鼻ぐり塚の話
 
鼻ぐりというのは牛の鼻輪(はなわ)のこと。鼻ぐり塚(はなぐりづか)というのは、屠殺された牛を供養するために屠殺された牛の鼻ぐりを収めた塚のこと。人間のために牛乳や労働を提供したあげく、最後は殺されて食肉や革製品に加工された牛を供養するための塚が鼻ぐり塚である。この塚に収められている鼻ぐりの一つ一つが、一頭一頭の牛の生きたあかしであり、唯一の形見なのである。
 
鼻ぐり塚は岡山市北区吉備津(きびつ)七九五の福田海(ふくでんかい)本部の中にある。福田海本部は岡山県を代表する二つの神社、吉備津(きびつ)神社と吉備津彦(きびつひこ)神社とを結ぶ散策路の途中にあり、この散策路は車も通れる。それほど広くはない駐車場に車を駐めて福田海本部の中に入ると、すぐの右側奥に鼻ぐり塚がある。入口に受付らしき建物があったが、誰もいなかったので箱に百円入れて中に入った。
 
受付に置いてあった書面には以下のようなことが印刷されていた。
 
鼻ぐり塚が作られたのは大正十四年のこと、もともとそこには円形の古墳があり、その墳丘上に鼻ぐりを収めてきた。今では七百万個以上の鼻ぐりが積み上げられていて、毎年数万個ずつ増えている。
 
上部に横穴があって、その入り口には馬頭観音がまつられており、横穴の中には(中は見えなかった)しんちゅう製の鼻ぐりを溶かして作った、阿弥陀如来の宝号を彫った金属板が安置されている。
 
福田海は明治三十三年に、聖徳太子、役(えん)の行者、僧行基(そう・ぎょうき)、の法統に立つ中山通幽(なかやま・つうゆう)師によって開創された陰徳積善をモットーとする宗教団体、比叡山からいただいた不滅の灯明をかかげている。
 
書面にあったのは以上のようなことである。人間のために利用され殺された動物たちのために私たちができるのは、こうした供養をすることぐらいなのであろう。誰しも牛さん、豚さん、ニワトリさんに、申し訳ないと思いながらもどうすることもできないとあきらめている。そのことを正面から取り上げて、解決策とは言えないかもしれないが、犠牲になった動物の供養をおこなうのは大事なことだと思う。
 
一切は私たちのためにすべてを捧げてくれている。私たちも一切のためにすべてを捧げていかねばならないと思う。中山通幽師は修験道の行者であり、無縁墓などの供養をおこなうことを自らの修行としていたという。
 
鼻ぐり塚の直径は十五メートルほどもあるだろうか。そこに鼻ぐりが山になって積まれており、見たかぎりでは積まれている鼻ぐりはすべてプラスチック製の大量生産品ばかり、直径は十センチほど、色は青、黄、白、赤、桃色などである。牛さんたちはみんな、生涯にわたってこんなものを鼻先につけられて、鼻づらを引き回されていたのである。ちなみにネットで調べてみたら、プラスチック製の鼻ぐりは一つ五百円ほど、金属製は八百円ほどで販売されていた。
 
福田海という名称は仏教で説く福田に由来するのだろう。仏教語大辞典のよると福田とは、福徳を生み出す田地、幸福の種がまかれる場所、福徳の因となる人やもの、とある。だから福田海は、海の如き広大な福徳を生み出す場所とか団体というような意味であろう。
 
一般的には福田という言葉は仏法僧の三宝をさすことが多いが、二福田・三福田・四福田・八福田などの福田も説かれている。
 
三福田(さんふくでん)というのは、敬うことで福徳を生ずる敬田(きょうでん)、恩に報いることで福徳を生ずる恩田(おんでん)、慈悲の心を振り向けることで福徳を生ずる悲田(ひでん)、の三つとあり、具体的には、仏法僧の三宝が敬田、父母や師が恩田、貧者や病者が悲田、ということで、三宝をうやまい、父母や師の恩にむくい、貧者や病者の救済のためにつくせば、大きな功徳があるということである。
 
また倶舎論(くしゃろん)に出てくる四福田(しふくでん)は、畜生を趣田(しゅでん。趣は地獄、餓鬼、畜生、修羅などの悪趣を意味するのだろう)、貧窮困苦を人の苦田、父母などを恩田、三乗の聖者を徳田、とするとある。だから鼻ぐり塚はこの四福田の説をもとに作られた供養塚だと思う。畜生供養のために供養塚を作ったり法要をおこなったりすれば、大きな功徳があるということである。
 
福田海の本部は、寺なのか、神社なのか、よく分からない施設である。入口には福田海本部と彫った石柱があるのみで、寺院名も神社名もない。仏教色の濃い施設だから寺と呼ぶべきかもしれないが、建物の作りや配置はあまりお寺的ではなく、なぜか壁のない、あずま屋風の、風通しのいい建物が多い。とはいえ役の行者もまつられているのだから、やはり修験道系の新興宗教の本部とするがいちばん適切なのだろう。
 
福田海本部の境内はかなりの広さがある。歴史的な価値を持つこの場所に、これだけの広さの施設を構えているのだから、教祖は力のある人だったと思う。
 
福田海本部は吉備の中山(なかやま)のふもとにある。吉備の中山を取り囲むように、福田海本部、黒住教(くろずみきょう)本部、吉備津神社、吉備津彦神社、が建っているのである。このあたりの神社はどこもみな立派であるが、吉備津神社の建物はとくに立派で、拝殿と本殿が一つになった建物は国宝になっている。この神社を見ると、このあたりの人が宗教施設を大切にしていることがよく分かる。そのことがこの地域から有名な宗教者が多く出ている理由であろう。
 
吉備の中山は、山というよりも丘という感じの平たい小さな山、一七〇メートルと一六二・〇メートルの二つの山頂をもち、一六二・〇の方に三角点があるが、三角点のある山頂には登らなかった。
 
最高点のある一七〇メートルの山頂には龍王山の標識が立っており、元宮磐座(もとみや・いわくら)と呼ばれる岩が鎮座していた。磐座は神さまをまつる岩場のことで、山中にはほかにも岩がたくさんあるが、この岩が山頂にいちばん近い大岩ということで元宮の磐座とされたのだろう。
 
元宮とあるから、この岩のある場所が吉備津神社や吉備津彦神社の発祥の地とされているのかもしれないが、この岩を磐座として祀るのは平成以後のこととあり、そのためか神さまが鎮まっているというおごそかさはあまり感じられなかった。(二〇二二年二月九日見学)


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