十牛図の話
十牛図(じゅうぎゅうず)は、本心を探しもとめる修行の旅を、十の段階に分けて絵と文でもって解説したもの。牛というのは私たちの本心本性を表している。なお十牛図、信心銘、証道歌、坐禅儀、の四つは代表的な禅の入門書であり、禅宗四部録(しぶろく)と呼ばれている。
十牛図と名のつく文献は数種類あるとのことで、ここで紹介する十牛図は、十二世紀の中国人僧、廓庵師遠(かくあんしおん)禅師が絵と頌(じゅ)を作り、法孫の慈遠(じおん)禅師が序を加えて出版したもの。序は序文、頌は禅門では隠れた禅旨を表す文を意味している。そして最後に付した和歌は東福寺の正徹書記(しょうてつ・しょき)という日本人僧による「十牛図のうた」の一部である。
ここではその十牛図を短い意訳でもってご紹介するが、絵は言葉による説明に替えてある。
第一尋牛(じんぎゅう)
牛を尋ねるとは本心を尋ねること。衆生本来仏なりと信じ、この身即ち仏なりと実証するために、これから本心を尋ねる修行の旅に出発する場面が第一尋牛である。図には、一人の童子が山中を歩き回る姿が描かれている。
願心がなければ何ごとも成就しない。だから初発心時便成正覚(しょほっしんじべんじょうしょうがく)という言葉があるように、悟らねばおかんという願心を起こすときそこにすでに正覚が生まれ育っている。その願心自体がすでに立派な悟りである。また発心正しからざれば万行空しく施すという言葉もあるように、何ごとも初心が大切である。
序
なくしたことなどないのに、本心を探すとはどういうことか。飯を食うのもお茶を飲むのも本心の働きそのものではないか
ところが本心に背いたために本心と離ればなれになり、五欲俗塵の中で本心のふる里を見失い
やがてふる里の家も山も遠くなり、道が枝分かれして帰る道も分からなくなり
ついには是非損得の心も群がり起こり、にっちもさっちもいかなくなってしまったのである
頌
茫々たる煩悩妄想の草をかき分けて牛を追い求める
水は広く、山は遠くして、進むほどに草はさらに深くなる
身も心も疲れ果て、どこを探したらいいかも分からない
ただ木の上でひぐらしが鳴くを聞くのみ
「たずねゆく、みやまの牛は、見えずして、ただ空蝉の、こえのみぞする」
第二見跡(けんせき。けんぜき)
牛を尋ねて山に入り、なんとか足あとを見つけたという段階。図には、牛の足跡とそれを追う童子の姿が描かれている。
序
経によって進む方向を探り、語録によって牛の居場所を探る
そして、天地と我れと同根、万物と我れと一体、一切が牛であることを知る
とはいえそれは理屈で分かっただけのこと、体験して分かったのではない
ただ牛の足跡を見ただけ、牛のいそうな場所を知っただけである
頌
水辺や林の中、どこもかしこも足跡だらけ
生い茂る草々、松風の声、すべて牛の足跡
たとえどんなに煩悩の山々が高く険しくそびえていようとも
天地一杯に満ち満ちているこの牛を隠すことなどできはしない
「こころざし、ふかきみ山の、かいありて、しおりのあとを、見るぞうれしき」。(しおり、は枝折。枝を折って道しるべとするもの)
第三見牛(けんぎゅう)
牛を見つけたところ。本心本性を自覚する見性(けんしょう)体験の段階。図には、牛の後ろ姿とそれを見る童子の姿が描かれている。
序
声を聞けば牛の居場所が知れる
眼耳鼻舌身意の働きのなかに牛が姿をあらわしている
本心は海水の中の塩、絵の具の中の膠(にかわ)、色も形もないが
眉毛を一本動かしてもそこに立派に働いている
頌
うぐいすが梅の枝で春を告げている
日は暖かにして風は穏やか、岸の柳が芽吹いている
見るもの聞くものすべて牛、牛の居ないところなどどこにもないが
その姿かたちを絵にすることなど、とてもできはしない
「青柳の、いとの中なる、春の日に、つねはるかなる、形をぞ見る」
第四得牛(とくぎゅう)
牛をつかまえて手綱(たづな)をつけたところ。牛はどこにでもいるがつかまえなければ自分のものにはならない。図には、逃げまわる牛の手綱にしがみつく童子の姿が描かれている。
序
過去の過去から行方不明になっていた牛をやっとつかまえた
ところがこの牛の境界がすばらし過ぎてとても御しきれない
少しでも分別が入るとたちまち姿を隠す。少しでも気を抜くとすぐに逃げ出す
この牛を飼い慣らすには手綱と鞭が欠かせない
頌
理知分別を尽くしてつかまえはしたが
この牛を手なずけるのは骨が折れる
さわやかな無我の境地に姿を現したかと思えば
たちまち雲霧のなかに姿を隠してしまう
「はなさじと、思えばいとど、こころ牛、これぞまことの、きづななりけり」
第五牧牛(ぼくぎゅう)
牛を飼いならして我がものにするところ。悟後の修行である。図には、牛を引いて歩く童子の姿が描かれている。
序
一念起こってあとを引きとどまることなし。それを生死の迷いという
悟ればすべてが真実の世界となり、迷えばすべてが迷いの世界となる
迷悟二つの世界があるのではない。迷悟は心から生ず
手綱を強く引きしめて油断なく、本心を守らねばならない
頌
鞭と手綱をかたく握りしめる
油断すればたちまち牛は行方不明になってしまう
ところが飼い慣らしていくとやがて牛は逃げなくなる
放っておいてもいつでも本心を自覚できるようになるのである
「日かずへて、野飼いの牛も、手なるれば、みにそう影と、なるぞうれしき」
第六騎牛帰家(きぎゅうきか)
飼い慣らした牛に乗って家に帰るところ。生死解脱のために山に入ったが、入りっぱなしではいけない。図には、牛に乗って横笛を吹きながら家に帰る童子の姿が描かれている。
序
本心と煩悩の戦いは終わり、生死と涅槃の対立もなくなった
木こりの素朴な歌を歌い、子供のように無心に笛を吹き
身を牛にまかせてゆったりと大空を見あげる
この境地に到ればいくら呼ばれても、もう差別の世界に戻ることはない
頌
牛に乗ってゆらりゆらりと家に帰る
笛の音がたそがれの霞の中に流れていく
手を打ち歌を口ずさめば心は天地と一つになる
この境地を知ったもの同士なら、もう言葉はいらない
「すみのぼる、こころの空に、うそぶきて、たちかえりゆく、みねのしらくも」
第七忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん。ぼうぎゅうぞんにん)
金持ちは金にとらわれ、悟れば悟りにとらわれる。悟って悟りを忘れるのがこの段階。図には、童子と小屋と月があるだけで牛の姿はない。
序
童子と牛と二つはない。本心をかりに牛としたのみ
牛はうさぎや魚を捕らえる道具のようなもの。悟ればもう用はない
煩悩を離れた本心は精錬された金のように、雲を離れた月のように輝き
その光は縦は三世をつらぬき、横は十方にわたる
頌
牛に乗って家に帰りつく
牛にもう用はなくなり、天地の間に求めるものもなくなった
長旅を終えて帰ってきたのだから、しばらく大の字になって寝ればよい
鞭も手綱もいまは物置の中
「よしあしと、わたる人こそ、はかなけれ。ひとつなにわの、あしと知らずや」
第八人牛ぐ忘(にんぎゅうぐぼう。じんぎゅうぐぼう。ぐ、はイの右に具)
悟った人も、悟られた法も、悟りもない、という山のてっぺんに登り詰めたところ。円かなること太虚に同じ、欠けることなく余ることなし、というところ。図には、一円相(いちえんそう)が描かれているのみ。
序
凡夫の迷いも、悟りの匂いもなくなった
もう仏さまに用はない。ましてや迷いの世界に用はない
観音さまといえど、この境地をうかがい知ることはできない
無心な人の心の中を知ることなど、誰にもできはしない
頌
人も牛も鞭も手綱も消えはてた
雲一つなく晴れわたった青空は手のつけようがない
真っ赤に焼けた炉のうえに雪は載せられない
この境地に到れば禅が分かったといってもよい
「雲もなく、つきもかつらも、木もかれて、はらいはてたる、うわの空かな」。(かつらは月面の模様を桂の木と見たもの)
第九返本還源(へんぽんかんげん。へんぽんげんげん)
本に返り、源に還る段階。何も思うことのない清浄な心が、何もかもある宇宙と一つになるところ。図には、咲き匂う梅の木が描かれている。
序
天地と我れ一体なら、すべてが清浄の世界
よく磨かれた鏡のような心で、栄枯盛衰の世を見れば
無常なる苦しみの世界が、そのまま仏さまのお浄土
水は緑。山は青。そのままでみんな救われきっている
頌
本心にたち返るためにずいぶんと骨を折った
生まれながらのすなおな心でいれば修行などいらなかったのだ
すなおな心で目を閉じれば心中は無一物
目を開ければ、水は自ずから茫々、花は自ずから紅なり
「法のみち、あとなきもとの、山なれば、松はみどりに、はなはしらつゆ」
第十入てん垂手(にってんすいしゅ。てん、は店、屋敷、市場をあらわす難しい字)
童子がいつの間にか布袋(ほてい)和尚の姿になって、手を垂れて町なかで衆生済度をしている、という最後の段階。灰頭土面(かいとうどめん)の菩薩行の段階。図には、弥勒菩薩の化身とされる布袋和尚が描かれている。
序
本心に徹した境地は千聖もうかがい知ることなし
その絶対の境地にとらわれることなく、悟ったことも忘れて
瓢箪を下げて市場の雑踏の中を歩き、杖をついて家に帰る
酒屋にも入れば魚屋にも入る。そして会う人をみな仏さまにしてしまう
頌
隠すものは何もない。あるがままの姿で町の中へ入り
頭には土をかぶり、顔には灰を塗り、大笑いして人々の中にとけ込んでいく
彼には魔法や神通力など必要ではない
ただ笑顔で人々の心を暖め、心の中に花を咲かせる
「手はたれて、足はそらなる、おとこやま、かれたる枝に、鳥やすむらん」。(おとこやまは、京都府八幡市(やわたし)にある石清水(いわしみず)八幡宮のこと。急峻な男山の山上に本宮がある)
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