良寛さんの歌
 
良寛さんの和歌をご紹介する。大愚良寛((たいぐりょうかん。一七五八~一八三一)和尚は、新潟県三島郡出雲崎町(いずもざきまち)の生まれ、幼名を山本栄蔵といい、十五歳で元服して文孝と名乗った。生家の橘屋(たちばなや)は名主をつとめる出雲崎町第一の名家であり、良寛さんはその家の長男として生まれ、弟と妹が三人ずついた。
 
ところが十八歳のとき突如として光照寺(こうしょうじ。出雲崎町尼瀬一二八〇。曹洞宗)十二世玄乗破了和尚のもとで出家し、二二歳のときに光照寺で出会った岡山県倉敷市玉島(たましま)円通寺(えんつうじ。曹洞宗)の大忍国仙(だいにんこくせん)禅師の下で参禅修行をすることを決意し、禅師に随って円通寺へ行って長く修行に励みその印可を得た。
 
国仙禅師の没後は諸方を遍歴、四〇歳のころ越後に帰り、出雲崎町の北にある国上山(くがみやま)中腹の五合庵(ごごうあん)に落ちついたのは四八歳のころとされる。
 
そして六一歳のとき脚力の衰えから山麓にある乙子(おとこ)神社草庵に移り、六九歳のとき招かれて長岡市島崎の木村家の離れに身を寄せ、天保二年(一八三一年)正月六日にその地で亡くなった。世寿七四。死因は直腸がんではないかといわれ、墓は隆泉寺(りゅうせんじ。長岡市島崎四七〇九)にある。



いざここに、わが身は老いむ、あしひきの、国上(くがみ)の山の、森の下蔭

あしたには、後ろの山の、薪(たきぎ)こり、夕べは軒の、流れをぞ汲む

柴やこらむ、清水やくまむ、菜やつまむ、しぐれの朝の、降らぬ間切れに

いくたびか、草のいほりを、打ち出でて、天(あま)つみ空を、眺めつるかも

訪う人も、なき山里に、いほりして、ひとり眺むる、月ぞ隈(くま)なき



世の中に、まじらぬとには、あらねども、ひとり遊びぞ、われハまされる

山かげの、岩間をつたう、苔水の、かすかに我れは、すみわたるかも

こと足らぬ、身とは思はじ、柴の戸に、月もありけり、花もありけり

さしあたる、その事ばかり、思へただ、返らぬ昔、知らぬゆくすえ



この里に、手鞠つきつつ、子供らと、遊ぶ春日は、くれずともよし

かすみ立つ、長き春日に、子供らと、手まりつきつつ、この日くらしつ

いざ子供、山べに行かむ、桜見に、明日ともいはば、散りもこそせめ

歌もよまむ、手毬もつかむ、野にもいでむ、心ひとつを、定めかねつも



春は雨、夏は夕立ち、秋は照り、世の中よかれ、われ飯(いひ)乞はむ

飯乞ふと、わが来(こ)しかども、春の野に、すみれ摘みつつ、時を経にけり

道の辺に、菫摘みつつ、鉢の子を、忘れてぞ来し、あはれ鉢の子



早苗(さなえ)とる、山田の小田(おだ)の、乙女子が、うちあぐる唄の、声のはるけさ

草の庵(いほ)に、脚さし伸べて、小山田の、山田の蛙(かわず)、聞くがたのしさ

蚤(のみ)虱(しらみ)、音(ね)をたてて鳴く、虫ならば、わが懐(ふところ)は、武蔵野の原



秋もやや、うら淋しくぞ、なりにける、いざ帰りなむ、草のいほりに

あまつたふ、日にけに寒くなりにけり、帰りなむいざ、さきくませ君

ゆく秋の、あはれを誰れに、語らまし、藜(あかざ)籠(こ)に入れて、帰る夕ぐれ



ひさかたの、雪ふみ分けて、来ませ君、柴のいほりに、ひと夜語らむ

軒(のき)も庭も、降りうずめける、雪のうちに、いや珍しき、人のおとづれ

いついつと、待ちにし人は、来たりけり、今はあひ見て、何か思はむ

天(あめ)が下に、みつる玉より、黄金(こがね)より、春のはじめの、君のおとづれ

さすたけの、きミがみためと、ひさかたの、雨間(あまま)に出でて、摘ミし芹ぞこれ



風は清し、月はさやけし、いざ共に、踊り明かさむ、老の名残りに

いざ歌へ、我立ち舞はむ、ひさかたの、今宵の月に、いねらるべしや

またも来(こ)よ、柴のいほりを、いとはずば、すすき尾花の、露をわけわけ



秋の夜も、やや肌寒く、なりにけり、ひとりやさびし、明かしかねつも

山かげの、草のいほりは、いと寒し、柴をたきつつ、夜を明かしてむ

夜もすがら、寝ざめて、聞けば、雁(かり)がねの、天つ雲居を、鳴きわたるかな



老が身の、あはれを誰れに、語らまし、杖を忘れて、帰る夕ぐれ

白雪を、よそにのみ見て、過ぐせしが、まさにわが身に、積もりぬるかも

もの思ひ、すべなき時は、うち出でて、ふる野に生ふる、薺(なずな)をぞ摘む

いにしへを、思へば夢か、現(うつつ)かも、夜はしぐれの、雨を聞きつつ



言(こと)に出でて、いへば易けり、瀉(くだ)り腹、まことその身は、いや堪へがたし

埋(うず)み火に、脚さしくべて、ふせれども、今度(こたび)の寒さ、腹に透りぬ

わが命、さきくてあらば、春の野の、若菜つみつつ、行きてあひ見む



いにしへに、変らぬものは、有磯海(ありそみ)と、向こうに見ゆる、佐渡の島なり

たらちねの、母がかたみと、朝夕に、佐渡の島べを、うち見つるかも

沖つ風、いたくな吹きそ、雲の浦は、わがたらちねの、奥津城(おくつき)どころ

はらからも、残りすくなに、なりにけり、思へば惜しき、けふの別れぞ



去年(こぞ)の春、折りて見せつる、梅の花、いまは手向けと、なりにけるかも

煙だに、天(あま)つみ空に、消へはてて、面影のみぞ、形見ならまし

歎くとも、かへらぬものを、うつし身は、常なきものと、思ほせよきみ

つい最近、母が死去し、火葬場で遺体が小さな白い骨になって炉から出てきたのを見たとき、良寛さんのこれらの歌を思い出した。



よしや君、いかなる旅の、末にても、忘れ給ふな、人の情けを

身を捨てて、世を救ふ人も、ますものを、草のいほりに、閑(ひま)もとむとは

何ゆえに、わが身は家を、出でしぞと、心に染めよ、墨染めの袖

あしひきの、山田の案山子(かがし)の、なれさへも、穂拾ふ鳥を、守(も)るてふものを

いかにして、誠の道に、かなひなむ、千歳(ちとせ)のうちに、ひと日なりとも

世の中に、何が苦しと、人問はば、み法を知らぬ、人と答へよ



鉢の子に、菫たむぽぽこき混ぜて、三世(みよ)の仏に奉りてな

み仏の、信(まこと)誓(ちかい)の、ごとあらば、仮のうき世を、なに願ふらむ

かれこれと、何あげつらむ、世の中は、一つの球の、影としらずて

形見とて、なに残すらむ、春は花、夏ほととぎす、秋はもみぢ葉



草の庵に、寝ても醒めても、申すこと、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

良寛に、辞世あるかと、人問はば、南無阿弥陀仏と、いふと答えよ

かにかくに、ものな思ひそ、弥陀仏の、もとの誓の、あるに任せて

おろかなる、身こそなかなか、うれしけれ、弥陀の誓に、あふと思へば

不可思議の、弥陀の誓の、なかりせば、何をこの世の、思ひ出にせむ

われながら、うれしくもあるか、弥陀仏の、いますみ国に、行くと思へば

極楽に、わが父母(ちちはは)は、おはすらむ、今日膝もとへ、行くと思へば


念仏に関係する歌を読むと、良寛さん、晩年は禅宗から浄土宗に宗旨がえしたように見える。夜中に目がさめて眠れないときなど、良寛さんもお念仏を称えていたのだと思う。眠れないときにはお念仏がいい。試してみるとよく分かる。禅も念仏もめざすところ同じ、思いわずらうことぞなきの境地である。
 
なお、お念仏は南無阿弥陀仏だけではない。禅宗に縁のある人なら南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)と称えてもいいし、観音さまを信心している人なら南無大慈大悲救苦観世音菩薩でもいい。仏身は三世十方世界に満ち満ちている。それを何と呼ぼうと同じことである。

もどる