岡市和島。和島村は合併により消滅し今は長岡市の一部になっている。ここには良寛さんが晩年を過ごして死を迎えた木村家の庵のあと、良寛さんが世話になった木村家のあと、良寛さんと弟由之の墓のある隆泉寺(りゅうせんじ)、いつも散歩をしていた宇奈具志(うなぐし)神社、弟子の遍澄(へんちょう)法師の墓のある妙徳寺、良寛の里美術館、道の駅「良寛の里わしま」、などがある。
 
木村家の庵は、良寛さんが晩年に和歌のやりとりをした貞心尼(ていしんに)との出会いの場でもある。その貞心尼が七五歳で亡くなったのは明治五年のこと、墓は新潟県柏崎市にある。

   
出発
 
今回の旅は「遷化の地わしま」から始めた。まず道の駅「良寛の里わしま」を目指して出発し、ここでしばらく休憩してから、良寛の里美術館で情報を仕入れ、ここに車を置いてあとは徒歩で、まず隆泉寺へ行って旅の第一目的のお墓参りを果たし、それから晩年を過ごした庵のあと、木村家のあと、などを見て回った。良寛さんはこの地で一八三一年に七四歳でなくなった。今から一九二年まえのことである。
 
出雲崎町は海と段丘にはさまれた奥行きのない土地に作られた細長い町。その海岸ぞいに国道が通り、国道ぞいには道の駅やトイレ付きの駐車場が数か所あって休憩場所には困らない。そして国道の内陸側を通る細めの道が旧街道、この旧街道の両側に古い町並みがつづき、町並みの後ろには段丘の急斜面がのしかかるように迫っている。
 
なぜ新潟県に出雲崎という地名があるのだろうか。出雲は島根県の東半分を占めていた国の名前である。出雲崎という地名の由来にはいくつかの説があって、その一つは出雲の神さま、大国主命(おおくにぬしのみこと)がここに来臨したことに由来するというもの。町内には大国主命をまつる石井(いわい)神社がある。
 
出雲の神さまの来臨は、出雲の軍隊がここまで攻めてきたことを意味するとも考えられるが、あるいは出雲の人たちが集団でここに移住したことがあったとか、この地と出雲の国とのあいだにひんぱんに往来があった、などのことに由来するとも考えられる。とにかく出雲崎が出雲の国に関係する地名であるのは確かなようである。
 
出雲崎町では良寛堂と良寛記念館はぜひ訪ねたいところ。また良寛記念館横の海岸段丘の上にある「良寛と夕日の丘公園」は、新潟県でいちばん景色のいい場所と認定された公園。目の前に佐渡を望むこの公園もぜひ訪ねたいところ。なお出家をした光照寺もやはり段丘の上にある。

   
五合庵
 
良寛さんと言えば五合庵であるが、この庵は国上山(くがみやま。三一二・八メートル)中腹にある淋しさ満点の庵。国上山は弥彦山(やひこやま。六三四メートル)から連なる山並みの南端にある山。その標高一四〇メートルほどのところに国上寺(こくじょうじ)があり、標高百メートルほどのところに五合庵、標高五〇メートルほどの山麓に乙子神社草庵がある。国上寺の駐車場から五合庵まで遊歩道を歩いて二〇分ほど、その道をさらに下ると乙子神社がある。
 
昔は五合庵の周囲に笹が繁茂していたので、庵の裏に小さな水場があったという。ここに庵を作ったのはそれが理由であろう。五合庵に定住した時期ははっきりしていないが、そもそもが一人の隠者の生涯であるからはっきりしないことが多くて当然である。
 
五合庵の名前は、国上寺の客僧であった萬元(まんげん)上人という人が、寺に対する功績により日に米五合を支給されてここに住んだことに由来するという。だから五合というのは酒五合ではなく米五合であるが、良寛さんはお酒の好きな人だったらしい。
 
萬元上人の墓は庵のすぐ横に立っている。この上人が亡くなって空いていた五合庵に、何かのつてで良寛さんが住みついたということなのだろうか。良寛さんは四〇歳の頃から二〇年ほどこの庵に住み、この庵が生涯でいちばん長く住んだ家であるから、良寛さんの住まいと言えば五合庵となっても当然かもしれない。現在の建物は大正三年に再建されたものとある。
 
そして五合庵まで登るのがつらくなってきた四九歳のころ山麓の乙子(おとご)神社草庵に移り、十年ほどそこに住んだ。乙子という珍しい神社名には末子の意味があるということで、弥彦山のふもとにある越後の一の宮、弥彦神社の神さまの末子をまつることから付いた名だという。現在の建物は昭和六二年に再建されたものとある。
 
乙子神社はすぐ前まで車で入れなくはないが、そして私も車で入ったのだが、道が狭い上にまともな駐車場もない状態なので余りおすすめはできない。二百メートルほどのことなのでその狭い脇道にはいる手前に車を駐めるか、国上寺から散歩がてら歩いて下りる方が安心である。
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