歓喜の心の話
 
たとえば散歩のとき袋を持ち歩いてゴミをひろう。そして家に帰ってから、えらい、よくやった、と自分をほめてあげる。するとささやかな幸福感に満たされる。また一日の終わりにその日一日をふり返り、今日もたくさんいいことをしたと自分をほめてあげる。すると歓喜の心に満たされて眠ることができる。これは決して慢心に属する心ではない。
 
ところが「こんなところにゴミを捨てたのは誰だ」などと腹を立てたりすると、この幸福感を味わうことはできない。「ゴミを捨ててくれてありがとう。おかげでゴミを拾うことができました」と感謝するぐらいでないと、歓喜の心は湧いてこない。怒りの心と歓喜の心は両立しないのである。この歓喜の心を体験すると、うらみ、つらみ、にくしみ、の世界には戻れなくなる。
 
いちばんほめてあげるべきは自分自身である。自分が自分をほめないで誰がほめてくれるだろう。探せば長所は山ほどあるのだから、うんと自分をほめてあげよう。自分の生き方を肯定し、たくさんほめてあげよう。この世に生を受けたものにだめなものなどないのだから、もっともっと自分をほめてあげよう。そうすれば歓喜の世界が開けてくる。
 
とかく人間は悪い面ばかり見がちなもので、悪い面ばかり見て後悔ばかりするくせがついている人もあるが、後悔する心は使い方しだいで煩悩の一つになる。過度の後悔は心を傷つけ、凍りつかせ、私なんかこの世にいない方がいいのだということにもなってしまうからである。しかも後悔はさらに後悔する心を育てる。
 
同様にほめる心はほめる心を育ててくれる。そしてほめる心によって後悔する心が中和され消滅したとき、歓喜の世界が開けてくる。喜びに満ちているのが心の本来のあり方であり、歓喜の状態が心の本質だからである。
 
どんなことがあるにせよ、後悔ばかりしていていいはずはない。反省することは大切だが、後悔ばかりではいけない。後悔の牢獄から歓喜の世界に自分を解き放たなければ、生きているかいがない。そして自らが歓喜の世界で元気を回復したら、こんどは人を沢山ほめて元気にしてあげよう。
 
なお華厳経(けごんきょう)で説かれる、菩薩の十の修行段階をあらわす十地(じゅうじ)の説の一番目に、歓喜地(かんきじ)という境地が出てくる。歓喜の境地は十地におけるいちばん下の境地なのであるが、菩薩の修行段階を五十二位に分けた説の中では歓喜地は第四十一位になっている。


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