湛玄老師の言葉九

心が安らかならぬという事実。本当の安心ができておらぬという事実。何も心配することはありませんと、安心することができない事実。
 
道ばたの石ころでも、小さな花でも、川の中のメダカの赤ちゃんでも、あなた方、何か心配しておりますか、とたずねてごらんなさい。みんな、なり切り、なり切りして、一生懸命ですね。存じません、と答えるでしょう。
 
不平不満なのは誰ですか。どうも人間がいちばん悩み苦しんでいる見本のようですね。あっても、あっても、足らん、足らん。足りないことなどないのに、足らん、足らん。
 
本物はどこかへ行ってしまうことはない。しかし正法に会うことがなければ、自我の迷執で苦しまねばならない。本来心にすなおになり切っていく。(2001・6・2。提唱)

 
誰が教えたのか知らんが、自分。いちばんの上っ面だからつかみやすい。たいていはこれを出発点にし、自己のよりどころにしておる。
 
正法ではこれを自我の迷執と教えて下さる。問題がほどけない。すべてが変わってしまう。変わると、頼みにしていたものがなくなってしまう。大安心を得ることができない。
 
何も頼みとするものはないのか。ありました。大確信を得ること。この大確信は決して奪われない。いかなる目にあっても、大安心に満ちている。お釈迦さまはそのお手本を示された。真の生きがい、それはご自分に目を覚ますこと。それ以外のものはすべて失われてしまう。
 
何をいただいたのかな。乾坤大地、一個の自己。有情非情、同時成道。草木国土、悉皆成仏。草も木もすべてだ。本来心は不滅です。生命の持続。
 
いばったところでそれ以上のものになる訳ではない。卑下したところでどこにも行きようがない。因縁生故無自性。守られきり。いただき切り。
 
私が、は尽未来際をつくしても存在していない。天地一杯ただこれこれ。守られ通しに守られて、いただき通しにいただいて。それなら少しいばりましょうか。いばる人がおられない。それではつまらない。そんなことはない。
 
仏々祖々。存在するすべての事実を見とどけた仏さま、本来心に円成された仏さまがいっぱいおられる。
 
本具仏性。この一真実を動揺させる何ものも存在しない。深い深い微妙の法。
 
お師匠さまから示されたこの事実に、そうでございましたと明らかに決定することができました。それしかおっしゃらないのですね。ほかには何も知らないのですか。「はいっ」
 
ただこの一真実に、親しく、親しく、行じぬいてまいります。この真実に行じぬいていくとは、すなおにすなおに、打てばひびくまっ正直に、お役に立ちますように、と。実行しなければ、どこにも行けない。
 
私が、があった方が生きがいがあると言いたいのでしょうね。私が、があったらいっぺんに落第ですよ。(2001・6・4。提唱)

 
接心第五日。もっとも充実するとき。練って練って練り上げてきた。
 
無常迅速。同じ状態は一瞬たりとも与えられない。けさも八十三歳のおじいさんが今生を卒業された。近くにおられたのだが、残念ながら坐禅にお見えになったことはなかった。皆さまは、我れ今、見聞受持することを得たり。
 
本分の自己。本物の自己。真実の自己。満タンの自己。円かなること太虚に同じ。欠けたる何ものもなく、余る何ものもなし。底のないどん底まで、徹底して信じきる。衆生本来仏なり、衆生のほかに仏なし、と。私が、をつかまえているあいだは、真に大丈夫とはいわれませんね。
 
本物の自己。少しは想像がつくような気がするかもしれない。しかしそれは頭に思い描いた世界。知はこれ妄覚、本物は知にも属せず、不知にも属せず。
 
この世界広しといえども、この地球、何十億の人が住んでいるといえども、同じ受け取り方をされる人はいない。同じ真実を受けとりながら、その人だけの世界。だから磨いて、磨いて、磨きあげて行かねば申し訳ない。一しゅの坐禅の実行、即一切のまごころにお応えする実行。自他不二と。
 
満点のお方が、満点の一切をいただき切って、どんなことがあっても動じませんと。そんなことができるんでしょうか。
 
まず大信根。本具仏性を信じておられる上にも、信じきっていく。決して、私が、には引きずり回されません。いよいよ精進の上にも精進。本来心そのものに親しい人に育っていただきますように。
 
はいっ、わがまま根性つかまえておりません。つかまえておらなくとも、長年のくせで頭を出す。一単提、一単提で行じぬいていく。
 
大死一番、大活現成。わがまま根性を手放して、自我の迷執がすっぱりと断ち切られました。まことの命の露堂々。自らが自らの本来心に準じきっていく。疑いません。本来心の尊さ、ありがたさ、言葉でもっては表せませんね。
 
さあご遠慮なく、親切に、なり切り、なり切り。限りのある私、などは用いているひまはありません。どうぞ、ご自身の尊い真実を、いただき切っている真実を、やり抜いていただく。(2001・6・5)

 
お教えの通り実行していけば、その通りの事実がある。その通りでした。力も入れず、心をもついやさず、仏のかたよりおこなわる。仏のかた、本来の自己、本物のご自分のありのまんま。生死を離れて仏となる。
 
ご自身の実行のつみ重ねが現れておるんだが、人のせいにしたがる。納得できません。何で私だけがこんな目に会うのですか。みんな自分が作り上げたもの。すべてはご自身なのだから。
 
本具の仏性を夢にも知らず、一切の真実をいただき切っておりながら、わがままな世界しか見えていない。悪業を積み重ねれば、待っているのは悪業の世界だ。
 
七十年、八十年たつと、赤ちゃんがお爺ちゃんお婆ちゃんになってしまった。私が、などというものはなかった。一切衆生は如来の知恵徳相を具有す。わがままな世界ではない。
 
さあ不滅の命のご主人公。この命に目ざめれば、わがまま三昧のその日ぐらしはできませんね。なに見ても、なにを聞いても、かたじけなしと。文句はありません。文句が出るどころではない。
 
本来心の全部。本来心のすべて。守られ切っている。なぜか。本来心だからです。本具の仏性。しかし自我の迷執のよそ見をすぐにしたがるから、油断はできませんぞ。
 
無字の万里一条の鉄。本来心が無字となって大活現成。いよいよ。ただこれこれ。何にもつかみません。ただ、すなおに、すなおに、本来心の一筋道。信じ抜いてまいります。(2001・6・7。提唱)

 
参禅の三要。この三つが確立したとき、必ず本来の歩みが確立していく。本具仏性の大信根。根本の第一歩。
 
ウバキクタ尊者の話。木の登って手を放す話。しがみつく何ものもありませんでした。(2001・10・1。提唱)

 
大信根。命が命のどん底から信じきって疑わない。正法をきいても信じる人は少ない。
 
大信根の決定。一切の大恩にいささかお報いができる。
 
自分という固まりをつかまえてしまうから、自他別。それが世法。世法をつかんでいくか、それとも世法を捨てて、仏法に準じてゆくか。
 
千仏万祖、本来の自己に目ざめ、限りなく、限りなく、磨いておられる。(2001・10・2。提唱)

 
みんなが救われる大安心の道がある。いい加減じゃだめだぞ。
 
坐り抜いて正身端坐。全身全霊。お教えしたとおり、腰骨の出発点のところから、ビシー。あごが出たら必ず腰抜けだ。(2001・10・3)

 
正身端坐。一日だけであっても、もったいない勝縁であるのに、一週間も坐りぬくことができる。幸せな中にも幸せな人。
 
全身全霊は本来の絶対のご自身であられる。対立するものなし。たった一人でございました。一人では寂しい。そんなお粗末なご自身ではない。私が、の一人っきりではない。この一真実。この親しさ。どの一点をいただいても、その一点がすべてをいただいておる。一即一切。この暖かさ。
 
千仏万祖の全身全霊。一切を与えきっておられる。一切を守りきって下さっている。時所位に順応して下さっている。文句は何もございません。そうです。いただき切っていて、文句がございますか。しかし文句は何もございません、というそのお方が大復活するまでは、ガタピシ、ガタピシ、不平不満。
 
どの一つに徹底されても、もれる何ものもない。必ずや、本来心は本来心に徹底する。さあ熟した上にもいよいよ熟していく。大切なところで遠慮なさることはありません。たった一人のために。その一人とはご自身ですよ。限りなく、限りなく、常にどこにおられても大丈夫。ただこの一真実のみ。
 
いくたびも、いくたびも、よそ見をするくせがついているけれど、必ずや手を打ち払うときがくる。真実に守られ切っているご自身ではありませんか。よそ見をしている人に、よそ見をしていてはもったいないと、自らの体験で教えてあげられるように、本気で実行していただく。
 
本来の自己。本具の仏性。どうぞ正法にあわんとき、世法を捨てて、正法に準ぜん。
 
頭で考えたのでは、まだまだ。本物に目を覚まさなければ。戸が開いたら、中に入ってしっかりと見とどけるのだ。死にきってみればまことの楽がある。死なぬものにはまねもなるまい。死ぬとはわがまま根性の死ぬこと。大死一番、大活現成。(2001・10・4。提唱)

 
よそ見をせず、本物になり切りなり切り、実行すべきことを実行し抜いていく。本物に親しくお目にかかれば、本物にならないではおられない。よそ見しておられません。ただこの一真実に行じぬいていくお手本。発願文。
 
いただき切っているから、いただき抜いていくことができる。この接心は皆さまお一人の世界だ。お一人でいただき切っていかれて、もうよそ見はいたしませんと。ただこの一真実。一つ切りの真実。
 
どっち向こうが、どちらに足を踏みしめていこうが、千変万化していこうが、この一真実はびくともするものではありません。どの点から申しましても、どの点からいただき切っていかれても、行じぬいていかれても、ただこの一真実。すべてのすべてと常にともに、であります。離れるものなど何もない。常に出発点。本物の丸出しの出発点。
 
よそ見をしないためにはどうすればよいのですか。ただひたすらに、ひたすらに、決定の一単提、一単提の精進であります。接心会、ただこの一単提。願わくはよそ見のくせを手放して。よそ見をしない本来の自己に復活。
 
暖かい、暖かい、大雪原の中に放り出されても、あったかいな。たちまち凍りついてしまいますよ。それでもあったかいな。一人で寂しくありませんか。寂しいというようなへだてはありませんでした。大自由、大自在。奪おうとしても毛すじも奪われるものはございません。
 
この一真実を信じぬいて、どんな目にあおうとも大信根の確立。ついに大地の有情とともに成道していただく。(2001・11・1。提唱)

 
窮すれば通ず。どうにもならず行き詰まったとき、行き詰まりがほどける。
 
私が、があるあいだは、へだてあり。本物ではありません。ほとんどの人が、私が、にとらわれ縛りあげられている。たった一人きりでおられるのに、ご自分に執着する。
 
打成一片。さあ目を覚まして下さいよと、警策を用いさせていただいている。(2001・11・2。提唱)


ご自分は一杯、人には二杯、ご飯を食べさせてあげなさい。
 
まっ正直な因果の理が、いま正直にあらわれておる。すべてが毛すじの狂いもなく、授かっておる。一切の天地のすべてをいただき切って、一歩、一歩、歩みを進めておられる。
 
ひょっとすると怠ける。ひょっとするとくしゃくしゃをつかまえる。ちっちゃい固まりにしがみついているあいだは危ない。安心ができない。失われてしまう。
 
わがままと本来心、けたが違う。わがままがいいと思うときもあるでしょうが、よそ見をしている間はよそ見です。見損なっている。(2001・11・3。提唱)


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