杓子の岩屋の話
二〇二二年六月二十三日。(木)。曇
今回ご紹介するのは、槍ヶ岳開山で知られる播隆(ばんりゅう)上人に関係する二つの場所、杓子(しゃくし)の岩屋と一心寺(いっしんじ)というお寺。杓子の岩屋は上人が三六歳のときに修行した岩屋であり、一心寺は上人が開山した寺である。
杓子の岩屋は、岐阜県高山市上宝町(かみたからちょう)岩井戸(いわいど)の山中にあり、上宝町があるのは槍ヶ岳や笠ヶ岳(かさがたけ)などの岐阜県側のふもと、そして上宝町を通る国道四七一号線ぞいにつらなる小さな集落が岩井戸の集落である。
岩井戸の集落を国道四七一で西から東へ向かって進むと、まず左側に杓子の岩屋へ行く道、それから右側の高原川(たかはらがわ)の流れの中に夫婦岩(めおといわ)、そして左側に字書岩(じかきいわ)が現れてくる。だから夫婦岩まで行ったら行き過ぎである。なお字書岩というのは日露戦争の司令官の一人、乃木希典(のぎまれすけ)大将揮毫の「皇威輝八紘」を彫った大岩のこと。
杓子の岩屋へ行く道の分岐点には小さな案内板が立ち、そこから百メートルほど奥に播隆上人名号碑と小さなお堂がある。このお堂の中を見ることはできなかった。その先に簡易トイレがあり、トイレ横に杖がたくさん置いてあったので、ここが杓子の岩屋への出発点になっているらしかった。なおこのあたりには車をとめる場所がなく道幅も狭い。だから車は少し離れた夫婦岩の駐車場にとめるのが正解だと思う。
ということで杖を一本とって歩き始める。岩屋まで一・二キロとあり、ゆっくり歩いても登り三〇分、下り二〇分といったところ。道はよく整備されていて最後の登り以外は問題なく歩ける。初めは軽トラならなんとか通れる未舗装の道、七百メートルほど川ぞいに進んでから、道標に従って右側の尾根に取りつく。軽トラが入れるのはここまでである。その先は徐々に傾斜がきつくなり、やがて小さな祠が見えてくる。この祠は山の神をまつる大山祇(おおやまづみ)神社の奥の院、その屋根は一つの石でできていた。
祠の周辺には紫色のホタルブクロがたくさん咲いていた。私の寺の裏山でもホタルブクロはたくさん咲くが色は白ばかりである。そしてこの祠の百メートルほど先に杓子の岩屋がある。岩屋の下に「御神水→」という案内板が立っていたので、近くに水場があるらしいが見に行かなかった。
杓子の岩屋は高さが四〇~五〇メートルもある崖の下に口を開けていた。播隆上人がここで修行したのは文政四年(一八二一年)、上人三六歳のときのことで、この岩屋は「笠ヶ岳再興、発願の岩屋」とされている。上人は念仏の行者であるから、おそらくここで念仏を称える修行をしたのだろう。
この岩屋の名前は岩屋内に立つ解説板では釈氏窟(しゃくしのいわや)となっていて、「岩屋の表にある杓子状の岩面に六字名号(ろくじみょうごう。南無阿弥陀仏)を印したことから杓子の岩屋とも呼ばれる」と説明があったが、その六字名号は風化したのか見あたらなかった。
ただし私が岩屋を見たときの感じでは、縦長の岩屋の形が杓子に似ていることから杓子の岩屋、あるいは右側奥で天井を支えるように立つ縦長の岩が杓子に似ていることから杓子の岩屋と呼ばれていたのが、いつしか釈氏の字が当てられるようになったのではないかと思った。なお杓子には汁用と飯用があり、現在では汁用をお玉杓子、飯用をしゃもじと呼ぶ。だから杓子の岩屋はしゃもじに似ているということである。
岩屋の床は奥へ行くほどせり上がっているので、奥の方は石垣を積んで人の背丈ほどの舞台のように一段高くなっていて、はしご段がかかっていた。
岩屋の中には祠が二つ。一つはいちばん奥の狭いところに置かれた高さ五〇センチほどの小さな石の祠、中に奉祀大山祇神霊と書いた木札が入っていた。もう一つは岩屋の正面にまつられた高さ一メートルほどの木の祠、こちらはカギがかかっていて中を見ることはできなかった。ほかには小さな石灯籠が二つあるのみ。
天上は高いところでは十メートルほどの高さがあるが、高さの割に奥行きがなく、風向きによってはまちがいなく岩屋の奥まで雨や雪が吹きこむ。だからこの岩屋で長期間の修行するには、雨と風を防ぐ小屋のようなものが必要である。
周囲は杉の植林帯に囲まれているが、上人の時代には岩屋の中から美しい自然林を眺めることができたと思う。左手にもう一つ小さな岩屋らしきものもあったが、奥行きがなくこもるのは無理である。
上宝ふるさと館
岩屋の近くにある上宝ふるさと館には播隆上人コーナーが設けられている。この施設の住所は高山市上宝町本郷五八二の一二。このコーナーには播隆上人の名号軸が二本展示されていて、上人の略年表もあった。それによると上人は以下の生涯を送った人である。
一七八六年。越中の国、新川郡(にいかわぐん)川内村(かわちむら)に生まれる。この村の現在の住所は富山市河内であるが、いまは廃村になっているという。
一八一四年(二九歳)。江戸本所の霊山寺(れいざんじ)で浄土宗の僧になる。
一八二一年(三六歳)。上宝村の杓子の岩屋にこもる。
一八二三年(三八歳)。六月頃、一度目の笠ヶ岳登頂。
一八二四年(三九歳)。村人六六人とともに四度目の笠ヶ岳登頂。ご来迎(らいごう)を拝む。
一八二五年(四〇歳)。伊吹山の播隆屋敷で修行する。
一八二六年(四一歳)。一度目の槍ヶ岳登頂。ただしこれは史上初の槍ヶ岳登頂ということではないと思う。
一八二八年(四三歳)。七月二〇日、二度目の槍ヶ岳登頂。仏像を安置して槍ヶ岳開山を果たす。八月一日、穂高岳に名号碑を建てる。山上で念仏修行。
一八三三年(四八歳)。三度目の槍ヶ岳登山。登山道整備。山上で念仏修行。
一八三四年(四九歳)。四度目の槍ヶ岳登山。登山道整備。山上で念仏修行。
一八三五年(五〇歳)。五度目の槍ヶ岳登山。山頂直下に登山のための綱を設置。山上で念仏修行。
一八四〇年(五五歳)。中山道(なかせんどう)の太田宿(おおだじゅく。美濃加茂市)にて死去。
上宝町は円空上人とも縁の深い町なので、ふるさと館には円空上人コーナーもあって、そこには二十数体の円空仏が展示されていた。上宝町内には一五二体の円空仏と五幅の円空上人の名号軸が残り、上宝を詠んだ上人の和歌十二首も伝わっている。また上人は笠ヶ岳に登ったこともある。そうしたことから考えると上人は杓子の岩屋にこもったこともあると思う。岩屋ごもりの好きな上人がこもらなかったとは考えにくいのである。
播隆上人は円空上人を尊敬し、常に円空仏を笈摺(おいずる)に入れて持ち歩いていたという。その観音像は播隆上人が開山した揖斐川町(いびがわちょう)の一心寺に伝わっているという。なお円空上人は播隆上人が生まれる一五四年前の生まれである。
ふるさと館の近くにある本覚寺(ほんがくじ)も播隆上人と関係の深い寺である。この寺の椿宗(ちんじゅう)和尚との縁で、上人は途絶えていた笠ヶ岳参拝登山を復興し、それが槍ヶ岳開山へとつながったのであった。本覚寺は飛騨三十三観音の二四番札所になっている臨済宗妙心寺派の寺、境内には市の天然記念物になっているイチョウの木もある。この寺の住所は上宝町本郷一四二五。
一心寺
二〇二二年七月十一日。(月)。曇
城台山(じょうだいさん)一心寺は天保元年(一八三〇年)に播隆上人によって開山された寺。当初は阿弥陀堂と呼ばれ、のちに一心寺と改称された。この寺の住所は岐阜県揖斐川町三輪(みわ)二九二四の二の二。宗派は浄土宗。
一心寺があるのは城代山の中腹。ここへ歩いて登る場合は、山麓にある三輪神社が出発点になる。車で寺の近くまで登ることもでき、その場合、一車線の狭い道なので対向車があると困るがその心配はほとんどないと思う。狭い道をのぼっていくと、どん詰まりに高さ三~四メートルの白い城台観世音菩薩像が立っていて、その下が四台分ほどの小さな駐車場になっていた。この駐車場は小さなあずま屋の建つ景色のいい展望台でもある。ここから伊吹山が見えるはずが、どの山か分からなかった。一心寺はこのすぐ上にある。
一心寺は一見して無住と分かる状態の寺、本堂も庫裡も小さいがそれでも鐘楼を備えていて、本堂と鐘楼が朱に塗られているため建物の大きさの割に豪華な寺に見える。播隆上人が大切に持ち歩いていた円空作の観音像がこの寺にあるはずだが、人っ子ひとりいない寺なので見ることはできなかった。
本堂の後ろに歴代和尚の墓が並んでいて、その中央に播隆上人の墓があった。立ちならぶ石塔から判断すると、この寺は最近は尼寺になっていたらしい。
寺の裏に揖斐(いび)城址まで四五〇メートルという道標があった。一心寺はもとは揖斐城址のすぐ下にあったが、明治二四年の濃尾地震で大きな被害を受け、現在地に再建されたのであった。その元あった場所を見たかったが、この日のあまりの暑さに同行者がへたばってしまい断念した。ネットの情報によると、そこには播隆上人の墓所が残っているとある。おそらく移転する前の墓所であろう。
伊吹山には播隆上人に関係する場所が二か所ある。一つは「播隆上人屋敷跡」、もう一つは「めざめの滝」、いずれも上人が修行した場所であるから、一度訪ねてみたいと思っているが、道がよく分からない。ネットの情報によると、今は両方とも伊吹山ドライブウェイから行くことになるらしい。
せっかくここまで来たことだし、何か発見があるかもしれないと、伊吹山の東側のふもとを通る県道二五七も走ってみた。この県道はマタタビの木の多い自然ゆたかな道であったが、格別の発見もなく、さざれ石公園がある春日河合古屋(かすが・かわい・ふるや。これで一つの地名になっている)の集落から先は不通になっていた。不通区間は垂井町(たるいちょう)までとあり、この区間は不通が常態化しているように見えた。なお、さざれ石公園にあるさざれ石は国歌「君が代」で歌われた石とあったが、他のさざれ石でも同じような解説を読んだ記憶がある。
一心寺から車で十数分のところに西国観音霊場の第三十三番札所、谷汲山(たにぐみさん)華厳寺(けごんじ)がある。ここは西国霊場めぐりの結願の寺であるが、新型コロナの影響なのかみやげ物屋などの多くは閉店していた。
美濃の国の一の宮、南宮大社(なんぐうたいしゃ)の奥の院でも上人は修行したとされるが、南宮大社に奥の院は現存しない。おそらく裏山の南宮山のどこかにあったのだろう。この神社の住所は岐阜県不破郡(ふわぐん)垂井町(たるいちょう)宮代(みやしろ)一七三四の一。この神社は関ヶ原の戦いの古戦場にある。
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