羽黒山の行場
二〇二二年九月八日。(木)。晴
山形県鶴岡市(つるおかし)にある羽黒山(はぐろさん)は、日本三大修験道のひとつ羽黒修験道の根本道場になっている山。この山の年間の参拝者は百八十万人といわれ、山の下には多くの宿坊が軒をつらねている。
羽黒山にはいちど登ったことがあるが、そのときは登山を目的とする旅の途中だったので、この山を登山の対象とは認めず、有料道路を利用して車で登ったのであった。ところが参道の杉並木が特別天然記念物に指定されていることを知り、また友人から「そこまで行っていながら参道を歩かない手はない」と言われ、「五重の塔までは歩きましたよ」と答えると、「五重の塔なんて参道のほんの入口じゃない」などとけなされ、それ以後この山の参道のことが気になっていたのである。
そして最近、植物に対する興味が増大したこともあって、その特別天然記念物の杉並木を見るべくやって来たのであった。
その国宝級の参道はほとんどが階段になっていて、段数は二四四六段、距離は二キロメートル、所要時間は登り五〇分、下り四〇分といったところ。ところがその階段は一段一段の高さや幅がまちまちで歩きにくく、しかも苔で滑りやすくなっている部分もあって、下りはとくに気が抜けなかったが、その階段をランニングのコースにしている人がいた。
巨大杉の群れは森というべき姿でそびえ立っていた。道の両側にかなりの奥行きをもって植えられているため、並木というより森と呼ぶべき広々とした景色なのである。これはまちがいなく日本一の杉並木だと思った。
そしてこの参道は羽黒修験道の中心となる行場でもあるらしい。ほかにはこの山で行場らしきものは見なかったのであるが、ここだけでは修験道の行場としてはもの足りない、ということで、その足りない分は月山(がっさん)と湯殿山(ゆどのさん)が引き受けているということのようである。
参道の出発点は随神門(ずいしんもん)であるが、この門の先がよかった。神社にしても寺にしても門をくぐった先には上り階段があるものだが、ここは下り階段になっているのである。こういう参道の入口はほかでは見たことがない。
その入口部分の急な下り階段が終わると、祓川(はらいがわ)にかかる御神橋(ごしんきょう)を渡る。この川が入山時の水垢離場(みずごりば)になっていると解説板にあったが、体を沈められるような淵は見あたらなかった。御神橋の右側に須賀(すが)の滝が落ちている。これは水を引いて作った人工の滝とあり、あるいはこの滝が水垢離場かとも思ったが、滝行のできる形ではなかった。
その滝の先にこの杉並木で最大最古という爺杉(じじすぎ)がある。樹齢千年以上というこの杉の古木は別個に天然記念物に指定されていて、対になる婆杉(ばばすぎ)もあったというが、明治三五年の台風で倒れたという。そして爺杉のすぐ先に国宝の五重塔があり、その先はひたすら上り階段がつづく。参道ぞいには小さな神社がたくさんあった。
歩いたのは夜が明けたばかりの早朝だったのでほとんど人に会わなかったが、すこし登ったところで修験道の行者さん二人に追い抜かれ、そのうしろ姿を見てこれはいい被写体ができたと、つかず離れずで後を追った。
標高四一四メートルの山頂には、羽黒神社、月山神社、湯殿山神社、という三つの神社の額のかかる三神合祭殿(さんじんごうさいでん)がある。これら三社の祭礼はすべてここで行っているというから、この建物は三社共通の本殿であり、鮮やかな朱塗りの社殿なので新しく見えるが、建ってからすでに二百年以上たっている。
二人の行者さんは山頂に着くと、鏡池(かがみいけ)をへだてた場所から三神合祭殿前に向かって、長々と何かを唱えたり、法螺貝を吹いたりしていた。なお山頂には奥の細道を旅する芭蕉翁の像がある。翁は羽黒山から月山に登り、湯殿山方面に下山している。
ここで簡単にこの神社に関係する言葉の解説をしておきたい。以下のことを知らないとこの山の解説を読んでも理解しにくいのである
出羽三山とは羽黒山、月山、湯殿山の三山。この三山が羽黒修験道の行場である。
日本三大修験の山は、羽黒山、大峰山(おおみねさん)、英彦山(ひこさん)。この場合には羽黒山の中に月山と湯殿山も含まれていると考えるべきだろう。
出羽の国は山形県と秋田県を指す古代の地名。
ここの修験道の名は羽黒修験道。出羽修験道ではない。
出羽三山神社は、羽黒神社、月山神社、湯殿山神社、の三社を一まとめに呼ぶ呼称。このことを知らないと出羽三山神社はどこにあるのかと混乱することになる。
月山神社があるのは月山山頂。湯殿山神社があるのは湯殿山の中腹。ところが羽黒神社は別個には存在しないらしい。つまり三神合祭殿が即羽黒神社ということらしい。
なお湯殿山は山全体がご神体ということで山頂は立入禁止になっている。そのため私は二〇年ほど前の月山登山のとき、その登山道の近くにある湯殿山山頂を踏まなかったが、山頂までかすかに踏み跡はついていた。
出羽三山の開祖
山頂では出羽三山の開祖とされる蜂子皇子(はちこのおうじ。はちこのみこ)の墓にお参りした。この墓は宮内庁管理とあり、東北地方で唯一の皇族の墓とある。また皇子を祭神とする蜂子神社が三神合祭殿の横にある。
神社のホームページなどによると蜂子皇子は、欽明(きんめい)天皇二三年(西紀五六二年)に、崇峻(すしゅん)天皇の第三皇子として生まれ、容貌が醜く魁偉であったので蜂子皇子と称されたという。そのため肖像画に描かれる皇子の容貌はきわめて怪異である。
ところが崇峻天皇五年に、父の崇峻天皇が蘇我馬子(そがのうまこ)に暗殺されたので、皇子は聖徳太子の助けにより宮中を脱出、現在の京都府宮津市由良(ゆら)から船で北へ向い、山形県鶴岡市由良にたどり着いた。そして八乙女浦(やおとめうら)の舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、その近くの海岸に上陸した。八乙女浦の名はこの八人の乙女に由来する。
その後、蜂子皇子は三本足のカラスに導かれて羽黒山に登り、羽黒権現を感得して羽黒山を開き、さらに月山と湯殿山を開いた。羽黒山の名はこのカラスに由来するという。
この地で皇子は衆生済度のために尽力し、能く人々の苦悩をとり除いたので、能徐仙(のうじょせん)とか能除太子(のうじょたいし)と呼ばれた。能除は般若心経の一節、能所一切苦に由来するという。またその怪異な容貌は、人々の悩みを真剣に聞いたことでなったともいわれている。
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