円空上人の修行の地めぐり
 
円空上人(えんくうしょうにん。一六三二年頃~一六九五年頃)は生涯に十二万体の仏像を彫ったという人。今でも五千体ほどの円空仏が残っているという。上人の経歴には不明な点が多く、生年、没年、生家の場所などは確定していないが、現在の岐阜県羽島市で生まれ、若くして出家し、三〇歳ごろに仏像彫刻を開始、諸国遊行の旅に出ておもに東日本をまわり、遊行の西のはずれは滋賀県から奈良県にかけて、という生涯を送ったとされる。
 
一六六五年には北海道へ渡って二年間滞在して多くの仏像を残し、また一六七四年には志摩半島を回ったことが分かっている。
 
晩年は生まれ故郷の地で円熟した境地の仏像を残し、七月十五日の盂蘭盆の日に、岐阜県関市の弥勒寺(みろくじ)で六四歳で亡くなったとされる。弥勒寺は上人が再興した自坊というべき寺、この寺には上人のお墓があり、その下の長良川河畔には入定塚もあるが、没年とか臨終の詳細は明らかではない。
 
上人は弥勒寺を天台宗の末寺に加えたので、上人の身分は最終的には天台宗寺院の和尚ということになるが、上人の本質は修験道の行者であったと思う。そう思う理由は、行く先々で山岳修行をしたり、岩屋にこもったりしているからで、岩屋ごもりは修験道で重視される行の一つである。そして上人がこもった岩屋の代表が、大峰(おおみね)山系の大普賢岳(だいふげんだけ)にある笙の窟(しょうのいわや)であった。
 
この岩屋は大峰修験の秘所とされる行場であり、ここでは山が雪に閉ざされる冬の間中こもる修行もおこなわれていたので、おそらく円空上人も冬ごもり修行をおこなったのだと思う。そのときには岩屋の中に小屋掛けをしてこもったのだろうが、それでも寒さと孤独と粗食に耐える一冬になったと思う。都市に住む人には分からないと思うが、山中で体験する孤独と暗闇は想像以上に恐ろしいものであり、それに耐えるのが修験修行の眼目だったのである。
 
北海道滞在中にも、せたな町の太田(おおた)権現の岩屋や、豊浦町(とようらちょう)の礼文華窟(れぶんげくつ)にこもって作仏している。上人はそういうところで作仏するのを好んだようである。

  
大峰山の岩屋
 
 二〇二〇年十月三〇日(金)晴のち曇
 
奈良県吉野郡にある大普賢岳(だいふげんだけ。一七八〇メートル)は、修験修行で知られる大峰山の中でもとくに険しい峰、そのためその山頂は大峰山脈縦走の奥駈道(おくがけみち)に七五か所ある行場の第六三番の行場になっている。そしてその支峰である日本岳中腹の崖下に、笙の窟(しょうのいわや)を筆頭とする四つの岩屋群が口を開けている。
 
大普賢岳の登山口は和佐又山(わさまたやま)ヒュッテ跡にある。ここには以前はスキー場、キャンプ場、ヒュッテなどがあったが、この秋に和佐又山ヒュッテが解体されたことで、ここでの事業はすべて終了したらしい。そのためヒュッテ跡にある駐車場もトイレも使えず、徒歩で十分ほど戻ったところにある空き地が登山者用駐車場になっていた。おそらくこの辺りの道はこれからは荒れる一方だと思う。
 
大普賢岳を目指して登っていくと、道はやがて険しい岩場の下へと導かれていく。そこにまず登場するのが指弾(したん)の窟。これはほとんど奥行きのない小さな岩屋、指弾の名の由来は不明であるが、こんな岩屋ならこの辺りにいくらでもある、これではとても籠もったりできない、とつまはじきされる岩屋、指弾される岩屋ということでこの名が付いたのだろうか。
 
この岩屋の中にあったのは十五枚ほどの木の札のみ。これはおそらく行者さんが行をしたとき残したものなので、この札が置かれたところは行場と考えていいのだろう。なお指弾は「したん」と読み、ここでは窟はすべて「いわや」と読む。
 
つぎが朝日の窟。到着したときちょうどこの岩屋に朝日が射していたので、東向きに口を開けた朝日の当たる岩屋、というのが名前の由来と考えてまずまちがいない。奥行きのない岩屋の中には大峰満山護法□と彫った石が安置されていた。
 
笙の窟。これが大峯山の秘所とされる岩屋。標高一四五〇メートルにある奥駈道第六二番の行場。洞窟というよりも崖下にできた奥行きと幅のある大きなくぼみというべき岩屋であり、天井は奥に行くほど低くなる。横幅十数メートル、奥行きは七~八メートルほどであろう。岩屋の中のお堂に不動明王がまつられていたので、着くとまず読経をした。
 
この岩屋の上の崖はとくに見事な壁になっていて、覆いかぶさるようにそびえるこの岩壁が、楽器の笙に似ていることから笙の窟と呼ばれるとあるが、そう思って見ると笙の形に見えなくもない。笙は鳳凰をかたどった楽器といわれ、音も鳳凰の鳴き声を模したものとされる。その岩壁を見上げていたら、はるか上の方から水滴が降ってくるのが見えた。この壁はオーバーハングになっているのである。
 
岩屋の中にも水がしたたり落ちていて、下に置かれた鉢にきれいな水が貯まっていた。この水が不動明王に供える閼伽水(あかみず)であり、お供えの花の水であり、そして岩屋ごもりしたときの飲用や生活用の水なのであろう。この水のせいだと思うが、写真を見ると厳冬期のこの岩屋の中はつららだらけの状態になっていた。
 
「こけむしろ、笙窟(しょうのいわや)にしきのへて、長夜(ながきよ)のこる、のりのともしみ」。これは円空上人がここに籠もったときの歌。「昨日今日、小篠(の)山ニ、降(る)雪は、年の終の、神の形かも」。これは山上ヶ岳ちかくの小篠(こささ)の宿(しゅく)での冬ごもりの歌。
 
鷲(わし)の窟。笙の窟のすぐ横にあるこの岩屋の名は、岩屋の上に突き出た岩に由来する。その岩は横から見ると鷲の頭に見え、また人の横顔にも見える。岩屋の中には役の行者と、前鬼(ぜんき)と後鬼(ごき)という従者夫婦の石像がまつられていた。「しつかなる、鷲窟(わしのいわや)に、住なれて、心の内は、苔のむしろ□」。これも円空上人の歌。□は虫食いで判読不可の字。以上の四つが今回の旅の第一目的の岩屋群であった。
 
つぎは今回まわったほかの岩屋のご紹介、ただしこれらが円空さんと関係があるかどうかは不明。
 
無双洞(むそうどう)。これは七曜岳(しちようだけ)の中腹に口を開ける水を激しく吐き出す鍾乳洞、籠もるどころか入ることもできない洞窟であるが、水量が減る冬には洞窟探検ができるとか。この洞のすぐ下に水簾(すいれん)の滝がある。急流が続くこの滝周辺の雰囲気はよかった。
 
底なし井戸。これは無双洞の近くにある石灰岩台地に特有の垂直の縦穴。覗いても底は見えず、もちろん籠もることなどできない。周囲には石灰岩の険しい崖が続いていた。
 
蟷螂(とうろう)の窟と蝙蝠(こうもり)の窟。この二つは山上ヶ岳(さんじょうがたけ)の登山口、洞川(どろがわ)温泉郷の奥にある鍾乳洞。川岸に鍾乳洞が二つ並んで口を開けている。これらは役の行者が修行したと伝わる洞窟であり、修験者が入山前に行をする一の行場になっている。両洞とも三〇メートルほど奥で通行止めになっているので奥行きは不明。
 
なお蟷螂とはカマキリのこと。蟷螂の窟は入り口部分の天井が低く、腰をかがめなければ入れない。その腰をかがめた姿がカマキリに似ているということでこの名が付き、腰を低くして生きなさいという教えが説かれることになる。この洞窟の中に滴り落ちている水はご神水とあった。また、こうもりの窟の名は、籠もりの窟と呼ばれていたのがコウモリが棲んでいることからコウモリの窟になったとか。これらの洞の前を流れる川の雰囲気はよかった。
 
なおこの二つの洞の近くに車をとめる場所はなく、県道二一号を二百メートルほど進んだゴロゴロ水の水汲み場の駐車場にとめるしかなかった。ゴロゴロ水はゴロゴロと音を立てて湧き出す水のこと、たくさんの人がこの水を汲みに来ていたことには驚いた。中には数十もの容器持参で来ている人もいた。一リットル汲んでも一トン汲んでも駐車料金は五百円均一、水源はすぐ上にある五代松鍾乳洞付近、ただし湧出する場所で汲むことはできない。水のうまいまずいは水温次第と思っていたが、ここの水のうまさは水温のせいだけではなさそうである。
 
ついでに国道一六九ぞいにある鍾乳洞、不動窟(ふどうのいわや)も見学するつもりでいたが営業していなかった。
 
岩屋ではないが天川村(てんかわむら)栃尾(とちお)の観音堂にも立ち寄った。ここはいかにも円空さん好みとおもわれる山里集落、洞川温泉の近くにある。小さなお堂のなかに円空仏が五体まつられていて、中に入ってガラス戸越しに円空仏を見ることができる。円空さんはこのお堂に籠もって作仏したのだろうか。それとも笙の窟で彫ったものをここに収めたのだろうか。近くにある天河大弁財天にも円空仏があるはずだが、それは見学できなかった。
 
「大峰や、天川(あまのかわら)に、年をへて、又くる春に、花を見(る)らん」。これも円空さんの歌。天川は天川村のこと。

  
伊吹山の円空岩

 二〇一九年十一月七日(木)。晴のち曇
 
伊吹山(いぶきやま。一三七七・三三メートル)は滋賀県で唯一の百名山にして、堂々たる山容と、豪雪と、千二百種をこえる植物が自生することと、薬用植物の多いことで知られる山。なお山全体が石灰岩でできているため、この山の西側はセメント工場によって大きくえぐり取られている。
 
伊吹山に登るのはこれが三回目、そして今回は初めて伊吹山ドライブウェイを利用して登った。この山は八合五勺ぐらいまで車でのぼれるのである。だから登山というほどのものではなかったが、今回の目的は作仏聖(さぶつひじり)として知られる円空上人が修行した平等岩(びょうどういわ)を調べること。平等岩のある八合目まで、下から登るより上から下りる方が早いと判断したのである。
 
伊吹山ドライブウェイを走っているとき、道の横で何組かの人が巨大なレンズを付けたカメラをすえて何かを待っているのが見えた。何をしているのかまったく見当もつかなかったので、車を止めてきいてみたら、イヌワシを狙っているのだという。巣を作る場所は分からないが、伊吹山にはイヌワシが一つがい棲んでいる、そう言ってその人は自分が撮った写真を見せてくれた。
 
伊吹山修験の行場(ぎょうば)になっていた平等岩は、表登山道の八合目から西へ四百メートルほど道をはずれたところにある。この岩は登山道からよく見えているし、上に小さな建物が建っているからすぐに分かる。この建物は前回、表登山道を登ったときには無かったと思う。
 
ということで登山道が平等岩に最接近するあたりを探すと、岩へ向かう踏み跡が見つかったのでそれをたどったのであるが、密生する低木のためヤブこぎになる場所もあり、枯れ木や枯れ枝がやたらと多く木をつかむときは要注意であった。
 
岩の上に建つ小屋は、外見はお堂のような形をしているが中は空っぽ、一畳あまりの土間があるのみですわる場所もない。これを作った人は、ここでどんな修行をするつもりでこれを作ったのだろうか。
 
平等岩は山腹につき出た意外と小さな岩場、岩が露出している部分の高さはせいぜい十五メートルほどであるが、低木しか生えていない急斜面につき出た岩なので、岩上からの眺めはすばらしく、鈴鹿の山々、琵琶湖、竹生島(ちくぶしま)、比良山(ひらさん)、などが一望できる。登山道にあった解説板によると、この岩は伊吹山寺を開いた三秀が修行した場所とある。その伊吹山寺は山頂の覚心堂と山麓の発心堂として今も残っている。
 
平等岩の中ほどと頂きのすぐ下に、棚のようになっている部分がある。昔はこの棚の上を、岩のでっぱりや窪みに手足をかけて抱きつくようにしてまわる修行をしていたという。なんのためにそんなことをするのかというと、危険な崖をめぐることで自分を捨てる修行をするのである。この岩は岩自体の高さは大したことはないが、山麓までさえぎる物なく見渡せる場所にあるので、その下には高度感あふれる景色が広がっている。だから緊張感あふれる捨身修行ができたと思う。私はその棚の上は回らなかったが、写真を撮るため岩の下を一周した。
 
おそらく円空上人は、若いときには伊吹山修験の先達(せんだつ)として人々をひきいて伊吹山に登り、この平等岩で捨身行を指導していたのであろう。また岩の上に小屋掛けして修行したこともあるかもしれない。上人は岩屋ごもりが好きであったが、このあたりにはこもる岩屋がないからである。
 
写真を撮りながらふと見上げると、西側の尾根の上を鹿の群れが移動しているのが見えた。青空を背景にした稜線上の鹿の姿は印象的であった。足もとを見ると小屋のまわりにも鹿のフンがたくさん落ちていた。

     
平等岩
 
以下は仏教民俗学の五来重(ごらいしげる)氏の著書からの受け売り。
 
平等岩という名の岩は大峰山の山上ヶ岳(さんじょうがたけ)にもある。山上ヶ岳には表(おもて)と裏の二つの行場があって、表行場の断崖には「西の覗き」と「日本岩」、裏行場の断崖には「東の覗き」と「平等岩」の行場がある。ここの平等岩は高さ百メートルほどの断崖の上に突き出たこぶのような岩、この岩では今も捨身行がおこなわれていて、しかも昔は断崖に向かって前向きに岩をまわっていた。
 
この行は失敗すれば落ちて死ぬという命がけの行であるから、やるたびに一心不乱の三昧に入れる。つまりこの行は自分を捨てる行であるとともに、強く三昧に入るための行でもあり、また懺悔のための行でもある。だから平等岩は修験の山に付きものの行場であった。
 
三昧に入るための行を修験道では禅定と呼び、それには、坐禅、読経、真言読誦、礼拝、護摩焚き、そして行道(ぎょうどう)があった。行道は文字どおり道を行くことを意味し、山に登ったり、行場をまわったり、遍路をすることが行道であるから、比叡山の回峰行も行道修行の一つである。平等岩めぐりもこの行道に属する行とされ、平等岩の名は行道岩のなまったものとされる。
 
そして大峰山では平等岩めぐりをした後で、
 
「極楽の、内をも知らず、手をかけて、無為の都に、入るぞ嬉しき」
 
「平等岩、廻りてみれば、阿古(あこ)滝の、捨つる命も、不動くりから」
 
という秘歌を唱えたという。あとの歌に出てくる阿古滝は、平等岩の下に口を開ける阿古谷にある滝のことで、ここでの平等岩めぐりはこの滝にまつられた不動明王を礼拝する行とされているのである。また不動くりからは不動明王の智剣が変じた倶利伽羅(くりから)竜王のこと、その像は火炎に包まれた黒竜が、岩のうえで剣に巻きつきそれを飲みこもうとする形に作られる。つまり平等岩で捨身行を修行して不動明王を礼拝すれば、倶利伽羅竜王と一体になれるというのである。
 
修験道の極意をひと言でいうと擬死再生、つまり一度死んで生まれ変わること、入我我入して即身成仏すること、だから修験の山によくある胎内くぐりも生まれ変わるための行場である。

  
高賀山の不動岩屋
 
 二〇二〇年十月十三日(火)。晴
 
岐阜県北部にある高賀山(こうがさん。こうかさん。一二二四・二メートル)は円空上人のお気に入りの山。高賀山、瓢ヶ岳(ふくべがたけ)、今淵ヶ岳(いまぶちがたけ)、の順に北から南へ並ぶ高賀三山は、古くから信仰登山がおこなわれてきた修験の聖地なので、三山の西側には高賀神社とその境内に円空館、東側には星宮(ほしのみや)神社とその境内に三並(みなみ)ふるさと館があって、両館とも多くの円空仏を蔵している。この山深い地は円空さんと縁の深い土地だったのである。なお地元の人は高賀を「こうか」と発音している。
 
この日の行程は、高賀神社を出発、御坂峠(みさかとうげ)を経由して高賀山山頂、の往復であった。下山後、円空仏を見るべく円空館と三並ふるさと館にも立ち寄った。
 
高賀神社の駐車場は数ヵ所に分散している。私は大鳥居横の駐車場に車をとめて、まず高賀神社にお参りし、それから左側にある林道を進んだ。すると十五分ほどで登山口に着き、そこには二〇台分ほどの駐車場とあずま屋があって、すでに二台駐車していた。ここまで車で入れたのであった。
 
ということでここで林道を離れ、登山道に入る。川ぞいの道であるが初めのうちは水音のみで川は見えない。二か所で川を横切るが、その一つ目は水垢離場(みずごりば)になっていて、石で囲った水たまりが川の中に作られていた。今でも水垢離をとって入山する人がいるのだろうか。この山は石ころだらけ、岩だらけ、巨岩だらけの山。そのためあまり植林されていないのはいいが歩きにくい。ただし古くからの修験の山なので道はよく整備されている。
 
中腹の巨岩の下に大きな岩屋があった。これが円空さんが好んで籠もったという不動岩屋(ふどういわや。ふどうのいわや)、そう呼ばれるのは以前ここに不動明王がまつられていたからであり、ここに籠もって修行すると円空上人の心境に近づけるかもしれない。
 
この岩屋は珍しいことに二階建てになっていて、上の岩屋のほうが広くて天井も高く住みやすい。しかも上の岩屋の屋根の岩はまっ二つに割れていて、そのまっすぐなすき間から春分の日と秋分の日の前後数日間の正午ごろ、岩屋の中に日の光が射しこむという。また冬至の日に夕日が射しこむように彫られた線刻も岩に残っている。山中暦日なしというが、こうしたことで暦日を知ることは、里人の安寧を祈願するためにも必要なことだったと思う。
 
御坂峠は円空さんが高賀神社と星宮神社を行き来するときしばしば越えた峠だと思う。道は峠に近づくほど険しくなるが、あえぎながら登った御坂峠の向こう側には舗装された立派な林道が通り、そこに登山口の標識も立っていた。
 
峠から先は主稜線上の道、三〇分ほどで山頂着。山頂には一等三角点と、金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)と彫った経塚らしき石塔があった。山頂からは、伊吹山、能郷白山(のうごうはくさん)、岐阜の金華山(きんかざん)、さらには名古屋の町並みも見え、剣岳と白山の方向を示す矢印も立っていたがそれらは霞のため見えなかった。
 
この日、山で会ったのは二組五人。一組は地元の夫婦二組の四人連れ、おしゃべりがにぎやかであった。もう一組は装備は水筒だけという単独行の若者、山を駆けるように歩いていたが、事故を起こしたときのためにも雨具ぐらいは持つべきだと思った。

     
円空岩と円空洞
 
高賀山を下山後、山の反対側にある星宮(ほしのみや)神社まで足を伸ばした。星宮神社の住所は郡上市(ぐじょうし)美並町(みなみちょう)高砂(たかさご)1252。この神社の境内にある三並ふるさと館には円空仏が九〇体、展示されている。
 
星宮神社はその名前も、神殿や境内のたたずまいも、奥を流れる粥川(かいがわ)の矢納ヶ淵(やとうがふち)の雰囲気も、実にいい神社。この神社の解説板によると、円空さんはこの神社の裏山、瓢ヶ岳山麓の木地師の家で一六三二年に生まれ、粥川寺で得度、以後はこの寺を本拠地にして、ここから遊行の旅に出てここに戻ってくるという生活をしたとある。ただし出生地に関しては他説もある。粥川寺はふるさと館の横に建つ小さな寺、別の場所からここに移されたとある。
 
星宮神社の手前に円空さんが修行したという岩屋がふたつある。
 
一つは星宮神社へ行く道から林道を南へ一・八キロ入ったところにある岩屋、川の横にある円空岩(えんくういわ)と呼ばれる岩の下の空間を利用した小さな岩屋であるが、狭くて奥行きもなく川の水音もやかましい岩屋なので、長期の修行には向かないと思う。
 
もう一つは円空洞(えんくうぼら)。この岩屋の解説板も神社へ行く道の手前に立っている。それによると、この岩屋は高さが五メートル、幅二メートル、奥行き四メートル、奥の高さ〇・七メートル、近くに小さな滝があるという。
 
そこまでの距離三百五十メートルとあったので、すでに夕方になっていたがそれぐらいならと、解説板の前に車をとめて草が生い茂る山道をたどった。歩き初めの登りはぬかるんでいて、歩きにくいうえに道も分かりにくかったが、道はしだいに良くなる。
 
ところがかなり洞窟に近づいたと思うところで、台風のせいだと思うが、杉の木がまとまって根返りしていて道をたどれなくなった。山靴を履いてくれば良かったと思っても手おくれ、夕闇も迫ってくるということで、洞窟があるならあの辺りと狙いを付けて進み、無かったのであきらめて引き返した。
 
ここからは上記の続き。二〇二一年九月二五日に再挑戦したのである。円空洞は倒木群の先にあった。倒木群のところから下の川に降りて百五十メートルほど登ると、この小さな谷は崖にぶつかって行き止まりになる。その行き止まりの右手に円空洞はあった。縦に長い洞窟である。解説板に小さな滝があるというのは、おそらくこのどん詰まりの崖に滝があるのだろうが、目につかなかった。
 
解説板には岩屋の奥行き四メートルとあったが、そんなに奥行きがあるようには見えず、下が平らでなく横たわる広さもない岩屋なので、修行のために一晩か二晩、読経しながら過ごすことはできても、ここに長期間こもるのは無理だと思う。湿気の多い谷であるが、少し登ったところにあるから岩屋の中に湿気はこもっていない。
 
帰りの下りで、ぬかるみに足を突っ込んでしまった。そのぬかるみが小さい割に意外に深く、ずっぽりとはまり込んで泥だらけになってしまったので、下の川へ降りて靴とズボンの泥を洗い流した。ところがこのぬかるみはヒルの巣であった。帰った翌朝、靴を洗っていたら、すき間に残っていた泥の中からヒルが五匹も出てきたのである。
 
足を点検すると三か所ヒルに食われたあとがあり、手の指の付け根からも出血していた。指の付け根は川で靴を洗ったとき食いつかれたのだと思う。ヒルは食われても痛くもかゆくもない。そのため気がつかなかったのである。おそらくそのぬかるみの中には何百匹とヒルが棲んでいるのだろう。ふつう山でヒルに取りつかれるのは地面の上でのことである。地面の上をシャクトリ虫のように歩いて来るヒルと、水の中に住むヒルはもちろん種類が違うのだろう。

  
観音洞と不動堂
 
 二〇二一年九月二五日(土)。晴
 
今回の旅の目的は、円空上人が岩屋ごもりして仏像を彫ったと伝えられる観音洞(かんのんぼら)と、二一体の円空仏を伝えてきた鳥屋市(とやいち)の不動堂(ふどうどう)の見学。円空上人は岩屋聖(いわやひじり)と呼ばれるほど岩屋ごもりの好きな人であった。岩屋にこもるのは、天地同根、万物一体、の理を体得するためであったと思う。
 
観音洞は神明(しんめい)神社の奥にある。この神社の住所は岐阜県美濃加茂市(みのかもし)三和町(みわちょう)下廿屋(しもつづや)210-1。
 
下廿屋の集落を通る県道八〇号線の横に、神明神社と彫った石柱と、「美濃加茂市指定記念物。観音洞円空窟」と書いた標識が立っている。その案内のある道を神明神社を目指して進み、神社の階段を登らず階段下の左手の踏み跡をたどると、やがて物置小屋が見えてくる。その上に観音洞はある。
 
あるいは、神明神社の参道の前を通り過ぎて二百メートルほど行くと、県道が急に狭くなっている。そこの右側にある林道を通って観音洞へ行くこともできる。この林道の方が道は分かりやすいが、道が荒れていて車では入れない。
 
この岩屋は観音洞円空窟(かんのんぼら・えんくうくつ)と呼ばれているが、洞も窟も同じような意味の言葉なので、本来の呼び名は観音洞であったが、円空上人との関係を強調するため、円空仏が有名になったとき円空窟が付加されたのではないかと思った。
 
巨岩の下に口を開けているこの岩屋は、広さや天井の高さに問題はないが、床が入口よりも一メートルほど低いところにあるため、湿度が高く住み心地はよくないと思う。大雨のときなど入口から雨水が流れ込みそうにも見え、周囲は杉の植林帯なので日当たりも悪い。
 
観音洞の左横の踏み跡を登ると、小さな祠が建っている。この祠の中に円空上人作の馬頭観音がまつられていたことから、この岩屋は観音洞と呼ばれるようになったらしい。そしてこの祠の棟札に「新奉彫刻。馬頭観音尊像以伸供養。寛文拾一。願主後藤仁兵衛」とあったことから、この馬頭観音が西紀一六七一年、円空上人四十歳のときの作だと分かったという。その観音像はいまは美濃加茂市民ミュージアムに収蔵されている。
 
その祠の先に小さな石塔や灯籠があったので、さらに岩の上まで登ってみたが、杉の植林帯が広がるのみで見るべきものはなかった。
 
観音洞の前に小さな川が流れている。その流れの横に「秋葉様」という道標が立っていたので、その先の踏み跡もたどってみたが、尾根の上まで登っても秋葉様はなかった。尾根の上が平地になっているから、そこに祠があったのかもしれない。
 
観音洞の手前に青いシダが生えていた。それがあまりに鮮やかな青色をしていたので、誰かがいたずらで青ペンキを吹き付けたに違いないと思ったが、角度を変えると別の色に見えるし、葉の裏側はふつうの緑色をしているので、ペンキによるいたずらではないと分かった。調べてみたらこのシダはコンテリクラマゴケ(紺照鞍馬苔)という中国原産の園芸品種のシダであった。おそらく誰かがここに移植し、環境が生育に適したことで繁茂したのだと思う。
 
観音洞は臨済宗の名刹、伊深(いぶか)の正眼寺(しょうげんじ)の奥にある。伊深という地名なので何となく山中の草深い里だろうと思っていたら、意外に広い田んぼが広がる豊かそうな村であった。

  
鳥屋市の不動堂
 
住所は岐阜県関市上之保(かみのほ)鳥屋市(とやいち)。このお堂は二一体の円空仏を伝えてきたが、二〇〇五年にそのすべてが盗まれ、写真をもとに作ったという複製が置いてあった。この複製は円空仏が大好きという人が彫って寄進したものだという。
 
鳥屋市の集落があるのは県道八五号線ぞい、地図を見ると放生峠(ほうじょうとうげ)はもうすぐという峠越えの道の上の方である。県道八五号線は、美濃加茂市、下呂市、郡上市、などを結ぶ山越えの道。今ではほとんど車も走っていない道であるが、昔は多用された道だったようで、宿場町のような雰囲気の場所や、商店や食堂などが続く場所が残っていた。ただし店舗はほとんどが廃業していた。工場の廃屋もいくつかあるから、以前は人口も多かったようである。円空上人もしばしばこの道を歩き、その途中このお堂にこもって作仏したのだろうか。
 
不動堂があるのはゲートボール場になっている広場の奥。駐車場はないが道路脇に車を駐めることができ、トイレもある。なお鳥屋市という地名はナビに入っていなかった。
 
お堂は内部の広さが四畳半ほどの小さなもの、不動堂と呼ばれるだけに、須弥壇の中央に大きな不動明王がまつられていて、左側には金箔の美しい立派な地蔵菩薩像、右側にも像名の分からない大きな像が安置されていた。左右の像は脇侍というよりも、別個に寄進されたものが並んで置かれているという感じであった。
 
その須弥壇の手前には鉄格子がはまっていたが、堂内にあった古い写真を見ると、以前はこの鉄格子がなく盗まれた円空仏は不動明王の前に無造作に並べられていたことが分かる。

  
岩屋観音堂
 
美濃市と郡上市の境にある片知山(かたぢやま)の中腹に、やはり円空さんに関係する岩屋(いわや)観音堂があるが、二時間ほどの山登りになるので今回は見学をあきらめた。膝を痛めていたからである。
 
ネットで見つけた写真を見ると、このお堂は大きな岩に張り付くように建てられており、お堂の名前から判断すると、このお堂の奥の大岩の下に岩屋があるのではないかと思うが、お堂内部の写真は見つからなかった。ここにあった円空仏二体は、現在は美濃市にある「美濃和紙の里会館」に収蔵されている。ここの円空仏が移されたことには、鳥屋市の不動堂の円空仏が盗まれたことが影響したという。

  
下呂市の円空岩と高山市の両面窟
 
 二〇二〇年十一月三〇日(月)曇
 
今回の旅の目的は、下呂市の円空岩の岩屋と、高山市の両面窟(りょうめんくつ)の見学。
 
円空岩の岩屋は巨岩の下の空間を利用した岩屋、岐阜県下呂市門原(かどはら)の山中にある。ところがその門原集落を見つけるのにまず手間どり、やっとのことで探し当てた門原集落は、国道四一号ぞいに六・七軒の家がならぶ小さな集落であった。
 
門原集落の神明神社の下に車をとめ、誰かいないかと思いながら歩いていたら、車の手入れをしている男の人を見つけ、円空岩は四〇年前に一度に行ったことがあるということで、やっと円空岩を知っている人に会えた。円空岩は三キロほど下呂温泉方面へ行ったところから入る林道の奥にあるという。
 
その林道の入り口は深谷(ふかたに)バス停の横にあるが、今ここに住んでいる人はなく、小さな川の右側に林道の入り口、左側に廃屋があった。林道に入るとすぐに小さな漬け物工場があり、その先に廃屋が一軒、その先にしっかりと積まれた石垣があった。昔はここに大きな構えの家があったのだろう。その先は進むほどに道が荒れて狭くなり、林道入り口から二~三キロ入ったところに、「円空岩まで百メートル」の小さな標識と、なんとか二台とめられる空き地があった。
 
その空き地に車をとめ、踏み跡をたどって道路脇の土の盛りあがりを越えると、前方に林道が現れた。そこで林道が分岐していて、分岐した林道の入り口が土砂で埋まっていたのである。その現れた林道を見て、円空岩はこの林道の奥にあると思ったのがまちがいの元であった。その土砂崩れのすぐ先の左手に円空岩へ登る階段があったのだが、落ち葉に埋もれていたのと、林道奥にあるという思いこみから、見逃してしまったのである。
 
ということでその林道を前進すると、八〇メートルほど先で行き止まり、左手に踏み跡があったのでたどると、炭焼きの窯跡があった。斜面の上を見あげると円空岩かと思う大きな岩がいくつも並んでいるが、そちらに踏み跡はついておらず、窯跡の前の踏み跡をさらに前進するとやがて踏み跡はなくなり、林道終点までもどって反対側に行っても見つからず、これは初めからやり直しだと車にもどるときに階段を見つけたのであった。そのいたんではいるがしっかりと作られた階段を、五〇メートルほど登ったところに円空岩はあった。
 
岩屋の前に岐阜県指定史跡と下呂市指定史跡という二つ標識が立っていた。それを見て、国道ぞいにも標識を立ててほしいと思った。国道を行ったり来たりで、この林道を探すのに一時間以上かかったのである。
 
円空岩は山の斜面に突きでた巨岩、周囲は杉の植林帯になっているが、円空さんの時代には美しい自然林が広がっていたと思う。岩の上からあたりの景色を眺めようと思ったが、足もとが悪すぎるので登るのはやめた。
 
この岩屋はかなり居心地の良さそうな岩屋である。入り口のあたりは高くて広く、奥へ行くほど低く狭くなり、一番奥は寝るのにちょうどいい高さと広さ、側面は石を積んでふさいであるから土が崩れてくることはない。この岩屋の前で火をたいて、夏は虫除け、冬は暖房にしたのだろうか。
 
岩屋の中に三峯(みつみね)神社と彫った石碑があった。それを見て、ここへ上る階段が整備されているのは、この岩屋が神社として使われてきたからだろうと思った。ほかには青面金剛(しょうめんこんごう)らしき像、この谷を開拓したときの記念碑らしきもの、金比羅山と彫った石、西国三十三ヵ所と四国八十八ヵ所の巡拝記念碑、などが置かれていた。この谷の歴史の一部がここに収められているのである。
 
写真をとっていたら、門原集落で道を教えてくれた人が登ってきた。無事に私がたどり着けたかどうか心配になったのと、この岩の写真を来年の年賀状に使おうと思ってやって来たのだという。四〇年ぶりということで、その人も階段の前を通り過ぎてしまったという。
 
これまで私は山歩きのために多くの時間を使ってきた。そして仏道修行と山歩きを一つにすると修験道になる、ということで修験道に興味を持ち、その延長として円空上人にも興味を持った。そして円空さんが籠もったという岩屋をいくつか見てきたことで、本当にこんなところに籠もって作仏したのかという疑問が薄らいできた。
 
それらの岩屋はみな円空さん好みの岩屋という共通点があると感じたからである。また門原の人の話では、この林道の入り口に住んでいた人の家には、まとまった数の円空仏が家宝として伝わっているというから、円空さんがこの岩屋で作仏したというのはかなり信頼できる話なのである。
 
この日は下呂市の合掌村にある円空館にも立ち寄った。ここには円空仏がたくさん展示されているが、観光客は多かったのに円空館に入る人は少なく、しかもじっくり見ていたのは私ひとりだけだったので、円空ブームが終わって久しいということを感じた。
 
それに円空仏はガラス越しに見たのでは良さが分かりにくい。円空仏は手に取って眺める仏像だと思う。そう思う理由は、実物をガラス越しに見るよりも接写した写真を見る方が良さがよく分かるからである。

  
高山市の両面窟
 
それから高山市にある両面窟(りょうめんくつ)まで足を伸ばした。この両面宿儺(りょうめんすくな)に関係する鍾乳洞も、円空さんに関係があるのではないかと思ったからである。「在(あり)かたや、出羽の岩窟(いわや)に、来ても見よ、けさの御山の、仏なりけり」。この円空さんの歌に出てくる出羽の岩屋が両面窟だと思う理由は、両面窟のある場所が出羽ヶ平(でわがひら、と現地の解説板にふり仮名があった)だからである。
 
飛騨大鍾乳洞の駐車場の手前に、この洞窟へ登る階段があった。ところが「歩道一二〇メートル、階段二八〇段あります」と注意書きのある階段は、立ち入り禁止の上に、人が歩いたあともない草ぼうぼうの状態になっていたので、これは柵を乗り越えて入ったとしても大変すぎるとあきらめた。
 
帰ってからネットで八年前にこの洞窟を見学した人の写真を見て、行かなくて正解だったと分かった。両面窟は険しい崖の上にあって、そこへ行くには鉄製の空中階段を上らねばならず、しかも照明を点けてもらわないと、宿儺の石像がある洞窟には入れないとあったからである。
 
その階段の入り口の横に、洞窟まで登れない人のための「両面宿儺の遙拝所」なるものが設置されていた。それを見て、朝敵とされた宿儺が今も地元の人から慕われていることを感じた。宿儺のことは、日本書紀巻第十一の仁徳天皇の項に次のように載っている。
 
(仁徳天皇の)六十五年に飛騨の国にひとりの人あり。宿儺という。その人となり、一つの体に二つの顔あり。顔はおのおの相背けり(つまり顔が前後についている)。頭頂合わさってうなじ無し(二つの頭が合体して一つになっている)。おのおのに手足あり(手と足が四本ある)・・・。力多くして敏捷。左右に刀を下げ、四本の手で弓を使う・・・。そして朝廷に従わず略奪をおこなったので、朝廷は難波根古武振熊(なにわ・ねこ・たけふるくま)を派遣してこれを滅ぼした。
 
ということで、両面窟が出羽の岩屋かどうか来れば分かると思っていたが、結局手がかりは得られず、大鍾乳洞を見学して帰ることになった。この洞の見学は二度目である。
 
この日の最後の仕事は高山市の千光寺(せんこうじ)にある円空仏見学。ここも二度目である。この寺は飛騨地方にある寺院の中核となる寺院、円空さんが二年間滞在した寺ということで、立木に彫った仁王像とか両面宿儺像など六四体の円空仏を伝えている。なお近世畸人伝の円空さんの項に、この寺の俊乗和尚の話も載っている。二人は気の合う奇人同士であったらしい。


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