四国の行場めぐり
 
  二〇二二年四月七日、八日。両日快晴

今回の旅の目的は弘法大師が修行した四国の行場、大瀧嶽(だいりょうのたけ)と「みくろ洞」の見学。この二つの行場は大師二十四歳のときの著作、三教指帰(さんごうしいき)の序文に以下のように登場する。
 
「ここに一沙門(いちしゃもん)あり。余に虚空蔵求聞持法(こくうぞう・ぐもんじほう)を呈す。その経に説く。もし人、法によってこの真言一百万遍を誦すれば、即ち一切教法、文義を暗記することを得ると。この大聖(だいしょう)の誠言(じょうごん)を信じ、飛炎(ひえん)をサンスイに望み、阿国(あこく。阿波の国。徳島県)の大瀧嶽にセイ攀(セイハン。登りよじ)し、土州(どしゅう。土佐の国。高知県)室戸崎に勤念す。谷、響きを惜しまず、明星、来影す」
 
つまりこの二つの行場は、若き弘法大師が求聞持法を修行した場所なのである。
 
なおこの文に出てくる「飛炎をサンスイに望み」の意味はよく分からない。サンスイのサンはキリ、ノミ、ヤジリなどを意味する字、スイは火、松明、また火を作ることを意味する字、ということで、サンスイでは火打ちがねと火打ち石を用いて火をきることを意味するとある。
 
これが木をこすり合わせて火をおこしたというなら、火が付くまで休みなく努力するように、うまずたゆまず精進したということになるが、火打ちがねと火打ち石を使ったのではそうはならない。飛炎というから大きな護摩を焚いて修行したということだろうか。

  
虚空蔵求聞持法
 
これは虚空蔵菩薩を本尊としておこなう修行法であり、作法に従って求聞持法の真言を一日に一万回ずつ百日間、合計百万回となえれば、頭脳明晰になり記憶力も増大するという修行法である。
 
その真言をネットで調べたみたら、短い真言なのに人によって内容に少しずつ違いがあり、その一例は「ノウボウ、アキャシャ、ギャラバヤ、オン、アリ、キャマリ、ボリ、ソワカ」であった。ただし違いが生じているのは「、」の入る場所であり、修行するときには「、」のあるなしに関係なく切らずに一気に唱えるのだから、どこに「、」が入っていても同じことである。
 
この真言を三秒に一回唱えると一万回では八時間以上かかり、二秒に一回だと五時間半かかるが、慣れると四時間から四時間半て唱えられるという。そのため現在では、午前と午後に一万回ずつの五〇日間で百万回満行というやり方をしているという。
 
五〇日間に短縮した理由はおそらく、「小人、閑居して不善を為す」で暇がありすぎては修行にならず、また忙しい現代の修行者には百日間はあまりに長すぎるからであろう。本来のやり方が一日に一万回となっていた理由としては、真言読誦以外の行が求聞持法の修行体系に含まれていたことが考えられる。
 
なお唱える回数は数珠を使って数え、また始めたら満行までやめられないということではなく、体調が悪かったりすれば日延べしてもかまわないとネット上にあった。五十日間かかる大修行なので真言宗ではこの行をなし遂げると箔が付くともあった。
 
大師の求聞持法の修行には疑問点が二つある。その一つは、なぜ大瀧嶽と室戸岬の二か所で修行したのかという疑問である。ふつうは行を始めたら途中で場所を変えたりはしないはずである。
 
もう一つは、大瀧嶽と室戸岬の二か所で合わせて百万回修行したのか、あるいは両方で百万回ずつ修行したのかという疑問である。両方で満行したとすれば、太竜寺山では満足する結果が得られなかったということなのだろうか。
 
あるいはひょっとすると、日中は移動しながら山岳修行をおこない、夜に求聞持法を修したということも考えられる。つまり大瀧嶽から室戸岬まで移動しながら求聞持法を修したということである。
 
三教指帰にある「谷、響きを惜しまず」の部分は、深い谷のある大瀧嶽での体験と考えてまずまちがいない。そして「明星、来影す」は室戸岬でのこととされている。大師は室戸岬で口の中に明星が飛びこむ体験をされたといわれているのである。
 
その明星が口に飛びこむ体験というのはどういう体験なのだろうか。禅宗では、釈尊は明けの明星をご覧になったとき悟りを開いたとされている。そのとき釈尊は無我に徹したことで明星と完全に一つになったのである。だから禅宗的には、口に明星が飛びこむというのも同じことをいっているように思えるが、それが二十歳のころの体験とすれば、いくら天才とはいえそれを大悟徹底の体験とするのは年齢的に早すぎるように思う。
 
大師はなぜ求聞持法を修行したのだろうか。大師は日本の天才のひとりに数えられる頭のいい人であるが、さらに頭を良くしたいと修行したのだろうか。私はそうは思わない。求聞持法は仏道修行の一つであるから、この行の目的は心を調えること、悟りを開くことにあるはずだし、大師の真の目的も悟りを開くことにあったと思う。
 
つまり頭が良くなるとか記憶力が増すというのは、修行者を釣るための撒き餌にすぎず、この法を真剣に修行すればそれよりもはるかにすばらしい功徳が得られる。そして心が調い、悟りを得れば、頭脳明晰となり記憶力が増大するのはまちがいのないことである。
 
虚空蔵菩薩は、虚空のごとき広大無辺の智慧と慈悲と福徳をそなえた菩薩とされ、この菩薩を信心したり、この菩薩を本尊とする求聞持法を修すれば、智慧と慈悲と福徳が得られるとされる。

  
大瀧嶽
 
大瀧嶽(だいりょうのたけ)は、四国八十八か所の二十一番札所、舎心山(しゃしんざん)太龍寺(たいりゅうじ。真言宗)のある太竜寺山(たいりゅうじさん)のこととされる。
 
まず混乱しないように整理すると、三教指帰にある大師が修行した山の名は大瀧嶽、その山の現在名は国土地理院の地形図によると太竜寺山、そこにある寺院の名は太龍寺、字が少しずつ違うのである。なお瀧の字は滝の旧字で、発音はロウ、リョウ、ソウ、この字は今の日本語では滝を意味するが本来は急流を意味する字である。
 
太龍寺の山号になっている舎心山は、太竜寺山の急斜面に突き出た景色のいい岩峰、地図上では舎心ヶ岳となっていて、舎心には「心をとどめる」の意味があると説明があったが、舎心山という山名の由来に関する説明はなかった。なお舎心山には捨身山の意味も含まれているように思えてならない。その理由は、舎には捨の意味もあるし、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、大師はこの山で身心に対する執着を捨てることができたように思うからである。
 
舎心ヶ岳へ行く道の入口はロープウェイの太龍寺駅の前にある。そこから舎心ヶ岳を眺めることもできるので、駅前に舎心ヶ岳遙拝所なるものがあった。舎心ヶ岳まで距離六八〇メートルとあり、ゆっくり歩いても十五分ほど、その道ぞいには八十八か所札所の本尊仏が並んでいた。
 
舎心ヶ岳には岩上にどっしり坐る人の倍ほどの大きさの「求聞持法御修行大師像」があった。素材はブロンズとあり、景色を眺めているのではなく明星を拝している姿との説明もあった。
 
ただし大師はこの景色のいい岩上で修行したに違いないと、大師像をここに設置したように見えるが、景色のいい場所が修行に適した場所とは限らない。それどころか景色のいい場所は気が散って行場には向かないものだし、吹きさらしの岩上では風雨のときは修行ができないし、だいいち景色を眺めていたのでは修行にならない、ということで、大師がこの岩上に立ったことがあるのは確かだと思うが、求聞持法は別の場所で修行したはずである。
 
なお太龍寺の仁王門の近くに「北の舎心ヶ岳」がある。これは山の斜面に突きでた景色のいい小さな岩山、急なハシゴを登ると狭い岩上に小さなお堂があった。
 
太龍寺ロープウェイは山の向こう側から山越えをして太龍寺へ下りてくる。こういう作りのロープウェイは初めて見た。そのロープウェイが舎心ヶ岳の近くを通っているので、その稼働音を初めて聞いたときには、山中でこの騒音はいったい何ごとかと驚いた。
 
標高六一八メートルの太竜寺山山頂は舎心ヶ岳から十分ほど歩いた先にある。その平らに開けた山頂には、以前はお堂が建っていたらしく土台石や石垣などが残っていた。木が生い茂っていて景色はあまり良くないが、山の好きな大師のことだからこの山頂には何度も足を運んだことと思う。なお寺が立てたと思われる道標では、この山の名は補陀落山(ふだらくせん)になっていた。これは観音菩薩が住むとされる山の名である。
 
太竜寺山は大師が歩いた山なので、私もできるだけ時間をかけて歩きたいと、ロープウェイを使わず駐車場から歩いて登った。歩き遍路の人の多くも歩いて登っていると思う。
 
国道一九五にある道の駅「わじき」から東へ百五十メートルほど行くと信号がある。そこを左折して県道二八を二キロほど行くと、左手に坂口屋という民宿がある。その横に太龍寺への参道入口があり、駐車場まで三・五キロとあった。
 
この参道は一車線の狭い道なので対向車が来ると困るが、ほかの車は駐車場に一台とまっているのを見たのみで鉢合わせはしなかった。ここは歩くにしても車で来るにしても難所の一つとされた札所であったが、今ではほとんどの人がロープウェイを利用しているのである。なお参道の入口から二キロのところから先は、上りと下りが別の道になっているので、鉢合わせの問題があるのはそこまでである。駐車場から太龍寺の仁王門までは徒歩で二〇分ほどであった。
 
二十番札所の鶴林寺(かくりんじ)がある山も大師が修行した山ではないかと思う。太竜寺山のすぐ近くにある山なのでその可能性はかなり高い。そして大師がこの山に来たとすれば、山頂には必ず登ったはずと、寺のすぐ裏にある山頂に登ってみた。ところががっかりなことに、その山頂は二本の大きなアンテナに占領されていた。とはいえ杉の老木が立ちならぶこの寺は、おそろしく掃除の行きとどいた寺であった。

  
みくろ洞
 
現地の解説板によると、ここにある三つの岩屋全体をみくろ洞(どう)と呼び、中央にあるいちばん大きくて奥行きのある岩屋を御厨人窟(みくろど)、右側の小さめの岩屋を神明窟(しんめいくつ)と呼ぶ。そして大師が求聞持法を修行したのが神明窟、そのとき生活の場としたのが御厨人窟であり、明星が口の中に飛びこむ体験をしたのはここでのこと、そのときここから見た空と海だけの景色に感銘を受けて空海と名乗るようになったとあった。
 
御厨人窟の中には石造りの大きな祠、神明窟の中には石造りの小さな祠が置かれていたが、左側にある第三の小さな岩屋には祠もなければ岩屋名の表示もなかった。なお御厨人窟と神明窟の入口には落石対策のための屋根が設置されていたが、その形も色も周囲の景観に調和していないように感じた。
 
これらの岩屋はすべて海蝕洞窟、洞窟前の広場は波蝕棚、洞窟の上にそびえる崖は海蝕崖とあり、現在、岩屋は海面から十メートルほどの高さにあるが、大師の時代にはこれより五メートルほど低かったという。地震で土地が隆起したというのである。
 
厨(くりや)とか御厨(みくりや)は台所、厨人(ちゅうじん)は料理人を意味するから、御厨人窟の名は大師がここで修行したとき、この岩屋を台所として使用したことから付いた名であろう。お寺でいう庫裡(くり)に相当する岩屋である。ひょっとすると大師が修行したとき、水汲み、薪集め、料理などをした補佐役の人がここに控えていたのかもしれない。
 
なお御厨人窟と書いて「みくろど」と読ませているが、これはかなり無理な読みである。この岩屋名のすなおな読みは「みくりやじんくつ」であり、「みくろどくつ」と読むのならまだ納得できる。しかも御蔵洞(みくらどう)と書いた看板まであって、みくろ洞、御厨人窟、御蔵洞、という三種の表記の混在していることが読むもの頭を混乱させていた。

  
不動岩(ふどういわ)
 
二十六番札所の金剛頂寺(こんごうちょうじ)の下に不動岩がある。これは海岸にそびえる高さ四〇メートルの岩、場所は室戸岬から高知市の方へ少し行ったところである。岩の下にまつられている波切り不動尊にもご詠歌があって、「そそり立つ、ここは岩屋の不動尊、岸打つ波も、法のとどろき」と彫った石が不動堂の前にあった。
 
札所になっている金剛頂寺では行場の雰囲気はほとんど感じなかったが、不動岩は小さいながらも行場の雰囲気に満ちたミニ行場、岩屋も二つ口を開けている。ただし岩の頂上には登れなかった。金剛頂寺は女人禁制の寺だったので、明治になるまで女性はこの波切り不動尊で納経していたという。
 
不動岩の詳しい場所は、行当岬(ぎょうとうみさき)の表示がある場所から国道を高知市方面へ一キロほど行った海側、よく目に付く岩なので行けばすぐに分かるが、私は行当岬とあるあたりを探しまわって時間を使ってしまった。なお行当岬の名は行道(ぎょうどう)から来たとされる。不動岩で行道修行がおこなわれていたというのである。
 
不動岩のすぐ下にある嵐の時には潮水をかぶる岩の上に、小さな松の木が十本ほどもしがみつくように生えていた。それを見て、「松だって岩にでもさえ生えるじゃないか」という言葉を思い出し、困難に負けずにがんばれと松の木が言っているように感じた。

  
神峯寺(こうのみねじ)
 
二十七番札所の神峯寺へ上る道はかなりの急坂、よくこんな急斜面の山中に寺を作ったものだと思った。この険しさがこの札所の値打ちなのだろうが、歩き遍路の人泣かせの札所であるのはまちがいない。しかもそこからさらに登った山の上に、この寺の奥の院とされる神峯神社があって、昔はこの神社が札所になっていたというが、今はこの神社まで登ってくる人はほとんどいない。
 
神峯神社の石垣は険しい山の上とは思えない立派なもので、また山のふもとの海岸近くにもこの神社の鳥居が立っていた。それらはこの神社の過去の繁栄を教えてくれる。

 

室戸岬付近で海ぞいの道をいく歩き遍路の人を何人も見かけた。それを見てふと四国はお遍路さんでもっていると思った。いまが遍路の適期なのだろうが、天気が良すぎて四月初旬とはいえ室戸岬のあたりでは暑さを感じた。適期であっても暑い日もあれば寒い日もある。いつも天気がいい訳でもない。道に迷うこともある。歩き遍路は大変な修行だと思う。
 
車で走っていてもトイレ探しの問題が生じたので、歩き遍路の場合これは大問題になると思い、そのことを歩き遍路をしたことのある人に言ったら、お遍路さんにはどこの家でも喜んでトイレを貸してくれるという返事であった。遍路道にある公衆トイレは、どこもきれいに掃除され花が飾られていた。地元の人の奉仕活動であろう。
 
この旅では久しぶりに車中泊した。場所は道の駅、宍喰(ししくい)温泉の向かいにある小さな駐車場、目の前に海が広がっていた。道の駅は深夜になっても車の出入りがあってうるさい。だからこの駐車場は車中泊に最適であった。


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