お香の話

お香は仏さまの使いといわれており、お香を焚いたり体に塗ったりすると、邪気をはらい五根を清浄にして無量の功徳を得るという。お香を体に塗ることを塗香(づこう)という。

日本の文献にお香が登場するのは、日本書紀の次の記述からである。「推古天皇の三年(五九五年)の夏四月、沈水(じむ)が淡路島に漂着した。大きさは一抱えほどであった。島人が香木ということを知らず薪に混ぜてかまどで焚いたら、その煙が遠くまで薫った。これは珍しいというので朝廷に献上した」

聖徳太子はこの香木で観音像を造り、その残りが法隆寺と呼ばれる名香木として今日まで伝わっているという。この香木は沈水とあるから沈香(じんこう)のようであるが、水に沈むから沈香と呼ばれているのだから、その香木が漂着するのはおかしいと思いためしてみたら、私が持っている沈香はすべて水に浮いた。とすると産地の東南アジアから、沈香が黒潮に乗って流れて来てもおかしくないことになる。

お香には多くのすぐれた功徳があるとされ、それらをまとめた香十徳(こうじっとく)ということが伝わっている。香十徳は一休さんの作とされているが、実際は一般庶民にまでお香が広まった江戸時代に作られたもののようである。

一、感は鬼神にいたる。

二、よく汚れを除く。

三、心身をきよらかにする。

四、よく眠りを覚ます。

五、静中に友となる。

六、塵裏にひまをぬすむ。

七、多くして厭(いと)わず。

八、少なくして足れりとなす。

九、久しく蓄えて朽ちず。

十、常に用いて障りなし。

「少なくして足れりとなす」とあるが、人間の鼻はわずかの時間しか香りを感じないから、多くても少なくてもそれほど効果は変わらないのである。また香食(こうじき)という言葉があるように、本尊様やご先祖様はお香を食べ物にしているというから、安い線香をたくさん供えるよりも、短く折ってでもいいから上質のものを供えてほしい。

ただし「多くして厭わず」とあるが、最近増えている香料入りの線香は少し嗅ぐだけでも気分が悪くなる。火をつけなくても強くにおう線香は香料の入ったものと考えてよく、人とお香の価値は煙になったときに分かる、という言葉を知っていると線香選びの役に立つ。
 

     
焼香の作法

葬儀や法事のとき人が焼香するのをたくさん見てきたが、洗練された心のこもった焼香のできる人は少ないように思う。歳をとると焼香する機会が増えてくるのだから、きちんと作法を身につけておくべきだと思う。何事も基本を知ることと練習が大事である。

焼香の基本は、香炉の前で遺影にむかって合掌して一礼、それから焼香、そして丁寧に合掌して一礼、ということであり、これに導師や親族に対する一礼が加わる。焼香台へ進むときたくさん僧侶が並んでいると、誰にお辞儀してよいか分からずまごついたりするが、導師に向かって一礼するのが基本である。

焼香の回数とか線香の数は宗派によって違いがあり、臨済宗では焼香は一回、線香は一本となっている。ただし二回、三回することになっている宗派であっても、会葬者が多いときには一回だけの方がいいと思う。進行係から一回にして下さいと指示されることもあるし、急いで三回するよりも丁寧に一回する方が見た目もいいと思う。

私が住んでいる町では自宅や寺で葬儀をおこなうことがよくある。そうしたとき坐って丁寧にお辞儀をする人があるが、たくさんの人が焼香するときは、畳の部屋であっても立礼の方がいいと思う。何事もあまりに丁寧すぎるのはよくない。

またお香を額の前で押し頂くようにしてから焼香する人があるが、臨済宗では押し頂かないことになっている。曹洞宗は二回焼香で、一回目だけ押し頂くと聞いたことがあるが、これは感じのいい方法だと思った。

葬儀に参列するときには香典(こうでん)を持参する。香典は香奠(こうでん)とも書き、奠(てん)には「供える」というを意味があるから、香典はお香のかわりに供えるお金を意味している。葬儀のとき仏教ではお香、キリスト教では花、神道では玉串、を供えることになっているのであり、焼香するのは亡くなった人にお香を供えることであるから、自分でお香を持参して焼香する人もいる。

坐禅のときには線香を焚くことになっていて、昔は線香で坐禅の時間を計っていたといわれるが、線香の燃える速度は、風があると速くなり、湿気があると遅くなるから、風のない湿度の高い日には「今日の坐禅はずいぶん長い」となったと思う。ときには静かにお香を聞きながら、線香一本の坐禅に挑戦してみてはいかがだろうか。

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