太田権現と礼文華窟
 
今回は円空上人の足跡をたどっての北海道の旅。上人は一六六五年に北海道へ渡り、二年間ほど滞在して多くの仏像を残した。そのとき北海道でこもった岩屋が太田権現(おおたごんげん)の岩屋と、礼文華窟(れぶんげくつ。れぶんげのいわや)の二つ。
 
この二つは上人関係の岩屋の中でも特に魅力あふれる岩屋であり、これらを見ると円空さんが岩屋ごもり修行に命をかけていたことがよく分かる。なお岩屋ごもりの好きな上人のことだから、ほかにもこもった岩屋が道内にあるかもしれないが、今回はこの二つのみ。

  
太田権現の岩屋
 
二〇二二年九月九日(金)。晴
 
太田権現はいまは太田神社あるいは太田山神社と呼ばれており、拝殿には太田神社、本殿への登り口には太田山神社の名があった。この神社の住所は久遠郡(くどうぐん。くどおぐん)せたな町(せたなちょう)大成区(たいせいく)太田一七となっているが、この住所はおそらく海岸に建つ拝殿の住所であろう。本殿のある場所はとても住所を設定できるような場所ではない。なお現地では気づかなかったが、本殿がある岩屋は拝殿の真後ろに位置しているのではないかと思う。
 
拝殿は帆越山(ほごしやま)トンネルの北口すぐの海側にあり、拝殿の横には円空仏のレプリカを展示したお堂とトイレがある。本殿への登り口があるのは拝殿から三百メートルほど北へ行った海岸横、そこには五台分ほどの駐車場があり、そこからさらに北へ三百メートルほど行ったところに太田集落がある。
 
太田神社は北海道内ではかなり知られた神社のようで、道南五大霊場の一つに選ばれており、過去には円空上人だけでなく、木食行道(もくじきぎょうどう)上人、旅行家の菅江真澄(すがえますみ)、北海道という地名の命名者である探検家の松浦武四郎(まつうらたけしろう)なども訪れている。現地の解説によると、円空上人の来訪は一六六六年、木食上人は一七七八年とある。木食上人はこの岩屋で円空仏を見たことが作仏を始めた動機になったとも書いてあった。
 
太田神社は日本一危険な神社といわれたりする。参道の険しさが半端ではなく、また本殿のある岩屋が危険きわまりない場所に口を開けているからであるが、この二つが太田神社の人気の秘密でもある。本殿までの所要時間は登り四五分、下り三〇分といったところ。
 
地形図を見るとこの岩屋は、帆越山(ほごしやま。三二一・一メートル。三角点あり)の横にある太田山(おおたさん。四八五メートル)の山頂付近にある切り立った崖の中腹、標高三五〇メートルほどのところにある。この崖は全体が海に面しているが、岩屋は岩陰に隠れるように口を開けているので、下から見上げてもどこにあるのか分からないが、双眼鏡を使えば入口のある場所を確認できる。
 
なお帆越山とか帆越岬という名はこの沖を航行する船が、ここの神仏に敬意を表すために帆を下ろして通ったことから付いた名だという。
 
参道は最初の階段からしてかなり異常なもので、こんな急なコンクリートの階段はほかでは見たことがない。日本海側の海岸によくある海から一気に立ちあがる山の急斜面に、一三九段の階段が張り付けるように作られていて、しかもその階段は途中から一段と斜度が増すのである。だから手すりを持たなければこわくて登ることも下りることもできず、下りるときには後ろ向きに下りた。階段に下がっている二本のロープは下りるときのためのものであろう。
 
階段が終わると山道になるが、登山道としても限界にちかい斜度の道なので、全行程にロープが付き、最後の部分は鎖場(くさりば)になっていた。急坂と暑さのために汗びっしょりになり、飲み水を持ってくればよかったと思った。途中にお堂がひとつある。これは女人遙拝堂(にょにんようはいどう)とあり、ここで行程の半分弱である。
 
四五分ほど登ると切り立った崖が見えてきて、道はその崖の中腹へと続き、小さな鳥居をくぐると、崖の中腹を横切って空中に架けられた橋があらわれ、架け橋は十数メートル先で途切れている。その途切れたところの上、十メートルほどのところに岩屋があった。
 
岩屋の下の崖は鎖とロープのついた垂直の壁である。垂直の壁でも鎖があれば三、四メートルなら登れるが、十メートルほどもあるのを見てこれは私の腕力では無理だと思った。へたをすれば崖下まで何十メートルも転落してしまう。
 
その壁には鎖と細いロープが五本ずつ下がっていたが、その鎖の輪の直径がやたらと大きく二〇センチほどもある。こんな大きな輪の鎖を見るのは初めてで、なぜこんな鎖をつけたのか一見したときには分からなかったが、登ることに挑戦したとき理解できた。ふつうの鎖場の鎖は手がかりになるだけであるが、ここの鎖は輪に足がかけられる。つまり足場を兼ねているのである。しかも沢山ぶら下がっているので、狙った輪から足がずれても別の輪に足が引っかかってくれる。そのため私には無理だと思った崖であるが、意外にかんたんに登ることができた。
 
たどり着いた岩屋の大きさは、高さ三メートル、横幅六メートル、奥行き二メートル、広さは六畳ほど。岩屋内部の右側に大きくはないがしっかりと作られた本殿が置かれ、なぜかお酒がたくさん供えられていた。この本殿を作ったときの寄付者と思われる人の名前を記した銅板があって、それによるとこの本殿は四六年前の昭和五一年に建てられたものである。
 
この岩屋は横幅はあるが奥行きのない開口部の大きな岩屋なので、景色の良さは抜群でも、住み心地は夏でもよくないと思うし、ましてや冬にこもるのは無理である。海風がまともに吹き付ける場所にあるから、冬は岩屋全体が雪と氷に埋め尽くされるはずだし、ここまで登ってくることさえ難しいと思う。
 
この岩屋の特徴は眼下に海を見おろすことができること、円空上人関係の岩屋でこれだけ景色のいい岩屋は他にはない。よく見るとさきほどお参りしてきた拝殿が、はるか下の方に小さく見えていた。
 
上人がここにどれくらいの期間滞在したかは不明であるが、一杯の水を手に入れるのも大変な、足を踏み外せば転げ落ちる、うっかり寝返りもできないような、ヒグマの住み家のような場所にある岩屋なので、命がけの修行になったと思う。数ある上人が籠もった岩屋の中でも、もっとも険しくもっとも厳しい岩屋であり、そのためもっとも印象に残る岩屋となった。
 
岩屋内部の本殿が置かれたあたりで夜間に火を焚くと、その明かりは海からよく見える。真っ黒な山影の中の火影は、遠くからでもはっきりと目に付いたはずで、太田権現は灯台の役目も果たしていたといわれる。

     
太田神社の歴史
 
以下は、せたな町観光協会のホームページの記述を元にまとめた太田神社の歴史である。
 
昔この地に住むアイヌの人々は、この山にオオタカモイという神が住むと信じ、その神をあつく信仰していた。
 
享徳二年(一四五三年)、太田地区に上陸した松前藩の開祖、武田信広公は、アイヌの人々が山に向かって祈っている姿を見て自ら山に登り、そこにあった岩屋が神の住む岩屋であると自らも納得し、太田大権現の尊号を贈った。それが太田権現の始まりとされ、以来、太田権現は航海と漁業の守護神として信仰されてきた。
 
文政元年(一八一八年)、岩屋内に本殿が作られ、慶応三年(一八六七年)、山麓に拝殿が建てられた。
 
明治四年(一八七一年)、神仏習合禁止令の布告により太田権現は太田神社となり、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)が祭神となり、廃された仏像や仏具は太田集落の潮音寺に移された。
 
大正十年(一九二一年)、参籠者の失火により岩屋内にあった全てのものが焼失、同年九月に本殿が再建され、新たに参道の中ほどに女人遙拝堂も建てられた。
 
昭和七年(一九三二年)、北海道タイムス新聞が主催して道南の霊場を選んだとき、太田神社は一位に選ばれ、現在も道南五大霊場の一つとして多くの参拝者が訪れている。昔は海岸ぞいの道がなく参拝者は舟で来ていた。
 
拝殿まえの岩上に、安政四年(一八五七年)に作られた道内最古の灯台、定燈篭(じょうとうろう)のレプリカが設置されている。太田の沖は潮の流れが速いこともあって、特に冬の悪天候のとき遭難する船が多かった。そのため太田地区の人たちが船の安全を守るために定燈篭を崖の上に設置したのであった。
 
定燈篭は高さ一・三メートル、幅四〇センチの青銅製の灯器で、上から順に、傘の部分が太、火屋(ほや)部分が田、台座が山、と読めるように作られている。初代のものは明治二二年(一八八七年)に損壊し、現在のものは昭和六三年(一九八八年)に復元されたものである、などがホームページの説明であった。

     
菅江真澄の記録
 
円空上人の来訪から一二三年後の一七八九年四月三〇日に、旅行家の菅江真澄がこの岩屋を訪れて記録を残している。彼は松前から船を乗り継いでここまで北上し、ここから引き返している。その記録を「平凡社文庫。内田武志・宮本常一編訳。菅江真澄遊覧記二」からご紹介する。
 
なお大田集落から海ぞいに北へ抜ける道は最近完成したもので、その途中には北海道本島最西端の雄花岬(おばなみさき)があるが、その部分は隧道になっていて岬に行く道はついていない。
 
「・・・このくどふ(久遠)からおほた(太田)の浦に行く船があるから便乗しようというので、乗せてもらった。途中の景色は潮曇りで分からなかった。すすむにつれて、風が強く吹いてきて波も大きくうねり、帆越という山の岸辺に近づいた。(中略)
 
やがて太田に着いた。二里ばかりの舟路といったが、わずかの間に太田山の麓についたので、運上屋が一軒あるのに入ってしばらく休んだ。それから磯をつたい、岩むらを歩いて、ささやかな鳥居のふたつ立っているところに入った。山はちょうど彩色画のような景色で、夏木立がようやく茂ったさまは、ほかの国の三月の半ばから末ごろ、あるいは四月のはじめとも見えた。(中略)
 
路傍の木の根を刻んだ斧ぼりの仏像に、衣を着せて手向けしているのもおもしろく、尊かった。太田山のいわくら(磐座。神の居ます岩)もやや近くなったのであろう、高くそびえたって、とてものぼることもできないような岩の面に、二尋(ふたひろ)あまりの鉄の鎖がかけてあり、これをちからにたぐりのぼると、窟(いわや)の空洞にお堂がつくられてあった。ここに太田権現が鎮座しておられた。(中略)
 
斧で刻んだ仏像が、このお堂内にたいそう多く立っておられるのは、近江の国の円空という法師がこもって、修行のあいまに、いろいろな仏像を造っておさめたからである。また別の修行者も、近ごろこの窟にこもって、はるばると高い深谷をへだてた岩の面に注連(しめ)を引きまわし、高下駄をはいて山めぐりをしていた。その足駄がなおのこっている。小鍋、木枕、火打箱などが岩窟の奥においてあるのは、夜ごもりの人のためであるとか。
 
神前の鈴をひき、ぬかずいて拝んでから、外に出て、いささか岩の上を伝っていくと、また岩の空洞があったが、そのなかにも円空の刻んだ仏像があった。しばらくたたずむうちにも、苔のしずくは雨のように落ち、谷は雲にふかくとざされて、さらにこの世とも思われぬ静けさのなかに、仏法僧(ぶっぽうそう。鳥の名)の声が聞こえてきたので、(同行の)超山法師は、ああ尊い、と数珠をもみ、ふりあおいで見わたしたが、雲がいよいよ深くとざして、どこともしれなかった。
 
やがて山を下りようと坂の上にたたずむと、沖はたいそう暗く、おこしり(奥尻島)の島山も隠れて、先刻休んででてきた運上屋は、稲穂などを刈り束ねたさまに小さく見下ろされた・・・」
 
文中に「二尋あまりの鎖がかかっていた」とあるが、二尋はおよそ三・六メートルであるから、この長さの鎖ではここの崖は登れないと思う。真澄の時代には鎖場の場所が今とは違っていたのかもしれない。

  
礼文華窟
 
二〇二二年九月十日(土)。晴
 
礼文華窟は虻田郡(あぶたぐん)豊浦町(とようらちょう)にある。そこは豊浦町の西のはずれ、長万部町(おしゃまんべちょう)に近い人家のまったくない寂しい海岸である。
 
礼文華窟探検の出発点は礼文華トンネル西口すぐの山側にある駐車場、この駐車場は七・八台分の広さがあり、トンネル名は出入り口の標識で確認できる。道は国道三七号線であるが、この区間は二三○号線が重複している。
 
夜が明けてすぐの早朝、山靴に履きかえて出発。礼文華窟へ下りる道は国道の反対側にある。国道を渡ると意外に広い道があらわれ、舗装もされているがすぐに砂利道にかわる。この道は日本一の秘境駅として知られる小幌(こぼろ)駅に下りる道でもある。
 
道の入口に立入禁止の標識があるが、これは車に対するもの。そこから一五〇メートルほど進むとまた立入禁止の標識があり、この二つ目の標識の場所が重要であった。ここから小幌駅へ行く道が右へ分岐していたのだが、細い道だったので私は気づかずにそのまま林道を進んでしまった。これは大失敗であった。そこに杖代わりの木の枝がたくさん立てかけてあったので、何か変だと感じながらも確認しなかったのがいけなかった。
 
そのまま林道を二五分ほどゆるやかに下っていくと道が分岐し、礼文華窟は右という標識があった。念のために左の林道を覗いてみるとすぐ先で終点になっていた。右の道を行くと、道はすぐに山道になり、下るほど道は悪くなる。小さな流れにそって下り、四回ほど徒渉した。
 
その道ぞいには笹と大きなイタドリ、所々に大きなフキも生えていて、フキの大きなものは傘ほどの大きさがあった。もっとも巨大イタドリと巨大フキは北海道内ではまったく珍しいものではない。トチの実が落ちていたので見上げると頭の上にトチノキの巨木、中がうろになったトチの巨木もあった。
 
出発して四〇分で海岸に到着。そこは小さな入り江になっていて、入り江の右奥の岩陰に礼文華窟はあった。
 
礼文華窟は明らかに海蝕洞と分かる岩屋、入口の高さ四メートル、横幅八メートル、奥行き十メートルといったところ、中はかなり広い。岩屋の前に岩屋観音堂と書いた標識があるから、洞窟の名は礼文華窟、中にあるお堂が岩屋観音堂ということだろうか。
 
岩屋の前に流木で作ったようなひなびた鳥居が立っていて、岩屋に入ると左右に置かれた机の上に円空仏が三体ずつ並んでいた。もちろん模造品であるがよくできている。ほかにはお地蔵さま一体と狛犬と灯籠などがあり、それらの奥に真っ赤な鉄製の鳥居が立っている。この鳥居のあたりまで入ると暗くて写真がとれなくなった。
 
そして岩屋のいちばん奥にコンクリートブロックで作った小さなお堂があった。これが岩屋観音堂であろう。戸を開けて入ると三畳ほどの板の間、全体にゴザが敷いてある。正面の檀上に円空仏が一体、その後ろの鍵のかかった格子の中に本尊さま代わりと思われる写真がかかっていた。暗くてよく見えなかったが、元ここにあった円空仏の写真ではないかと思う。
 
岩屋の外の入り江の中央には屋根が赤、側面が青のよく目につく色の建物が建っている。国指定史跡善光寺巌屋観音庫裡と表札が出ていて、横に簡易トイレが二つあった。建物の左右に小さな流れが落ちて来ているから、水には不自由しない場所である。
 
案内板に祭礼が毎年九月十六日と十七日におこなわれるとあった。道がきれいに草刈りされていたのはそのためであろう。草むらのなかに湯釜がひとつ放置されていた。錆びついてはいるがまだ使える大きな釜である。何に使っていたかは不明。
 
音がするので海の方を見ると漁船が近くを通っていた。その後ろの海の向こうに町が見え、あとで地図で調べたら森町(もりまち)か八雲町(やくもちょう)あたりの町並みであった。ここから見る噴火湾は完全に陸地に囲まれていて湖のように見える。
 
ここの入り江の波打ち際は丸い石がごろごろと埋め尽くす石の浜、ゴミの多いのが残念。入り江の中に船を着けるための浮き桟橋が係留されていた。入り江の入口部分の岩場には隙間なく貝のようなものが付着しており、その岩場を歩いて右側の入り江の外へ行けそうに見えたので、貝のようなものを踏んで行ってみたが、踏み跡がまったく確認できなかったので引き返した。ここから小幌駅へ直行する道があるはずだが、結局、見つけられなかった。
 
楽しみにしていた礼文華窟の探訪を終えて車の近くまで登り返したとき、先述した小幌駅へ下りる道を発見し、秘境駅に興味はなかったがせっかく来たのだからと駅を見に行った。こちらの道も小さな流れに従って下る道、駅までは二〇分ほど、五回ほど徒渉した。道は礼文華窟への道よりはましであった。
 
小幌駅は二つのトンネルにはさまれた小さな谷間にある小さな無人駅、その二つのトンネルは百五十メートルほどしか離れておらず、周辺には一軒の家もなく、なぜこんなところに駅を作ったのかと誰しも不思議に思う駅である。しかも単線のはずなのにトンネルは二つずつある。つまり四つのトンネルが口を開けている。これはここですれ違いをするための設備ではないかと思った。
 
駅の反対側に道が二本あって、一本は礼文華窟へ行く道、もう一本は文太郎浜へ下りる道とあったので、礼文華窟への道を少し進んでみたが、岩屋までそこそこ距離があるはずだし、岩屋からの急坂をまた登るのが嫌だったので引き返した。この道はよく踏まれた道なので、礼文華窟の周辺をもっとよく探せばこの道の入口を見つけられたと思う。この礼文華窟へ下りる道は、円空さんを調べていた民俗学者の五来重(ごらいしげる)氏が、滑って転んで下りるのをあきらめたという道である。
 
以上のことから、小幌駅と礼文華窟の両方を見学するときは、小幌駅へ先に行くのが正解だということが分かる。
 
駅へ引き返したとき一両だけの列車が入ってきて、八名の男女が降り立った。荷物から判断すると釣り人たちのようである。おそらく文太郎浜とやらで釣りをするために来たのだろう。

     
菅江真澄の記録
 
菅江真澄は一七九一年六月七日に礼文華窟を訪れている。すこし分かりにくい文章であるが、そのときの記録を「菅江真澄遊覧記二」からご紹介する。
 
「・・・なお漕ぎすすんでケボロオヰというところに至った。ここに岩屋の観音というのがある。舟をつけてこの窟に入ると、たいそう長いまたぶりの木(二股になった木)の棹などが横たえてあり、それにアヰノ(アイヌ)の漁具などをあれこれと、自在鉤をはじめ、すきまもないほどたくさんかけてあった。
 
なお奥深く入ると、五体の木造の仏をならべておいてある。その中の丈の高い仏像の背面にかいてある字を見ると、『寛文六年(一六六六年)丙午七月。始登山。うすのおくの院の小島。江州伊吹山平等岩之僧円空』と記し、いまひとつには『いわうのたけごんげん』、その次の立たれている像には、『くすりのたけごんげん』と背面ごとに書かれてある。
 
三番目の仏の背の部分の半ばは朽ちて、文字は読み解きがたく、四番目は『たろまへのたけごんげん』と、おなじように背の方にしるしてあった。この五柱の仏像はみな円空法師の作であることは、そう記してあるから知られた。この五体の仏が据えられた場所には、それと見わけることもできないほど、新しいのや古いのやイナヲ(神に捧げる御幣のごときもの)が数多く取りかけてある。
 
またこちらにむいて、かぶさるようにみえる窟のあるところには、笹小屋がその内に作ってあった。むかって右手にちいさい鳥居が見えるのは、何の神がおわしますのか、この仏の窟に反対向きになってたっていた。
 
窟の仮屋にはいってみると、鬚のたいそう長く、眼のおおきなアヰノが、ヘカチ、カナチ(子供ら)をかたわらにすわらして、ひとつの高床を清め、新しいシタラヘ(あや模様)のむしろを敷いて、手をあげ、手をすりあわせ、レキ(鬚)をなでて、れいのようにウムシヤ(挨拶)をした。
 
やがてここを漕ぎ出てみると、岩の姿はことにおもしろく・・・」
 
これらの記録から、円空さんがここを訪れて作仏したのは一六六六年七月であったこと、この岩屋がアイヌの人たちの聖なる場所になっていたことなどが分かる。
 
この記録には五体の円空仏が出てくるが、三番目の仏とあるのは四番目の仏、四番目とあるのは五番目でないと理屈に合わない。
 
そして一番目の仏像に書かれた「うすのおくの院の小島」は洞爺湖にある観音島の観音堂のこと、二番目の「いわうのたけごんげん」はこの礼文華窟の岩屋観音のこと、三番目の「くすりのたけごんげん」は釧路の岳権現、四番目は不明、五番目の「たろまへのたけごんげん」は樽前の岳権現のこととされ、これらの円空仏は後年その場所に松田伝十郎(まつだでんじゅうろう)によって届けられ安置されたという。松田伝十郎は間宮林蔵とともに樺太調査をした幕府の役人である。

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